当院はAngiography(血管造影検査)室を、3室完備している。
第1は脳外科・脳血管疾患に、第2は循環器・心疾患に対応している。
僕ら消化器疾患のフィールドは、第3造影室だ。
いずれも多くの医療機器が備わっている、さながらミニオペ室だ。
第3アンギオ室には、消化器外科内科のスタッフが数人揃った。仕事の合間を縫って集まった熱いメンバーは、女性剣闘士ミラの膵臓に発生したインスリノーマ、「膵NET G3」の治療に注目している。
血管造影と当時に、選択的動脈内カルシウム注入試験(以下SACIテスト)行い、腫瘍の発生場所と確実にインスリノーマであることを確かめる。
検査室内は僕を含め医師3人、臨床工学士の北浦さん、看護士島崎君が動いている。
マスクを装着し、帽子をかぶっているため、お互いの表情は分からない。
ガラス窓で仕切られたワークステーションは、こちらより幾分、人数が多い。
機械の操作や撮影を担当するアンギオ君こと放射線技師の宮島君を始め、数人の消化器外科・内科医師だ。
副部長中林先生はアンギオ君の右横、最前列に陣取っている。造影室とワークステーションは主にオンラインで、時にはマイクでコミュニケ―ションを取れる。
さて検査台へ臥床するミラには、首から足元まで検査用の布が掛けてある。彼女はせん妄を発症してしまったので、検査中の安全を優先しセデーション(鎮静)を掛けた。
胸腹部を覆う布は呼吸に合わせて微かに上下して、コンコンと眠っている状態だ。
ミラ、負担の大きな検査が続いている、色々すまないね。閉眼し規則的な呼吸を繰り返す彼女に、僕は胸の内で伝えた。
血管造影は右足の動脈から長い針を通して、カテーテルを通していく。
シンドイ検査中に、出血や造影剤漏れなど合併症なんか起きたひにゃあ、トンデモナイ。自分が患者さまだったら、臆病なもんで正直怖いです…ハイ。
検査に対して患者さまが抱く気持ちは、分っているはずなのに。
僕は朝イチで、やらかしてしまった。
それは病棟の予備室でミラを診察してセデーションをかける前だ。
「ミラおはよう、主治医の山野一太です。ミネルヴァとウェヌスも、朝からご苦労様です」
「おっ…おはよう…」
ミラは怪訝そうな返事をした、これは仕方ない。意識が清明であれば人、時間や場所、置かれている状況などは、カチャッと分かる。
夜勤のナースの報告では、夕べは消灯前、興奮を鎮める薬の内服を拒んでしまった。前日と同様にセレネースを点滴から投与して、「朝方まで」入眠できた。
それまでは興奮し多動だった。声を上げたり、ミトン手袋をはめたまま、器用に両手の抑制帯を外し、ベッド柵を乗り越えようとした。
このまま予備室で、一人で過ごすのは好ましくない。
超過勤務中の日勤ナースが、昼間と同じようにミラを車椅子に乗せて、ステーション内で様子を見てくれた。 キーパーソンが不在の時間は、スタッフも工夫をしてヒヤリ・ハットを避けている。
ミラは精神科のフォローも入った。日中も比較的効果の短い、抗精神薬を内服している。
せん妄の改善は個人差がある。彼女は病状も影響しているため、改善には時間がかかりそうだ。お世話になっている精神科の先生は、検査データーや画像所見から、見解を示した。
今朝、僕の何気ない言葉がけで、負担のかかる検査を控えたミラを、ヒートアップさせてしまった。言い訳になるけど、せん妄時のコミュニケーションって難しい。
「検査の結果は、ローマへ戻ったガイウスにも伝わっているからね」
「ガイウスを追いかけなきゃ。アタシを剣闘士訓練所に、閉じ込めたのは誰?手袋を取って、訓練所から出して!今、アタシは急いでいるの」
興奮してしまったミラは、低下した長期記憶の一部と、幻覚も混ざったような帰宅願望を強く訴えた。彼女はミトン手袋を、で引っ張ったり、左足首に巻いたリストバンドを、血管造影で穿刺する右足で擦った。窓から差し込む朝日で、茶色の瞳はランランと輝いてみえた。
…せん妄は、日内変動しますよね。ちょっとした言葉がけでローマ皇帝、いえ彼に会いたくなるもんでしょ?山野センセー、そういうトコ疎いんですよ…
僕が日勤でミラを担当するナースさんから、諸々の意味が含まれているだろう、クールな視線を浴びている間だ。
空気を読んだ知恵の女神ミネルヴァが、機転を利かせてくれた。ミラの関心を、自らに引き付けてくれた。
「ガイウスは行方をくらました女神ディアナを、神々と共に探してる。寂しいだろうが、当分面会は来られないよ」
「誰も力を貸してくれないなら。アタシは一人で故郷へ帰る、ライン河の対岸よ」
えっ、故郷へ帰る?興奮と幻覚に紛れ込んで、奥底に眠っていた願望が現れたんだろうか?
僕は妙に気になった、時間も押しているのに、その先を確かめたくなってしまった。
しかしナースはタイミングを逃さない、シリンジの乗ったトレーをスッと無言で差し出した。
検査の進行を左右する大事なトレーを受け取った僕は、鎮静剤のドルミカムを、PICCカテーテルから注入した。薬液が血管に入るなり、茶色の瞳は閉じた。
こんな経緯を経て、ミラは眠ったまま血管造影室へ移動した。
現在、彼女の体には手術さながら、様々な医療機器が付いている。胸部は心電図、左上腕と第2指は自動血圧計とサチュレーション・モニター(酸素濃度測定)。
左腹部には、持続血糖モニターでしょう。
さらに昨日から食思低下と、血糖維持のため高カロリー輸液へ変更した。ブトウ糖液と共に、2台の輸液ポンプを使って投与している。
さらに目立たなくて良いけど、非常に大事な「管」がある。腎臓から排泄される造影剤を、体の外へ出してもらう。
検査中ミラの全身状態は、ナース島崎君がフォローしてくれる。
そうそう、僕がやらかす前だった。
女神ウェヌスは、ミラの肩越しの金髪を丁寧にブラシでといて結いながら、「体に入るも管も多くなって、ますます患者さんぽくなっちゃった…」苦笑いしていたっけ。
さてミラが横になる検査台の上部には、半円形のアームがついた血管造影装置が可動している。レントゲン透視下で、患者さまの体を撮影する。
3D画像でも表示されるため、精密な血管の走行まで非常に分かりやすい。肝臓脈化学塞栓術、治療も頻回に行うため、効果を判定するアンギオCTも備わっている優れものだ。
画像は検査台の左側通路を挟んだ、ワイド画面に表示される。他の検査画像もレイアウトできるので、同時に比較検討できる。
現在、画面の右側には、昨日行ったPET-CT融合画像(以下、一部、CT画像と記述)を出してある。
御馴染み丸いCT画像は向かって左側に肝臓が、上部中央は胃が映る。この画像では、膵臓は胃の下に見える。インスリノーマであろう腫瘍は、膵臓の鉤部と体部に、赤オレンジ色で光って描写されている。
これは腫瘍がインスリンを放出して、ブドウ糖と類似した性質を持つFDP薬剤を吸収、反応した結果だ。
もっかSACIテストの前段階、血管造影を行うために、ミラの腹部大動脈には直径1mm極細のカテーテルが走行している。
先に下静脈を経由して「肝静脈」へ、カテーテルを留置した。SACIテストで、肝静脈から採血を取る。消化管臓器の静脈は、「門脈」へ繋がっている。
門脈は肝臓入って、肝静脈から下大静脈へ出る、一連の流れを持っている。
「右鼠径部の動脈と静脈」に、カテーテルを通す前だ。
研修を終え消化器外科医1年目、石川君が山路先生のフォローの元、エコーガイド下で穿刺してくれた。エコーで血管の走行や、血流を確認しながら穿刺を行った。
ミラの入院時、僕は担当ナース中里さんと共に、キーパーソン3人の立ち合いの元、全身の傷痕、「現役時代に受傷した傷の状態」を確認させてもらった。
採血を始め穿刺を必要とする検査は、穿刺部位が特定しずらいだろう事は、フェリクス医師のカルテからも予測が付いていたので、実際に確かめた。
ミラの体に残る無数の傷痕、この多くは、「肥厚性瘢痕化」していた。一部が厚く盛り上がったり、硬くなった状態だった。さらに傷の治癒過程では体を動かす、傷には引っ張られるような、力が加わる。
その結果ミラの場合、皮膚が凹凸した「瘢痕拘縮」をも、起こしていた。引退間近の試合で受けた傷痕も、右鼠径部から左腹部にかけて、このような状態だった。
加えてミラの全身は皮下と内臓脂肪が多い、CT画像でも明らかだ。血管は脂肪に埋もれ、肉眼で確認しずらくなる。ミラの脂肪は体を守るために蓄えた、生きた証だ。病気で増えてしまった分は、低血糖を回避するため過食傾向だった、これはやむを得ない。
僕が診察した時点で、右鼠径部も脂肪に覆われていた。さらに肥厚した硬い皮膚は、表面が凹凸していた。動脈の拍動は触知を遮り、静脈も肉眼では確認できない状況を作りだしていた。
血管が「見えない、触れない」、穿刺が難しい状態だった。
入院時に採血を行った、ナース中里さんも難渋していた。
倫太郎もPICCカテーテルを右腕、正中静脈に挿入時エコーを用いただろうなあ…。
石川君と山路先生がエコーガイド下で穿刺している間も、僕は一休みしていたんじゃない。
ワークステーション内のスタッフと、ミニ症例検討会を行っていた。ここ数日間の検査結果と、可能な治療ついてディスカッションした。
その最中、今頃は診察しているだろう親友の姿が、チラッと浮かんだだけ。まだ僕らが石川君と同じ20代だった頃、母校の大学病院で汗水流しながら、血管造影を学んだんだ。
さてミラの体内、腹部大動脈を進むカテーテルは、検査を行うポイントへ近づいている。膵臓の栄養血管を造影し、SACIテストを行っていく。腹部大動脈から分岐する、「上腸間膜動脈」と「腹腔動脈」、さらに数本の主要な血管を使う。
実際、腹部大動脈を下から上へ遡るカテーテルを目的の血管まで進めるには、真向いの透視下画像と、最終的には自らの感覚…血管内を進むカテーテルから伝わる「感触」が頼りだ。
外科医って案外、職人っぽい。
さていよいよ最初の分岐点、上腸間膜動脈が目前に迫ってきた。
上腸間膜動脈は、およそ第一腰椎の高さ。ここから枝分かれしていく血管は、主に膵臓の頭部へ血液・栄養を運んでいる。
透視下画像では太い腹部大動脈から、若干スリムな上腸間膜動脈がヒョイと手前に突出している。背後には腰骨、腰椎がぼんやり映る。
カテーテルの先端を慎重かつ、適度なスムーズさで手前へ方向転換していく。感覚的には柔らかくしなるような、独特な感触が指先から伝わる。
3D画像は浮かび上がって見えるから、実際に触れているような錯覚に陥る。
僕はこの錯覚も利用して、カテーテルを動かしている。
人間の感覚って、奥深い。
昨日、ここで肝動脈化学塞栓術を受けた患者さまは、検査前のICで僕と異なる感覚を既に感じ取っていた。
「一太先生。リアルな3D画像を見て、合併症は起こらないか?僕の性格では、逆に不安になりそうです。血管の中でカテーテルが動いたら、抜けてきたり、血が逆流したり噴き出しそう。カラクリは、どうなっているんですか?」
患者さまの場合は鎮静はかけない、穿刺部の局所麻酔だ。
穿刺針のような形をした小さなシース(シースイントロデュ―サー)を穿刺時に留置して、皮膚に固定している。このシースから、細いカテーテルを通している。
縁の下の力持ち、小さなシースがカテーテルの抜去予防や、血液の逆流や穿刺部からの出血、気泡の侵入など合併症を未然い防いでくれる。
僕はカラクリを、こんな風に伝えた。
さて、カテーテルはスムーズに上腸間膜動脈へ入った。
膵臓の鉤部に存在するであろう、インスリノーマを確かめる。
鉤部は鉤状突起とも言う、頭部の下方にある湾曲した部分だ。
頭部は、十二指腸と隣接している。
「上腸間膜動脈を、造影して下さい」
「一太先生、造影剤を注入します」
石川君が、造影剤注入器のスイッチを押した。
手際の良い山路先生は、既に採血容器を5本、手元に準備している。
肝静脈に留置した、カテーテルからの採血をスタンバイした。
この間にアンギオ君は、1秒に数枚の速度で撮影している。解剖学的に、より精度の高い画像が解析されるはずだ、期待がつのる。
臨床工学士の北浦さんは、機械の誤作動やトラブルが起こらないよう、他のME機器も含めて管理してくれる。ミラの体に取り付けた、モニター類や輸液ポンプに至るまで。彼女は穿刺に使ったエコーもタイミングを見計らい作動させ、使用後は速やかにかたずけてくれた。
「よし、上腸間膜動脈の濃染像が出た」
向かいのワイド画面に、上腸管膜動脈の造影画像が現れた。3D画像にも膵臓の底面を、鉤部から頭部へ、上向きに枝分かれしていく細い血管が描写されている。
「でもPET-CTで現れた高吸収領域の様に、鉤部の腫瘍は造影されませんね」
石川君が首をひねる。
確かに赤くオレンジ色に光っていた腫瘍の、濃染像は現れない。
「上腸管膜動脈は、メインで腫瘍を栄養してないかもしれない。でもインスリノーマは造影されにくい。だからSACIテストは、必要なのね」
山路先生は補足しながら、肝静脈から採血を一本取った。
SACIテストは、自然な形でスタートした。
続けて石川先生が、今度はグルコン酸カルシウムを投与した。再び山路先生は30.60.90.120秒後に、肝静脈から採血を取った。
これがSACIテストの、一連の流れ。
グルコン酸カルシウムは、インスリンの分泌を刺激する。負荷試験に選んだ動脈が、腫瘍の栄養血管ならば、両者は繋がっている。
肝静脈血中の血糖・インスリン値・Cペプチド(インスリンの前駆体)などは高値が出る。このテストでは栄養血管と腫瘍の存在場所が、画像検査とは異なるアプローチで明確になる。
さて、トップバッター上腸管膜動脈のSACIテストを終えた。僕はカテーテルを上腸間膜動脈から引き戻した。
腹部大動脈を再び通過して、カテーテルを1センチほど先へ進めた。直ぐに「腹腔動脈」の入口、分岐点に到着した。
この「腹腔動脈」は、キーポイントだ。
膵臓の栄養血管が、数本枝分かれしている。ここから先は、SACIテストを繰り返す。
カテーテルを腹腔動脈へ進めた。
「ミラさん、ここまでバイタルサイン諸々、全身状態は安定してます」
島崎君が報告してくれた。
「ありがとう。腹腔動脈、造影して下さい。石川君、お願いします」
キーポイントだからこそ、慌てちゃいかん。丁寧な言葉使いをした。
直ぐに血管造影の濃染像と3D画像は、「腹腔動脈」から左右へ手を広げるように、「脾動脈」と「総肝動脈」と、インスリノーマを見事に映し出した。細かく迷路のように枝分かれする血管と、繋がる腫瘍がリアルに描写された。
「インスリノーマ、濃染像が出ましたねえ」
石川君が顔を前方、パネルの方へ突き出して、膵臓の鉤部と体部に発生した腫瘍を見つめている。彼は今回初めて、珍しい腫瘍と関わっている。
「PET-CT画像と同じ部位だ、肝臓転移の方も造影されている」
「4つの肝臓転移、多発性だなあ…」
「左葉に3つ、右葉に1つ。左右肝動脈の分岐から、発生してる」
ワークステーションの方では、腕組みをしながら難しい顔をするスタッフがほとんどだ。
なんと膵臓に発生した小さな腫瘍は、肝臓へ多発性に転移していた。昨日のPET-CTで判明した。
いざ肝臓転移を目の当たりすると、先ほどのディスカッションを再開したいところだが。今はSACIテストを合併症なく終わらせたい、ここは検査に集中するのみ。
カテーテルは「腹腔動脈」の内部だ。ここから先は、膵臓の背中側を走行する。「腹腔動脈」を右折すれば「総肝動脈」、終点は肝臓だ。
サクサク右へ進んで、新たに見つかった肝臓転移を速効、確かめたい。
しかし「総肝動脈」の途中は、膵臓の頭部を栄養する、「胃十二指腸動脈」が枝分かれしている、SACIテストのポイントだ。
血管の走行を考慮すると、左方向へ進むのが適切だ。僕はカテーテルを膵臓の体部と尾部を栄養する、「脾動脈」へ進めた。
脾動脈の終点は、脾臓なのだけれども。
脾動脈の途中から、下方へ枝分かれする血管が、体部に存在するインスリノーマを造影していた。
これは膵臓の体部や尾部へ、血液を送る血管だ。
なので腫瘍へ血液を多く運搬しているのは、こちらの血管だろう。
速やかに、脾動脈へSACIテストへ移った。
山路先生はグルコン酸カルシウムの投与前に一本、そして時間差で、トータル5本の採血を済ませてくれた。
カテーテルを脾動脈から引き戻す。気になる右方向、「総肝動脈」へ進もう。
総肝動脈の先は、膵臓の頭部方向と、肝臓内部へ血管が二方面へ分かれてゆく。
「肝臓転移…かあ…」
石川君がボソッと呟いた。
肝臓への遠隔転移があるので、病気の進行度は「ステージⅣ」だ。
つい、先走ってしまう気持ちは分かる。
まずは鉤部のインスリノーマを映し出した、「胃十二指腸動脈」へ入った。
この血管は頭部へ血液を送っているので、腹側を走行する上腸管膜動脈と、上下方向からアーチ状に繋がっている。
鉤部の腫瘍にとって、胃十二指腸動脈は上腸間膜動脈よりも、栄養を供給している血管だろう。
両者をSACIテストの結果で比較すると、インスリンを始め値に差が現れるはずだ。
ここで膵臓に発生したインスリノーマについて、検査は終了だ。
よし、肝臓転移の検査へ移ろう。
今しがた血管造影で描写された濃染像は、肝臓内に4つ。肝臓の左葉に3つ、右葉に1つだ。
「胃十二指腸動脈」へ進めたカテーテルを、「総肝動脈」へ戻した。
SACIテストは終点の肝臓まで、血管の走行に沿って順番に行っていく。
「総肝臓脈」と、この先に続く「固有肝動脈」を行い。
最後は肝臓内部で分れる「左肝動脈」と「右肝動脈」へSACIテストを実地した。
ここまで詳細に調べるのは、局在診断以外にも、訳がある。インスリノーマを含め神経内分泌腫瘍は、ホルモン症状のない「非機能性腫瘍」も存在する。
肝臓に転移した腫瘍の性格は、手術を始め治療の順番と内容を左右する。もちろん生検も行うが、負荷試験の結果も判断基準になる。
「ミラ、お疲れ様でした」
僕は動脈と静脈に挿入したカテーテル、及びシースを抜去した。石川先生が穿刺部位を、ガーゼで圧迫止血してくれる。
「もうすぐ、目が覚めますからね。病棟で待ってる、女神たちの元へ帰りましょうか」
山路先生は鎮静状態のミラへ、拮抗薬アネキセートを、PICCライン点滴から投与してくれた。
せん妄をできるだけ早く改善したいので、昼夜逆転は避けたい。覚醒を促したいところだ。
「転移した腫瘍は、月曜日の午後に肝生検を予定してます。症例検討会までに、結果は出ます。医局長、立花先生も出席するので、治療のアウトラインはまとまるでしょう」
僕は腰をさすりながら、パネルの前に立った。オンライン越し、ワークステーションのスタッフと顔を合わせた。前傾姿勢がたたったのか、動くたびに腰がズキッと痛む…トホホ。
「ミラさんは、ガイウスさんと長期の旅に出る予定でしたね。正直なところ、肝臓転移の治療も加わる、ミラさんの負担は増えてしまう。我々にとっても難しい症例です、消化器科を挙げて、乗り越えたいですね」
中林先生は温かく、穏やかな人柄だ。彼の存在は、つい先走ってしまう僕ら外科医に、深呼吸する時間も必要だと、いつも気付かせてくれる。
「中林先生、内科的なフォローを宜しくお願いします。5年後もその先も、ミラはガイウスと鎮魂の旅を続けらる、これが治療の目標ですね」
画像を見ているだけでも、ブルーになってしまうような、ヘビーな状態ではあるけれども。二人の女神と真紀子さんに説明時は、ミラとガイウスの近未来の姿を添えよう、僕らも前を向ける。
さて、ワークステーションの方は解散になった。まだ仕事は残っている熱い皆さま、どうもありがとう。造影室内のスタッフは、揃って軽くお辞儀した。
アンギオ君が席を立ち、こちらに回っている。 彼は症例検討会までに、今回の結果も含めて精密な3D画像を作成してくれる。
それは臓器と腫瘍、周辺の血管に触れている様な錯覚を、もたらすに違いない。
肝臓転移は昨日、ここで判明した。
朝一で、肝動脈化学塞栓術を終えたあとだ、僕は山路先生とPET-CT画像を読影した。
膵内分泌腫瘍も、肝臓転移は多い。ミラの場合は「膵NET G3」グレーゾーンの分類で、増殖スピードは速い値が出た。
「ああっ腫瘍の性質が、まんまと現れてしまった。治療は長くなる、鎮魂の旅へ出られるかしら」
山路先生は、珍しく感情的になっていた。
記憶障害の進行は、まさか脳転移ではなかろうか?いいや四肢麻痺や言語障害を始め、徴候は出てない。彼女は否定はしつつも、画像を読影するまで、まさかの状態を懸念していたくらいだ。
「記憶障害の原因は、脳転移や若年性アルツハイマーは否定できそうだ。だから、彼女がガイウスと鎮魂の旅へ必ず廻っている、近未来の姿を目標に、フォローしようよ」
大脳のFDP薬剤の「低吸収領域」は、「両側側頭葉」に僅かに認めた。おそらく多発性のインスリン産生腫瘍よる、過度な糖代謝が影響した結果だろう。
ただ油断できないのは、若年性アルツハイマーには軽度認知障害と同じく、早期の段階もある。
週明けに脳MRIの実地と、脳神経外科を受診予定だ。
ミラの入院前、倫太郎が記憶障害に関してメールを送信してくれたお陰で。若年性アルツハイマーの発症は、念のため視野に入れていた。
「ミラさん、病棟へ戻る準備をしましょうか」
石川君が右鼠径部、穿刺部の圧迫止血を解除した、厚めのガーゼが当たっている。僕はガーゼの上から、固定ベルトを巻いた。
病棟へ戻ったら、シンドイだろう事は、もう重々承知…5時間はベッド上安静を取って頂く。
動脈を穿刺しているから、体動により、出血する可能性は否めない。
島崎君は病棟へ連絡していたので、まもなく担当ナースが降りてくるだろう。
アンギオ君は、ミラの体に取り付けたモニター類を外し、北浦さんと島崎君は病衣の袖を通して、後ろ前に羽織る形に整えている。
その間に僕ら医師は今一度、インスリノーマの発生した部位をCT画像、血管造影と3D画像を比較した。3人並んで、パネルの前に立った。
膵臓の体部中央に発生した腫瘍は、サイズが20mm×21mm。
膵管から3mmほど距離がある、底面から背面方向へ傾いた体勢だ。
鉤部の腫瘍は、15mm×10mmのサイズ。
湾曲した部分の下方に位置するが、十二指腸へ浸潤はしていない。
「肝臓転移を、確かめましょう」
山路先生はCT画像を、更に上腹部へ動かした。
この位置だと、膵臓はうつらない。
画面はラグビーボールの形に例えられる肝臓が、大きくしめる。肝臓の上部が表示されている画像の位置は、今回の転移腫瘍を読影しやすい。
向かって右が肝臓の左葉、左が右葉。
もう少し細かく、患者さんの説明にも使うS1からS8までの区域に分けて、読み解いていく。
肝臓の左葉に転移した3つの腫瘍は、最大径は20mmから30mm。
表示したCT画像では、左葉の下から時計と反対周りに、S2・S3・S4区域が現れる。
この画像だと、各区域の中央付近に腫瘍は見えている。
S2,S3区域の側面は胃と接しているので、実際は圧痕がある。患者さんへ説明時は、さっとイラストも描く。同時に肝臓と周辺臓器を、立体的にイメージできるよう、僕のたるんだお腹も、参考にして指している。
さてもう一つ、右葉のS7に転移した腫瘍は45mm、ややサイズが大きい。
画像ではS7区域は、向かって左下に見える。
S7区域は、肝臓の右上にあって背面だ。転移した腫瘍も、背中側になる。
肝臓の機能って脳や心臓に比べると、日常生活では余りピンとこないかもしれない。
キャッチフレーズは、「お酒」とか「食べ過ぎ」だろうか?
肝臓はアルコールを代謝したり。脂肪を分解する胆汁を作って、肝内胆管から放出している。肝臓は飲み過ぎ食べ過ぎを、こんな風に対処しているわけだ。
肝臓には先ほど登場した「肝動脈」と大きな静脈「門脈」から、大量の血液が流れ込んでいる。そして肝細胞の中で、代謝など、適切な処理を受ける。代謝された物は、SACIテストで採血をした「肝静脈」から、カテーテルを通した「下大静脈」へ流れていく。
肝臓は豊富な血流に乗って運ばれた栄養素を、分解・貯蔵したり、必要時に補給している。
糖質もグリコーゲン、エネルギーに変えて放出している。だから…なんとまあ膵臓の働きをも、肝臓はフォローしている。
肝臓の機能が極端に落ちてしまうと、血糖コントロール不良、糖代謝はアンバランスを起こしてしまう。インスリンを用いるケースもある。
ミラの場合も多発性の肝臓転移があるだけに、油断はできない。だからSACIテストでホルモン症状のない「非機能性腫瘍」であるか否か、確かめている。
視点を変えると、多才な肝臓のお陰で、体は恒常性を保っていられる。
造影した脾動脈のゴール脾臓は、役目を終えた赤血球がビリルビンへ変わる場所だ。
門脈を通り肝臓に運ばれたビリルビンは、胆汁、もしくわ大腸経由で体外へ出ていく。
「病めるバッカス」の黄疸は、ビリルビンが肝臓内で溜まってしまう事で起こる。
肝臓で代謝された薬は、胆汁や腎臓に出てゆくし。腎臓へ運ばれたアンモニアは、最終的に尿となって、体の外へ出て行く。
地味ながら、ハードワークをこなす肝臓が低空飛行になると、腎臓や心臓…はては脳にも大きな影響が及んでしまう。だから沈黙の臓器なんて、異名を持つ。
現在ミラの肝臓機能は、若干の低下を始めている。肝臓転移だけでなく、「脂肪肝」も形成しているため、肝臓の機能が滞りやすい状態だ。
現れている主な症状、血糖コントロールや記憶障害、強い倦怠感は、さらに進んでしまうかもしれないし。
実は肝機能の代謝の低下は、せん妄を助長しやすい。PET-CTを読影した精神科の先生も、肝臓転移…肝機能の影響を、かなり気にしていた。
血管造影中に目の当たりにした、血管は迷路のように、微細に繋がっているけれども。人間の体そのものが、繊細なつくりになっているんだな。
「ああっミラさん、目が開きましたね。うん覚醒は順調です」
島崎君が知らせてくれたので、僕らはパネルを離れた。
茶色の瞳は、ぼんやり天井を眺めていた。
病棟へ戻ると、しばらくは寝返りを打てないし、動けない状態だ。背骨や肩甲骨だけでなく、全身が痛くなってしまうだろうなあ。
窮屈な状態が、朝の様な興奮を助長しない事を祈る…。
まあ僕は、今夜当直だ。
万が一ミラの状態に変化が起きても、対応できる。造影剤による遅発性の副作用も、出現する可能性は否めない。
夜間の様子、向精神薬の効果も把握できる。
「木曜から金曜に掛けての夜は、病棟全体が嵐の一夜だったでしょ。夕べは打って変わって、穏やかな夜でした、患者さまも寝不足でしたからね。僕も血管造影だったので、疲れました。眠剤なしで、朝まで爆睡でしたよ」
昨日の午前中、ここで肝動脈化学塞栓術を受けた患者さま、中嶋さんが教えてくれた。ガイウスは彼と同室で、気が合うようだった。
「ミラさん。検査台の横にストレッチャーがあります、僕らに体を預けて」
アンギオ君と島崎君が搬送用マットレスを、体を左へ僅かに傾けて、手早く敷いてくれた。
準備が整ったところで石川君も加わり、マットレスを引いてミラをストレッチャーへ動かした。
僕は輸液ポンプを二台取り付けた、若干重たい点滴スタンドを病棟まで押していこう。女神達へ、説明を控えているからね。
しかし忍び歩きでも、腰に響いて痛むな…ヤバイ痛みかもしれない。
山路先生が覚醒を始めたミラの様子を見て、装着したミトン手袋のボタンに緩みがないか、そっと確かめてくれた。
皆、検査着と帽子は脱いで、スクラブ姿に戻った。ミラを乗せたストレッチャーを、押し始めた。
数メートルも進まないうちに、皆の動き、前進していたストレッチャーはピタリと止まった。
どこからともなく神々しい光が差し込むような、ピアノ曲が流れ始めたからだ。
「突然、音楽が流れるなんて、空耳?ワークステーションには、誰もいないでしょう」
アンギオ君は周りをキョロキョロ見渡している。
山路先生と僕は、自然と顔を合せていた。お互いの顔に書いてある、この曲は「聖杯への厳かな行進」だ。
なぜだろう、中盤から始まっていた。
ちょうど「聖杯の動機」祈りの旋律が、高らかに鳴り響く箇所だった。
僕にとって、ファアンファーレの様に感じる部分だ。
「祈りを現わす音が、上がっていくから。まるでその祈りや願いが、届きそうじゃないか?」
高貴な気配も感じる。
「誰の願いで、どんな…」
山路先生の返事は、素っ頓狂な声に掻き消えた。
「なんだありゃ、画像が飛び出してるのか?」
石川君は、パネルを指さしている。
魔訶不思議な光景が、僕らの目の前にグングン迫っていた。
ワイドサイズの画面から、だ円型の建造物がムクムク現れているではないか。
「こっ、古代ローマ時代の戦車競技場が登場するからには、魂の行進が再現されるのね。壮大なスペクタクルを仕掛けたのは…ど、どなた?」
山路先生の問いに返事はないまま、戦車競技場は造影室を埋め尽くした。
あっけにとられた僕は、腰が抜けたように、競技場のスタンド席へ座り込んでしまった。楕円形の広い競技場を全体が見渡せる、中央付近だ。
満員のスタンドからは物音一つしない、静寂の空間だ。でもお客さんは、座席から立ち上がって、身振り手振りをつけて何か訴えている。
ああそうか…ファイターたちは競技の種類によってコスチュームが異なる、一部は彼らの出身地を現わしていたはずだ。お客さんは、同郷の選手を探しているんだな。
「なんだ?息苦しい…」
状況を掴んだ途端、僕は呼吸が苦しくなってきた。喉の途中で内視鏡がつかえてるようで、スムーズに息ができない。
そうだ、忘れもしない。
初めて倫太郎が内視鏡を実地した時、僕が患者役を務めた。「ノー・セデーション」、あの時みたいに呼吸が苦しい。
鎮静を掛けないと、どのくらい負担か?患者さまになって体験しよう。同期の仲間と、ガチで内視鏡検査を、指導医のもと練習し合ったんだ。
「私の両足が急に変わってる。押すと圧痕がつくくらい、すごく浮腫んでいる…」
「お腹が膨らんで、呼吸がしにくい。腹水が溜まっているんだろうか…」
手前の座席では北浦さんがユニフォームの裾をたくし上げて、両足をさすっている。
島崎君は狭い通路へ、仰向けになってしまった。彼の腹部は、ユニフォームの上からでもわかる、バンバンに膨れ上がってる。
「全身が痒い、痒くてたまらない」
ドスンッ、背後で音がした。
石川君は通路に座り込んだ、スクラブの上から全身の皮膚を搔きむしっている。
色白の肌は土気色に変わって、乾燥している。
「へへへっ…お酒は強いけど、毎日飲んでない。一太先生、そうでしょ?」
グイッ。
アンギオ君は、僕が苦しんでいると分かってない、顔を持ち上げた。
目の前では眼球まで黄染したアンギオ君が、ヘラヘラ笑っている。
石川君とアンギオ君の姿は、まるで「病めるバッカス」だ、黄疸を起こしている。
僕は本物を新婚旅行先…ええと、ローマの美術館で観たはずだ…。
「末期の肝不全症状を、突然起こしてしまう。あなた方は誰?」
肝不全の末期だって?
じゃあ僕はホントに最後の段階、心不全を体験してるのか?どうりで呼吸が苦しいはずだ。
アンギオ君は、肝性脳症ってことか?
山路先生の声は静まり返った戦車競技場に、グワーンと響いた。
にも関わらず、誰も僕らを気に留めない。僕らの姿は、彼らに映らないのだろうか。
「アタシには分かる、迎えに来てくれたんだ。故郷ライン河の対岸へ、ようやく戻れる」
ミラはやけに、キッパリ答えた。
アネキセートによる覚醒は性急どころか、せん妄を起こしていたとは思えない。
彼女はどこにいるのだろう、穿刺した部位、全身状態をたしかめなきゃ…。
するとミラの反応を待っていたかのように、どこからともなく声がした。
「ミラを自然な形で生まれ変わりへ進める、この役目を担う者だ」
「あなた方を苦しめるつもりはない。どうか我々の邪魔をしないでくれ」
彼らは過去の時代から、ミラの試合中は何度も、受傷や骨折するよう「仕向けて」いた。
最終的にはアナフィラキシーショックを仕掛けたと明かした。
自然な形?
それにしちゃあ、デンジャラスな手段を選んでやしないか?
フェリクス医師と看護師ルカだけでなく、剣闘士チームのスタッフは、人気選手の彼女が受傷するたび、生きた心地がしなかったろうに。
一体あなた方はどこのどなたで、ミラとの関係は?聞きたい事は、他にも山ほどある。
「彷徨い続けていた皇帝カリグラが、周囲の者を巻き込んで、ミラの昇天を妨げた」
「はては生前に敬愛した、女神ディアナの力を借りて生まれ変わりを拒んだ」
彼らはガイウスを始め、一部を勘違いしてやしないか…?駄目だ息が苦しい、酸素不足だ。
倫太郎、早く内視鏡を抜けよ。いいや違う、酸素を吸わせてくれ。ミニオペ室だから、常備してあるだろう?
「ウウッ…」苦しさで混乱した僕は、声にならない声を上げた。
「ピリリ…ピリリ…」
輸液ポンプのアラーム音が遠くに聴こえる。まさか彼らは、輸液を止めたのか?
高カロリー輸液と50%ブドウ糖液を投与して、血糖をコントロールしているんだ。
頼むからやめてくれ。
低血糖時の対処、ブドウ糖は在庫がある。でも薬品棚まで距離がある、こんな体じゃあ取りに行けない。
「利き手の左手だけ、手袋を外せばいい」
「ミラ、もう少しの辛抱だ。足首のバンドも外すから、自由になれる」
「ありがとう、早く解放して」
ガサゴソ物音がする。
まさかPICCカテーテルまで、自己抜去させるつもりか?
そうは問屋が卸さない。
ミトン手袋とリストバンドのボタンは、そう簡単に開いちゃ困るシロモノなんだよ…。
そうか彼らは、ここでも自然な形で急変を起こして、ミラを生まれ変わりへ進めるつもりだな。
ミラの血管造影が終わり、モニター類を取り外した。彼らはこの絶妙なタイミングを、狙ったに違いない。
「あなた方はミラさんを生まれ変わりへ進める、この役目をだどなたから、託されたの?古代ローマの神々ではないはずよ」
おやっ?山路先生…絵里さんだけが苦しんでない、なぜだろう。
「ミラとガイウスは、神格化されて鎮魂の旅に出る。だから私達は神々から、治療を託された。あなた方が仕掛けた全身の傷痕も、形成外科のフォローで滑らかな肌へ、生まれ変わる予定なんですッ!ドクター・フェリクスとナース・ルカのあとは、私達が引き受けた」
バチンッ、バチン!
僕の奥さんは、手を叩いた。
「せん妄時のミラさんが見る幻覚で、私達を惑わすのは止めて下さい。オンコロコロ センダリ マトウギソワカ―ッツ!カーツッ!」
絵里さんはマントラを唱えたみたい…だ…。
その途端、あちらの世界と彼らの気配も消えた。徐々に呼吸も内視鏡が抜けたように、楽になっている。
解せないのは音楽だ。聖杯への厳かな行進は、最後まで続いる。
これまで造影室の音響なんて、意識した事はなかった。でも医療機器のアラーム音がストップしているため、普段以上に静かな空間だ。
音楽はド素人の僕も、ピアノの残響が聴き取れた。まるで広大な願い・祈りは届いた、完結した様だ。
「パパ、みんなしっかりして。ここは市民病院、血管造影室の並びは、まるで人体の一部。先頭は脳、真ん中に心臓。最後は縁の下の力持ち、沈黙の臓器を守る、私たち消化器科のフィールドよっ!」
絵里さんは一人一人に声をかけて、体を起こしてくれた。彼女は戦車競技場が現れた時点で、気が付いた。この風景はミラがせん妄を起こした際、幻覚に現れる長期記憶…過去の世界に違いない。
直ぐにジィジ・バァバと座禅をする様に、音龍寺の御本尊、薬師如来へ意識を集中した。
「そのお陰で、彼らが仕掛けた幻覚、肝不全症状を回避できたの」
絵里さんは矢継ぎ早に告げた。
彼女は僕、音龍寺と出会って、良い意味で芯が強くなった。
「パパ、ぎっくり腰は再発してない?」
観察力の高い絵里さん、僕が腰をさすっていたのを見逃さなかったんだな。
「軽いギックリ、気持ちはガックリかも…。ママ、後で痛み止め飲むよ」
僕は冷静さを取り戻した途端、腰の痛みを自覚した。疑問は多々あるものの、腰痛のお陰で現実の世界を感じられる。
「おかしいな、病棟から迎えが来ない」
「彼らは、エレベーターまで止めてやしないか?」
北浦さんと石川君は、アンギオ室を飛び出した。未だに病棟ナースの迎えは到着しない、混雑しているエレベーターを止めに出た。
奇想天外な事態に遭遇したんだもの、恋人どうし、そりゃ短時間でも二人きりになりたいわねえ。疎い僕も、その位は分かる。
残ったメンバーで、ミラを乗せたストレッチャーを押して、アンギオ室を出た。
彼女はウトウトしていたが声を掛ければ開眼できる、普通の覚醒状態へ戻っていた。
事態は一先ず落ち着いた、僕は病棟へ向かいながら考えた。
女神ディアナによる魔法が溶けつつあるミラの体は、「生まれ変わり」へ進むため、急速な変化を確実に起こしている。
精査を進める内に、全身状態は掴めてきた。
ミラの全身はインスリノーマだけでなく、他の疾患も発覚、加齢が進んていた。旅立った時は29歳、そのままの年齢で、ガイウスと共に彷徨って来たはずだ。
採血結果では、女性ホルモン値は40代に該当した。頸動脈エコーでは、プラークこそ認めなかったものの、総動脈のIMT(頸動脈の肥厚を示す、動脈硬化の指標)は0.8mmだった。
40代後半の平均的な値だ。1.1mmを超えると、脳血管疾患のリスクが高くなる。
記憶障害も進み、入院に伴いせん妄が発症した。
非科学的な見解だが。
全て彼らのなせる業だからこそ、病気や加齢による「自然な変化」として、起きているのだろうか?
そうだ、当直の隙間時間に、倫太郎へ検査結果も含めてメールしてみよう。
神々も困惑している、女神ディアナの行方も気になる。ディアナは結界でも張ったかのように、気配すら感じないらしい。
真紀子さんの旦那さん、伝来の神メルクリウスはライン河からドナウ河沿いを、飛び回っている。
女神ディアナが潜みそうな山々、森を探索中だ。しかし繁殖や自然を司る女神について、親しいニンフや動物たちから、目撃証言はない。
ローマ帝国建国の神マルスの恋人、女神ウェヌスによると。
創痛を抱えるガイウスと神マルスは、乗り心地の良いタクシー・バタフライを使って、ディアナを探している。
ガイウスとミラにとってゆかりの深いエリア、カルヌントゥムやネミ湖を訪れている。
ネミ湖は、かつて皇帝カリグラが崇拝する女神ディアナに捧げた、絢爛豪華な二艘の船が周遊した湖だ。後世になり、船は発掘された。
女神ミネルヴァから聞いた話も、興味深い。
なんと古代ローマの守護神女神ウェスタが、およそ2000年振り、神殿に「ウエスタの焔」を灯した。女神は焔の中から鷲を誕生させ、上空へ放った。鷲もディアナを追跡している。
絵里さんと僕も、フォロ・ロマーノは足を運んだ。ウェスタ神殿に焔が揺らめき、舞い上がる様子は、想像するだけで美しい。
残念ながら、現在はウェスタの巫女が焔を燃やし続けられない。世界遺産から火の手が上がったニュースは、あっと言う間に拡散されるだろうからね。女神ウェスタは短時間で焔を消した。
捜索隊からの情報は、彼らの「聴覚、視覚」を通して、巫女の家にある池ではなく…室内の鏡に遠隔で描写されるそうだ。
貴公子ナルキッソスの得意技も、縁の下の力持ちだな。
そうだ倫太郎へ、新着情報が届いているかもしれない。家庭医を目指して開業した親友のクリ二ックも、土曜日は午前中のみ診察だ。
慢性疲労症候群で療養中、酒神バッカスが、ふらっと補液にやって来たかもしれない。
「お待たせしました」
「ミラの血管造影とSACIテストは、終わりましたよ」
ナースと山路先生の声で、我に返った。
いつの間にか女神達が待つ、予備室へ到着していた。
しかし僕は甘かった。
この夜は、倫太郎にメールを送信するどころか、嵐の一夜だった。
普段から僕は考えている。
治療だけでなく、看護と介護においても、テクノロジーの進化が、もっともっと必要だ。
例えばリストバンド。
持続的なモニタリング機器に、変わっても良さそうじゃないか。血圧・脈拍・体温…酸素飽和度もいけるでしょ?
ナースコールの連打を始め、患者さまと医療従事者、互いのストレスを緩和できるはずなんだ。
縁の下の力持ち、マンパワーの限界も改善へ向かうかもしれないじゃない…。
現場スタッフに多い、ギックリ腰…腰痛も予防できるはずだ。
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