「私の妹は、独特な特徴を持つ難病。病気の特徴で水や光、キラキラした物を凄く好む。感性の赴くまま良く笑うんだ、興奮しやすい」
同期の山路さんが心を閉ざしがちな訳を、ようやく、でもほんの少し掴んだ。
3つ歳下の妹さんは、1万5千人に一人くらいで発症する、アンジェルマン症候群だった。
こちらの病気は「特定の遺伝子」が、変異して起こる。それは神経の発達や、機能を維持するために働く遺伝子だ。だから神経が関与する、様々な症状が現れてしまう「症候群」。
妹さん症状は発達の遅延、知的障害や活動過剰、てんかん発作と振戦、睡眠障害などがあった。
しかし変異した遺伝子は身体的な症状ばかり、起こすとは限らない。
光やキラキラした物に反応して、よく笑う。
繊細で豊か、個性的な感性をも生み出す…こちらもアンジェルマン症候群の独特な特徴だ。
「病気平癒など、音龍寺の御本尊、薬師如来さまへ参拝する方は多いでしょう?妹を連れてお参りしたいけれど、感じたままを素直に表現してしまう。静かに参拝できないから、周りに迷惑を掛けてしまう」
山路さんは遠慮した。
こんな時こそ、次男坊の出番。
「妹さんやご家族を、薬師如来さまは待っているよ。迷惑でなければ、お寺の次男坊が案内するよ。参拝の後、ぜひお勧めしたい場所……」
「山野君ありがとう、私の妹、絵理奈です」
山路さんが珍しく僕の説明を遮るように、嬉々として、スマホを操作し始めたから口を継ぐんだ。
でも次の瞬間、僕は息を呑んだ。
画像では透けるような白い肌、肩越しの金髪、ブルーグレーの光彩と茶色の瞳を持った女神が微笑んでいた。
絵理奈さんの容姿はアンジェルマン症候群の症状の一つ、顕著な低色素だった。
「山野君、私達姉妹にお勧めの場所って、音の泉のコト?参拝の後で、立ち寄る人が多いのよね」
「そうそう、裏山は湧水が湧いてる。泉の周りは、バラの花が自生してるよ」
かつて音の泉は、人間や動物達、植物の命を救ってきた。バラはいつの間にか、自生した。感性豊かな二人の女神に、ぜひ訪れて欲しい泉だ。
9月4日日曜日
「参拝当日、急変の対応で約束の時間に遅れたんだっけ」
僕は寝言で目を覚ました。
独身時代の夢を見た。
あの時は「家族性膵臓癌」術後の患者さまが、合併症を発症してしまった。
膵臓頭部を切除した残りの膵管と、空腸の吻合部に「膵液漏れ」が起きた。糖尿病もあったので、縫合不全のリクスが高い方だったな。
スマホが表示する時刻は、8時15分前。
なんせ嵐の一夜だった、横になった正確な時間は覚えてない。
「ヨッコラショ…」
腰に手を当てて、当直室のベッドからおそるおそる、起き上がってみる。
昨日ミラの血管造影後に発生した、腰痛の具合はどんなもんだろう。
「オッ、ヨシヨシ…」
痛みは、ほぼ感じない。
スイミング前の息子達と、ドライブできるな。
鎮痛剤よ、ありがとう。
窓際へ歩いて、カーテンを開けた。
当直室は病棟の隅っこだが、南に面している。病棟から眺める景色は「抜群」、患者さまやご家族から評判は上々だ。
今朝は神秘的な風景が広がっていた。
「あらまあ。幻想的な、彩雲だなあ…」
雲間にのぞく蒼い空は、神獣ドラゴンの頭をイメージした。
首にぶら下げた八角形のメダイ・コールを、神獣の頸部付近へかざしてみる。
なんてったって、これは神々と繋がる貴重なナース・コールだ。
神獣も、身に付けているかもしれない。
メダイ・コールは昨日、女神たちから受け取った。ミラのインスリノーマ、「膵NET G3」について、説明したあとだった。
内容はPET‐CTび、SACIテストを実地した血管造影の結果についてだ。カルテ画面には、検査画像を出しつつ、僕は「肝胆膵」系統のイラストを、敢えて描きながら説明した。
結果に対する、緩和効果を期待した。
と言うのもミラに発覚した「膵NET G3」の腫瘍は、良性と悪性の中間グレーゾーンの分類、増殖スピードの速い数値が出たから。
「インスリノーマは膵臓の頭部と体部に、一つずつ。そして肝臓の転移は4つ、判明しました。右葉に1つ、左葉に3つです。肝臓に転移した腫瘍の精検結果で、総合的な治療が決まります」
最初に、数値やリアルな画像を参考にしたあと。僕は自分のお腹に、不格好な日傘の形をした「肝胆膵」を押し当てた。
左指で、腫瘍の場所を示した。
「一太、病気の状態は了解した。膵臓と肝臓の治療をミラの状態に合わせて、更に学んでおく」
知恵の女神ミネルヴァは、PET-CTと血管造影の画像を、瞬きもせず見つめていた。
続いて「不格好な日傘」を自分のお腹に当てながら、画像と比べていた。
「肝臓転移も含めた治療は、時間が掛かってしまいますが。5年後も、その先もガイウスと二人で鎮魂の旅を続けられるよう、消化器外科・内科は全力でフォローします」
知恵の女神は、僕の説明に何度も頷いて理解を示してくれたが。同時にハラハラと、涙をこぼしていた。
普段はクールな女神の、深い優しさを垣間見た僕は、胸が熱くなった。
「可能性は低いとしても。ミラの記憶障害の原因の一つが、若年性アルツハイマーの早期段階ではないように。古代ローマの神々へ、祈るばかりです」
「月曜日の午前中に頭部MRIを行って、PET-CTの結果と比較します。脳外科には否定するための、診察を依頼しました。結果が出るまで、僕もモヤモヤしています」
真紀子さんの旦那さんは、伝令の神メルクリウスだ。書記担当の彼女は、手帳にメモを走らせていた。説明の間、一度も顔を上げなかった。
胸の内で伝来の神さま…旦那さんへ、報告を兼ねた祈りを届けていたのかもしれない。
「思ってもみなかった肝臓転移は、さすがにアタシもショックよ…。伝令の神メルクリウスが、冥界の遣いに戻ったような気分」
愛情深い女神ウェヌスは、検査結果から視線を逸らしてしまった。ウェヌスも、ヘビーな病態を目の当たりにして、かなり落ち込んでしまったようだったが。
でもそこは、さすがムード・メーカー。
「そうだ、こんな時だからこそアタシ、ヴィーナスの誕生を想像してみて」
美の女神は目を赤くしながら、ニコッと微笑んだ。
「腫瘍は、香しい薔薇の花びら舞う風に吹き消されるか、真っ白な海の泡で洗い流される。そんなシーンが浮かばない?」
最後に女神ウェヌスは、ウインクしてみせた。
そしてミネルヴァの涙を、青いバラ模様のハンカチで抑えた。続いて、真紀子さんの背中をゆっくりさすった。
そして青いバラの花言葉は「奇跡」「神秘的」、「神の祝福」こんな意味がある、皆に披露した。
「ミラは数少ない、女性ファイターの先駆けよ。現代医学と私たちの力を合わせて、彼女とガイウスの未来を祝福できる、神秘的な奇跡を起こしましょうよ」
女神ウェヌスの発想の転換に、僕は感心した。それだけではなく「I.Cの個別性について」、考えさせられた。
とにもかくにも美の女神が機転を利かせてくれたお陰で、I.Cを終える頃には、相談室の空気は調和が取れた。
「申し訳ない。私としたことが、つい先々を考えすぎて、ブルーに傾いてしまった。
一太どのと、絵里先生にも、女神ディアナの捜索を協力して欲しい」
ミネルヴァはたすき掛けにしていたレザー・バッグから、金色の袋を取り出した。
「うわっ僕ら夫婦にも、治療以外の役目があるなんて、嬉しいです」
僕は袋を受け取ると同時に中をのぞいた、2本のメダイが入っていた。
噂には聞いていた八角形のメダイを取り出して、手のひらに乗せた。裏表ひっくり返してみる、2本は装飾のないシンプルなデザインだ。
このメダイ・コールは、ミラが真紀子さん宅で24時間絶食試験を実施した際、倫太郎らが用いた物だった。魔術の貴公子ナルキッソスの手掛けた、傑作の一つ。
今度は女神ディアナの探索に、活躍していた。ガイウスを始め、捜索隊は身に付けている。
僕らも女神ディアナと思しき「サイン」に遭遇したら、コールして神々に知らせる。
昨日から倫太郎と亜子ちゃんも肌身離さないでいた。バッカスが、ガレノスの付き添いで羽沢クリニックを受診した際に、持参したそうだ。
僕は女神達へI.Cを終えてから、仕事を終えた山路先生が自宅へ帰る前に、大事なメダイの取り扱いを伝えた。
「メダイの中央を、左人差し指で押すと、神々へコールできる。我が家仕様で、誤作動予防機能付き、さすがだね」
「魔術の貴公子の心遣いに感謝して。私達も女神ディアナの行方を、真剣に探しましょうね」
四頭立ての戦車に乗せてあげよう…そんな約束を交わした、皇帝ガイウスの華麗さ大胆さに憧れてやまない、ヤンチャな双子君だ。ミッションの協力はエンジン全開、張り切るだろう。
メダイの誤作動予防は、有難い。
しかし…メダイを受け取ってから、24時間以上が経過した。
この間に一度も、コールは鳴ってない。神々の力を持ってしても、結界を張ったかのように女神ディアナは以前、行方をくらましたままだ。
僕はまさかの「体調不良」が、一瞬、脳裏をかすめた。酒神バッカスだって、慢性疲労症候群で療養中だもの。
ディアナも病気の可能性は否めない。
女神この行方はミラの病状にも関わっている、早期発見は大事だよなあ…。
ディアナは生まれ変わりへ進まない魔術を、ミラに掛けたようだ。現在溶け始めた魔術は、「病気」となって綻びを見せている。
果たしてミラの状態は、繁殖、命を司る女神ディアナの意図か?
もしくわ他に原因があるのか、女神に訊ねなければ分からない。
僕は神聖なメダイ・コールを、きちんと首に掛けなおした。
よし、このコールが鳴る前に、当直最後の仕事に取り掛かろう。
デスクの椅子に腰かけて、カルテを開いた。
看護記録の方は夜間のトピックス以外、ほぼ、バイタルサインの入力のみ。
夕べ病棟は、日付の変わった3時近くまで、ナース・コールが鳴らない時間はなかった。
嵐の一夜だった。
消化器病棟には放射線治療や薬物療法、術前術後の患者さまを始め、ご高齢の方もいらっしゃる。ベッドの回転数が速い分、入退院が多い。
ナース・コールの「連打」は、人間だもの…そうしたくなる気持ちも分かる。
慌ただしい病棟の様子から、僕はナースステーションで仕事をした。直ぐに対応するため、スタンバイしていた。
最後の仕事は交代で勤務するアルバイトの医師へ、簡単な引継ぎだ。
ナースを真似て、「患者さまの申し送り」を、ノートへ記入しよう。
特に今日は、当院は初日の若手医師だ。内容は、夜間に変化のあった患者さまが中心だ。
詳細はカルテを参照するだろう。
まず最初は。
原疾患で緊急入院したものの、「夜間に急変を起こした患者さま」を申し送りしたい。
『510号室 柿沢正弘さん(68歳)
総胆管結石・胆管炎・閉塞性黄疸にて緊急入院。
上記診断にて外来で、内視鏡的経鼻胆管ドレナージ開始、減黄処置スタート』
時刻は12時、土曜日の外来は終わりに近づいていた。柿沢さんを診察した山路先生は、自覚症状から「肝膵胆」系の腫瘍も疑った。
「以前から感じていた、食後の腹痛が急に強くなった」
「皮膚の黄染も、日を追うごとに増していたんです」
本人と奥さんは、経過を説明した。
そこで柿沢さんには、採血もろもろ、腹部エコーやCT、MRCP(核磁気共鳴胆管膵管造影…MRIで胆嚢や胆管、膵管を映し出す検査)を受けて頂いた。
その結果、総胆管結石と胆管炎、閉塞性黄疸が判明した。
胆石は胆嚢内で徐々に大きくなった。やがてコロッと…転がって「総胆管」へ落ちた。しかし総胆管の途中で、胆石は詰まってしまった。
詰まった場所は、消化器科医師であればヒヤッとするだろう。「膵・胆管合流部」のやや手前だった。
胆汁と膵液は、膵臓の頭部にある「膵管合流部」が出口で、ここで十二指腸へ繋がっていく。
胆管を流れる胆汁も滞ったため、全身皮膚の黄染と閉塞性黄疸を起こしていた。
膵液もうっ滞して、膵炎になる手間で発見されたのは、幸いだった。
この状態から山路先生は内視鏡を応用した、内視鏡的胆管ドレナージを行った。
ますは胆汁を体外に流して、炎症と閉塞性黄疸の改善をはかりつつ。週明けから胆石を砕いて、取り除いていく予定だ。
緊急入院した柿沢さんの治療は、ここまでは合併症なく進んでいた。
検査で用いた造影剤…このアレルギーは、およそ8時間後に起きた。
体の異変を感じた柿沢さん自身が、ナース・コールを押した。
コールを取ったのは、たまたま510号室の前を通り掛かった看護助手金沢さんだった。
部屋に入ると、柿沢さんがオーバーテーブルに両腕を投げ出して、突っ伏していた。
『20時30分、検査時に用いた造影剤による、遅発性アレルギー・ショックを発症。
発症時、意識レベルⅡ-20(刺激で覚醒する)。全身性の発赤疹と意識低下あり。ステロイド及び昇圧剤を投与後、症状は改善。
引き続きドレーンからの排液等含め、全身状態チェックお願いします』
柿沢さんの担当ナースは、中里さんだった。夜間帯、責任者だった彼女は僕と対応に入りつつ、新人ナースさんへ急変時の対応を教えた。
だから510号室では、スタッフ3人が奮闘した。
となると消灯前の病棟、ナース・コールが多い時間帯は、残りの夜勤メンバー2人で患者さま57人と対応する事になった。
ナースと看護助手さん、一人づつだ。
ヘビーな時間帯のナース・コールの中で、アルバイトの医師へ申し送りをしたい患者さまが、他にもいる。
『511号室 松本久美子さん(46歳)・家族性膵臓癌(膵頭部)にて、術前の薬物療法中。
副作用及び原疾患による症状出現あり。昨夜、副作用の「悪心・嘔吐」を対処中、過換気症候群を出現。抗不安薬にて症状は改善、その後は良眠』
松本さんは、外来通院で膵臓癌の治療に取り組まれていた。
それでも術前薬物療法の副作用がシンドイ時期へ差し掛かり、入院治療へ切り替えた。
現在の松本さんには骨髄抑制が出現、免疫力が低下し易感染状態だ。更に膵臓癌からくる症状、倦怠感や消化器症状(食欲不振や吐き気など)、疼痛(腰背部痛)も重なってしまった。
易感染状態なので、極力面会は控えて頂いている。病棟スタッフも、仕方ないとはいえ、防護具…マスクとガウン手袋を装着した対応だ。
入院生活はどうしたって、孤独や不安を感じてしまう。そんな中、夕べは症状コントロールをしているうちに、「過換気症候群」を起こしてしまった。
21時前、松本さんは大学1年生の娘とラインでやり取りしていた。
「ママ、外泊はいつ解禁?彼を紹介したいんだ。先にご対面したパパは、ルルちゃんを抱っこして、それでも緊張してた」
「ママの白血球とシーアールピーが上がれば、解禁になるかな?週明け、石川君に聞いてみる」
返事はしたものの、ボーイフレンドとのご対面は、先になるだろう。
例え易感染状態から回復しても、手術を控えている自分の体は、とてもデリケートな状態だ。
猫のルルちゃんは、じゃれて引っ掻かくかもしれない。私の皮膚は薬の影響で、弱くなっている。糖尿病ではないが、傷は治りにくい状態だ。
そして今回の治療が終わったら、大きな手術が待っている。手術のあとはもう一度、薬物療法の予定だ。
「外泊は慎重に」
娘とそれほど年齢は変わらない主治医の石川君、いいえ石川先生から、入院時にこんな説明を受けたな…。
松本さんは、家族が恋しくなった。
窓際のソファに腰かけていた彼女は、自宅の方角を眺めた。外は暗い、ガラス窓に点滴スタンドが映った。
「制吐剤入りの点滴が、そろそろ終わる。残液は点滴ボトルの、クビレ部分まで到達しそう」
食欲も出ないから、500MLの点滴に制吐剤が混注されている。
今夜の担当ナースは娘と歳の近い、新人さんだ。周りは先輩だ、少し肩身が狭いかもしれない。娘の未来を想像しながら、ラインを打った。
ところが娘から、予想外な返信が届いた。
「ママ、点滴をそのままにしたら、空気も一緒に血管の中へ入っちゃうよ。危ないんじゃない?早めにナース・コールした方がいいよ」
娘の一言で、ハッと我に返った。
点滴のボトルとライン、そして左腕に挿入された針先まで、空気の有無を確かめた。
同時に亡き父の闘病姿が、脳裏を過ぎった。
家族性膵臓癌家系だから、万が一を考えて検査を続けていた。それでも父と、父の弟と同じ病気を発症してしまった。
担当の新人ナースさんは、そろそろ、就前の部屋まわりへ来てもいい頃だ。
「点滴が終わる時間に、訪室します」と出てったきり、まだ現れない。
しかも部屋の外から、「急変だ…」。
不安を煽るような医療スタッフの声、バタバタ足音がする。
娘の言う通りだ。
他の患者さまの陰に隠れて、私の事は忘れられてしまったんだ。
左腕の血管に空気が入って、私も急変するかもしれないのに…。
松本さんはナースコールを押した、同時に突然、「胸が痛く」なってきた。
膵臓頭部癌の痛みは、腰や背中に出ている、「左右の胸」の痛みは初めてだ。
既に空気が点滴から体内へ入ってしまった、これが胸の痛みの原因だ。
実は胸痛が現れた時点で、「過呼吸発作」を起こしていた、胸痛も症状の一つ。
ところが松本さんは、娘さんのアドバイスも影響して、半ばパニックに陥っていた。自分を担当する新人ナースではなく、代わりに木崎さんが訪室するまで、コールを「連打」した。
対応したナース木崎さんは、僕にピッチで報告した。僕は隣、519号室、アナフィラキシー・ショックの対応で、その場を離れる訳にはいかなかった。
木崎さんの報告よると。
松本さんの「過呼吸発作」は、それを示す心電図波形も現れた。
酸素飽和度は高く、100%。過呼吸と同時に、相反する呼吸苦を訴えていた。
僕はナース木崎さんへ、対処の指示を出した。抗不安薬を注射してもらい、症状の改善を図った。
本来、過呼吸発作はゆっくり呼吸をする、もしくわ目安の秒数で呼吸を繰り返せば、症状は自然に改善する。僕が松本さんを診察した時点で、それが可能な状態まで症状は改善していた。
落ち着きを取り戻した松本さんは、過呼吸発作が発症するまでの、経緯を詳しく話してくれた。
最後に、娘さんとボーイフレンドが満面の笑みを浮かべた写真を、僕と木崎さんに披露した。
彼女は複雑な胸の内を、聞いて欲しかったのだろう。
「一太先生、覚えてる?父が膵臓癌の治療を始めた頃、娘は小学校入学を控えていた。私は父と、父の弟と同じ病気よ。娘も定期的な検査を受けた方が良いね。遺伝子の変異は、娘も起こるかもしれない」
朝方、僕の夢に出てきた患者さまは、松本さんのお父さんだ。立花先生とそして僕が、母校の大学病院に在籍していた当時に、お父さんは「膵頭十二指腸切除術」を受けられた。
膵臓の頭部、胆嚢と胆管、胃の一部を切除する侵襲の大きな内容だ。松本さんも、お父さんと同じ手術を予定している。
でも既往歴を始め、全身状態は異なる。娘さんが、父親と同じ術後の経過を辿る可能性は低い。
さて最後にナース木崎さんが「今回の空気塞栓」について「この場合は起こらない」。
カラクリを分かりやすく解説して、松本さんの混乱を解消してくれた。
輸液ポンプなどを使用しない場合、点滴ラインに付いたクレンメで、速度を調節したり止める。
だから点滴液はクレンメを閉じなければ、ルート内を落ち続けて、ボトルの内部にある空気も血管内へ、入りそうに見える。
ところが実際、輸液は自然と止まる。
だから空気も入らない。
これは「血圧」が鍵を握っている。
血圧は、空気の重さ圧力よりも高い。大気圧と言い換えても良い。
だから血圧と空気の力が、いい塩梅で張り合った時点で、輸液はストップする。
点滴ルート内部まで下がっていた空気も、先に進まないで止まる。
松本さんの場合は、こんなカラクリで空気は血管に入らない。
ただ輸液が完全にストップしてしまうと、他の問題が発生する。血液はルート内部を逆流して、さらに凝固する。凝固機能を持っているからね。
「そうなると、ラインは詰まってしまいます。申し訳ありませんが、針の差し替えになってしまいますね」
「今の私は血管も細い、特に新人さん泣かせ。お互いシンドイ思いをしてしまう。
でも手術前には、CVカテーテルを挿入する、石川君から言われてる。今度は輸液ポンプが、点滴の終了を教えてくれるわね」
ナースと患者さまの、冷静なやり取りに安堵した僕は、ナース・ステーションへ戻った。
時刻は22時近くだった。
せん妄が起きているミラは、車椅子に乗って過していた。
『予備室 ミラ(推定29)歳
インスリノーマ(膵臓頭部と体部・及び肝臓転移)にて症状コントロール、手術目的にて入院。
低血糖症状は、高インスリン血性低血糖治療薬でコントロールは比較的、安定。
昨日、血管造影とSACIテストを終了し経過良好。回診時、右鼠径部の動脈穿刺部ガーゼ固定、除去をお願いします。
記憶障害の原因は、原疾患を疑っていますが、明日、精査予定。
せん妄に関しては、精神科フォロー中です』
ミラも全身状態、急変の可能性は否めないけれども。血管造影とSACIテスの後は、キーパーソンの協力もあり、夕食前にベッド上安静はスムーズに解除できた。
造影剤アレルギー症状も出現せず、経過している。想定外、緊急入院の患者さまだった。
せん妄は昨晩も、面会時間が終了した19時頃から、徐々に強くなった。ミラは幻覚が含まれる帰宅願望を訴え、多動になった。
消灯時間まで予備室で一人で過ごすと、ベッドから転落やライン類の自己抜去など起こしてしまう可能性が高い。
ミラは転落予防の安全ベルトを、越に装置にした。車椅子に乗って、22時過ぎまでナース・ステーションで過した。担当ナース中里さんが、ラウンドから戻るまでだ。
僕がナースステーションで仕事をした理由の一つも、せん妄時のミラを確認したかったから。
昨夜は入眠前の抗精神薬を木曜日の入院以降、始めて内服してくれた。それまでは点滴から投与した。なぜか就寝前の薬だけ、経口を強く拒んでいた、その理由は分からない。
ミラの治療も、長期戦になりそうだ。
『以上、宜しくお願いします。
消化器外科部長 山野一太』
さて、申し送りは終了だ。
そうそう…夜間の送りを書き終えて、思い出した。急変の対応を終えた僕がステーションに戻った際、他のスタッフは不在だった。
せん妄を起こしたミラは、幻覚も視えていたのだろう。剣闘士の医師フェリクスと、看護師ルカに話しかけている様子だった。
「フェリクス、ルカ。私を救ってくれてありがとう。残り一試合、このまま無事に引退したい」
僕は「フェリクス医師のカルテ」を読んでいた。彼女が訴えるシーンを、想像できた。
おそらくミラが引退直前の試合で、生死の境を彷徨った、その後の回復過程だろう。
ミラの訴えで返事を返したのは、僕ではなかった。大腸癌の再発・肺転移で薬物治療中の、林和子さんが登場した。
林さんも、夜間せん妄を起こしていた。入眠まで車椅子に乗ってステーションで過していた。
ミラと隣り合っていた。
「金髪の貴女、お国はどこ?私は海外旅行が好きで、ヨーロッパも出掛けた。丸い競技場の遺跡を見物した」
「ローマ帝国は広い、各地に競技場があるでしょう。貴女はどこで、私の試合を見物したの?」
何気に二人の会話は、筋が通っていた。僕は突拍子もない偶然に驚いてしまった。
こうして嵐の一夜、当直最後の仕事を終えた。
僕はバッグを持って、当直室を出た。
病棟の廊下は、ひっそりしていた。
嵐の一夜だったから、大半の患者さまは休まれているだろう。
休日は朝の回診も、スタート時間は当直医師によって微妙に異なる。その辺り、患者さまも承知されているだろう。
遠目ごし、スタッフの代わりに中嶋久さんが、吹き抜け部分のカーテンを開けている。
彼は今日、退院だ。肝臓癌の「再発」は、まず肝動脈化学塞栓術を選択された。
2週間後、僕の外来へ顔を出してくれる予定、中嶋さんも長いお付き合いだ。
夜勤スタッフの姿を見かけない、まだ朝のラウンド中だろう。
ああっ、予備室へ向かうナース中里さんが僕に気が付いて、手を振ってくれた。
これからミラの検温だな。
僕も同じように手を振った。
残念ながら、退職を希望している中里さんと、夜間に話しを出来なかった。中里さんも、雑談を交え、そんな気配を見せてはいたんだが、何せ時間が足りなかった。
僕は院内の人事に関わっている。彼女の退職希望について、気がかりな点がある。
福田主任によると。退職希望は、消化器外科以外の専門を身に付けるため、と明かしたそうだが。それがなんであるか、口を閉ざしたままらしい。
「ナースにも、消化器疾患の専門資格があるでしょう。ミラさんを担当して貰ったのも、将来を選択する上で勉強になると判断したんだけど。そうでは無かったみたい」
部下の本心がわからない福田さんも、真剣に悩んでいたっけ…。
僕は普段に比べると、すこし重たく感じるドアを開けて、職員用階段を下りた。
現在の僕は、朝方の夢に出てきた若かりし頃、ミラを始め患者さまの治療だけに、専念できる立場でもなくなった。福田主任と似たようなポジションな訳で。
当直をしてみると、入院環境にも、テクノロジーの進化をもっと導入すべきだ、痛感する。
少子高齢化は進むでしょ。
リストバンドの代わりに、バイタルサインを測定できるウォッチとかさ。他にも患者さまの移動を手伝える、介護的な部分を補えるロボットは必要だ。
現場スタッフだって患者さま並みに、腰痛を始め体の故障、いや心身のバランスを崩しやすい状態だ。嵐の一夜を経験すると、現場の声をもっと伝えたくなる。
あっ。考えこんでいたら、いつのまにか一階のロッカールームへ到着していた。
着替えをしながら、敢えて隅に追いやっていた疑問について、ようやく思い巡らした。
その内容は、ミラを生まれ変わりへ進めたい「彼ら」についてだ。
彼らは何故か、多忙な夜間は現れなかった。
昼間は血管造影室までやって来て、僕らに幻覚を見せた。その間にミラを、「自然な形で、生まれ変わりへ進めよう」としたにも関わらずだ。
夜間は彼らの気配に、僕が気付かなっただけだろうか?しかしミラは消灯過ぎまで、林さんとナース・ステーションで過していた。
幾らでも「機会」は、あったはずだ。
一体、彼らは何者なんだ?
神々の使いでない事は、ほぼ間違いないだろう。
生まれ代わりへ進める役目を担っている割に、デンジャラスな手段を選ぶし。最高神ユピテルを始め、彼らについて心あたりが無い。
昨夜は倫太郎へメールを送る時間、頭を整理する余裕も無かった。
彼には女神ディアナの行方など、神々から新しい情報はあったろうか?
そうだ車の中で、メールして確かめよう。
着替えを終えた僕は、ロッカールームを出た。
家族の待つ駐車場へ向かった。
「今朝の彩雲は絵理奈が喜びそう、神秘的ね。1時間以上前から現れて、形を変えているわ」
「あれっ、おかしいな。あの彩雲は、僕が目覚めた時点で、現れていたよ」
「今ごろは絵理奈ちゃん、日曜日のアレが終わっただろうなあ」
「裏山のてっぺんで、彩雲をスケッチしているかもしれないよ」
意気込んだ駿と潤は、赤いスイムキャップを被り、お気に入りのクリア・ゴーグルを額に付けている。もちろんメダイ・コールは首に下げている。
僕は不思議な彩雲をボ―ッと眺めて、助手席で揺られているうちに眠気に襲われた。
当直明けの睡魔は、大抵緊張が解れた頃、時間差で襲われる。
つい、ウトウトしてしまった。
「潤。あの彩雲はまるで空を泳ぐ、神獣に見えやしないか?」
「同感。雲はさっきまでクジラみたいな形で、今は鹿かペガサスの姿に見える」
ガサガサッ…。
息子達の体が近づく気配を、遠くに感じた。
その時だ。
駿と潤は運転席と助手席の隙間から、彩雲を指さした。
僕は南の空を、自分の目で確かめた…うん、錯覚じゃない。
今度は絵里さんの集中力とハンドルがブレないように、僕は丁寧に誘導した。
こんな時の奥さんは、昔を思い出しているかもしれない。両親と共に、体調を崩した絵理奈ちゃんに付き添い、急遽病院と自宅を往復した。
駿と潤は住所をメダイ・コールで伝えながら、公園の内部へ駆け出していた。
僕と絵里さんも、急いで息子達の後を追った。
目の前にペガサスが二頭、風を切って登場した。ネロとチェトラの兄弟、即配コンビだ。
駿と潤はペガサスの背中に、ひょいと乗ってしまった。
息子達を引き上げたのは、酒神バッカスとガレノス先生だった。
皆、首からメダイ・コールを下げていた。
僕と絵里さんは、自然と神々へ深くお辞儀をしていた。ヤンチャな息子達にとって、おそらく冒険の旅になるでしょう…宜しくお願いします。
そのあと、体を起こした。
まるでタイミングに合わせたかのように、ポケットに入れたスマホのアラームが鳴った。
倫太郎からのラインだ。親友は僕らの様子を、メダイ・コールでキャッチしたんだろう。
「タブレット・ミラーに、ライブ映像が配信されてる。駿と潤の行先は、見失わずに済むよ」
「倫太郎、サンキュー」
それは知らなんだ、僕は急いで返信を打った。
さすが魔術の貴公子ナルキッソス、我が家の誤作動予防だけでなく、「急変」も対処されていた。
更に倫太郎は、情報を補足してくれた。
ガイウスとマルスもタクシーバタフライに乗って、巫女の家から出発していた。
伝令の神メルクリウスは、ドイツ方面から引き返していた。
焔の鷲も、現地は向かっているそうだ。
彼らは女神ディアナが過ごすだろう場所で、合流する予定らしい。
「ペガサスは音龍寺の方角、西へ進んでいるの?亜子ちゃん、ナビゲートを続けて」
いつの間にか絵里さんは、亜子ちゃんと通話していた。
当たり前だけどペガサスは神獣だ、空気抵抗もなんのその。ネロとチェトラも宣言していた、それこそF1マシン以上の速度で、天空を走行できるだろう。
この公園から音龍寺まで、20キロ以上は離れている。安全走行をモットーにするペガサス一行は、時空のトンネルを通過したに違いない。
僕と絵里さんは、駆け足で車へ戻った。
空の変化は、ハッキリ分かった。
女神ディアナと鹿が消えた彩雲は、姿形を変えていた。
どうやら僕にとって壮大な嵐の一夜は。
ある意味、まだ続いていたようだ。