「女神湖」

の名前に相応しく、周辺も美しい。湖の守護神は、勝利の女神だそうです。ドッグラン(抱っこラン)にもサイコー、清々しいエリアでした。

 

8月29日・月曜日 午後13時30分を回った。

僕、山野一太は午前中の外来を終えた。倫太郎からメールが届いていたので確かめた。

 

…音龍寺 次男坊 山野一太先生
 
現在ミラはインスリノーマの合併症疑い、軽度の記憶障害・健忘症状が出ています。
 
長期記憶の低下、短期記憶の方も若干低下を認めます。
 
症状はガイウスを始めキーパーソンらが、先週土曜日に気が付きました。
きっかけは、現役時代の主治医フェリクスのカルテを纏めた報告書でした。
 
この時点でミラは、アナフィラキシーショックで急逝した経緯は覚えてなかった。剣闘士時代のエピソードを部分的に忘れている、長期記憶の低下が発覚しました。
 
短期記憶の方は、指摘されてエピソードを思い出せる。当院の初診時、問診票へ「感染症で旅立った」と申告した。問診票を代筆した女神ウェヌスに指摘されて、こちらを思い出した。
 
インスリノーマによる過度な糖代謝は、進行に伴い、様々な精神症状が発現しますが。

これまでミラはCT・MRIを始め、全身の精査は実地できておりません。記憶障害は必ずしも、インスリノーマの合併とは限らない。
入院後、脳の気質的な変化も含め、確認をお願い致します。
 
もう一つ、懸念事項があります。
ミラは2000年近く魂の状態で存在し、この間の記憶は残っていました。急逝時の29歳の年齢で、過ごしてきた。これらは女神ディアナによる、魔術の効果です。
 
彼女の記憶障害から、酒神バッカスは気が付きました。記憶の消滅は、同時に魔術が溶解しつつあるサインだそうです。結果、ミラは生まれ変わりへ進む。

他の神々も、用いる手段だそうです。
こちらの件に関しては、神々に託しました。
 
なお本日、宅急便ぺガサリオンにて、自宅へ「ミラー・タブレット」が届きます。フェリクス医師のカルテ、原本(写本)です。日本語訳が載りますので、参照下さい…
 
僕は倫太郎のメールを読んで、疑問が沸いた。
彷徨っていた魂が、生まれ変わりへ向かうのならば。ミラの全身状態は、他にも変化が起こるのではないか?まして彼女は、2000年近い時間を過ごしてきた。
 
…きさらぎクリニック・リンタロー先生
「生まれ変わりへ進む」となると、出現する症状は、記憶の消去だけではないでしょう、例えば加齢など。

起こりえる可能性を踏まえて全身の精査、インスリノーマの治療を開始します。

オンコロコロ センダリ マトウギソワカ…

 
僕は返信の最後に、般若心経ではなくて薬師如来の真言をのせた。ミラとガイウスにはこちらが、しっくりするようだ。

実家のご本尊、薬師如来はあらゆる病を治して願いを叶えて下さる。左手には万能薬を入れた薬壺を乗せていらっしゃる。
 
そのあと僕は短い昼休みの間、ミラの入院に備えて、検査の優先順位を考え直した。
とにかく全身をチェックできる画像検査を、早急に実地したい。

「画像検査は予約が多いんだよなあ…」
緊急時ならば、ゴリ押しで実地も可能だけど…。
 
決定した木曜日の入院までが、悩ましい。僕は倫太郎よりも、せっかちなのかもしれない。
 

帰宅するともちろん、「ミラー・タブレット」は届いていた。

 

「本当にペガサス、ネロが配達してくれた!」

「次回は背中に乗せてくれる、約束した!」

 「念願叶って、よかったじゃない」


ネロから荷物を受け取った小学5年生、双子の息子達はコーフン・コーフン…。


「神々のクリアウォーター・アンフォラ」は、定期便で配送してもらっている。

学校や習い事で、息子達はネロと出会う機会が無かった。


しかし今は僕の方が息子達以上に、コーフンしてる。だって西暦2世紀の、外科カルテが手元にあるんだもの!…いいや、落ち着け。


僕は何食わぬ顔をして、夕食もお風呂も済ませた。そして抜き足差し足、忍び足…。


息子達がゲームに熱中している間、誘われる前に自室へこもった。


そして机に置いたフェリクス医師のカルテを開く直前、ナイス・タイミングだった。

「一太君、こんばんは。お疲れ様です」

亜子ちゃんから、胸の熱くなるメールが届いた、「魂の行進」に関してだ。

 

「魂の行進」は、かつてミラとガイウスが多くの彷徨う魂らと共に体験した。生まれ変わりへ進む、行進だった。

場所はガイウスが建設した「戦車競技場」だ。
こちらが、カルヌントゥムの上空に現れた。
 
競技場のスタートゲートは、様々なタイプの剣闘士が揃った、観客席も満席だ。出身地、肌や瞳の色、身分や宗教に関係なく、老若男女が揃っていた。

カエサルが目指したローマ帝国の姿が、そこにあったのだろう。

剣闘士のコスチュームの一部は、出身地を現わしていた。客席の魂たちはコスチュームから同郷、もしくわ出身地が近いと判断した。
ファイター達のあとに続いて、客席にいた魂らも、昇天していった。
 

この時地上では、フェリクス医師と看護夫ルカが、剣闘士宿舎へ緊急の診察へ呼ばれていた。ミラは蜂か蜘蛛に刺され、アナフィラキシー・ショックを起こしていた。

 
「戦車競技場で魂の行進が始まると、未来から音楽が流れてきた。フランツ・リストのパラフレーズ作品、聖杯への厳かな行進だったのね」

彼女によると、ガイウスとミラは後々、演奏会に出掛けて「聖杯への厳かな行進」を聴いた。

時代や場所、どなたの演奏であったのか?それは不明だ、聞き忘れたようだ。
…僕は逆に良かった、音楽に対する先入観が無いもの…返信に添えた。

僕と奥さんは、亜子ちゃんや倫太郎ほどアートは、詳しくない。この曲も、初めて知った。

クラシック音楽に興味が無い訳ではない、むしろ好きだ。双子が生まれてから、時間が足りないを理由に、触れる機会が減った。で…実家は「音龍寺」だ。開山にまつわるエピソードは、音が関係してる。

 「さて、僕はタイムスリップできるだろうか?」

フェリクス医師のカルテを、目の前に置いた。開く前に「聖杯への厳かな行進」に、耳を傾けた。
 
冒頭部分から、行進へ進む剣闘士達の足音が、徐々に近づいてくる様子が、脳裏に浮かんだ。

客席の魂達は、総立ちだ。口に手を当てて声を張り上げる者、同郷の選手達を探しているのだろうか?、額に手をかざす者も多い。

中には顔をしかめる方もいるから、競技を好まないのだろう。騒然とするはずなのに、音楽以外の音は存在しない。

曲の中には祈りの旋律が含まれるそうだから、昇天する魂達にとって、静寂は相応しいだろう。

僕は音楽に誘われ、時空を遡っていた。いつの間にか、フェリクス医師のカルテを読んでいた。そして僕自身が、フェリクス医師であるような錯覚に陥っていた。
 
「皆、精一杯生きている。それでも昇天せず、彷徨う魂たちは存在する。だから懸命に生きた証を、診療記録の中にも残しておこう」

僕は軍医としてクサンテン駐屯地へ赴任した当時から、肝に銘じてカルテに残した。

病気や怪我の発症した原因、経過を綴るから「生きた証」を添えるのは、十分可能だった。
 
ミラは僕が初めて担当した、剣闘士の患者さんだった。僕なりに、ミラが引退できた理由を考察したので、こちらも記録した。
 

まずは訓練士による、日々のトレーニングだ。

ミラは元剣闘士で訓練士の夫から、トレーニングを受けていた。

 

ミラは戦車闘士だ、二頭立ての戦車に乗って、華々しく登場したが、体幹は「隙だらけ」。
四肢は防具で保護した。他に自分を守る物は、シカ(湾曲した短剣)と盾のみだ。

そこで夫、訓練士は考えた。練習中は「兜」を被せ、敢えて視野を狭めた。戦車闘士は被らない。
 
この練習で、ミラは五感が研ぎ澄まされた。同時に集中力も高まった。試合では観客の興奮や熱狂に、惑わされなくなった。
何より奇跡的に、頭部の外傷を回避できた。
 
さらにミラが花形選手まで成長できたのは、試合に臨むパッションを伝えた、ガイウスの力も大きい。彼は生前、剣闘士競技を好んだ。100年以上彷徨っていた間に、「光の力」に気が付いた。
 

「剣闘士のルーツは、弔いの場で捧げた儀式の一つだった。だからこそ太陽光の力を借りて、技を美しく魅せるんだ。競技場には彷徨う魂たちが、多く存在する。彼らも光の方向へ、進みたいはずだ」

ミラはこの姿勢を、貫いた。観衆や審判の熱狂も風向きが変わり、選手達の健闘を讃えた。

試合の結果も、引き分けをもたらした。


それでも理想の試合が行える方が、少なかった。

ミラも外傷や怪我に悩まされた、最初の受傷はデビュー前の練習で、木剣だった。
 
その後も試合や練習で、打撲や外傷は受けた。時には利き手側、左の上下肢の骨折も経験した。剣闘士は骨を丈夫にするため、飲み物に焼いた骨を砕いていたくらいだ。

 

紀元何年・何月に大きな外傷を負ったか、僕は覚えている。紀元168年、引退を控えた試合で重症を追った。

 

右鼠径部付近から左腹部にかけて、下から斜め上にグラディウス(細長いタイプの剣)で、広範囲の傷を受けた。

グラディウスの先端は鋭い、皮下脂肪でカバーしたものの、患部から出血が多かった。

 

幸い、試合は引き分けだったが。一座のオーナーは上手いこと、相手選手に花を持たせた。我々はその隙に、ミラを医務室へ運んだ。


直ちに、圧迫止血を開始した。止血効果を持つ薬草、アルカンナの煮汁を包帯に浸し、患部に当てた。二人がかりで抑えて、圧迫止血した。

ミラの夫が、協力を買って出た。

 

同時に看護夫ルカは、強いアルコールを綿に染み込ませて、ミラの口腔内へ含ませた。

これは、麻酔の代わりに用いた。


「引退しなきゃ。解放を待ってる家族がいるの」

ミラは受傷のショックや痛みで混乱し、半ばパニックを起こした。圧迫止血中も担架の上で、激しく体を動かした。これでは腹圧もかかり、ますます出血してしまう。

 

強いアルコールは、短時間で効果を発揮した。ミラは痛覚も鈍くなり、眠ってしまった。


夫を含めたガタイのいい剣闘士仲間が4人、彼女を乗せた担架を担いでくれた。万が一、途中で覚醒しても落下しないよう、太いロープで安全を確保した。体を担架に固定した。

 

今度は僕とルカの二人で、傷の圧迫止血を続けながら、剣闘士宿舎へ舞い戻った。

 

医務室へ到着したものの、ミラの全身状態は、予断を許さない。

創部の出血は、アルカンナで止血は可能だろう、前例もある。腹部大動脈からの出血が避けられていたのは、幸運だった。

 

問題は創部の感染だった。

例え止血しても、感染を回避しなければ元も子もない。そのリスクを高める物が、剣闘士ならではの事情、体を守るために蓄えた「脂肪」だ。


ベジタリアンで、健康的な大麦を主食としていたにも関わらず。今回は大事な脂肪が、大敵となってまった。

 
「傷の治癒を左右するのは、腹部の脂肪です。融解した脂肪は感染を引き起こす、また肉芽の盛り上がりを遅延します」

僕は夫と一座のオーナーへ、このまま引退、もしくわ命の危険も高い、正直に伝えた。
彼らも多くの選手をフォローしてきた、シビアな状態は理解しているはずだ。

「ミラは一座の花形選手、頼むから助けてくれ」
「妻を救ってほしい。引退後は、新しい生活も待っている」
二人はできる限りまで、治療を希望した。

剣闘士はヘビーな競技であるが故、一座のオーナーは選手のメンテナンスを積極的に取り組んだ。
医療や療養に関して、設備を整えた。温泉やサウナを備えた宿舎もある。

ましてミラの様に引退を控えた「女性剣闘士」となれば、周囲の期待も高い。
引退試合と結果は、一座の人気を左右する、これは明らかだった。
 
僕とルカは寝食を忘れ、ミラの治療に専念した。出血が減量してきたところで、骨製のピンを使い縫合へ踏み切った。

もちろん消毒は、抜かりない。


これで脂肪組織の融解による、感染と肉芽形成の遅延や、傷の離開を予防できるだろう。
 
ここからは消炎鎮痛・解熱作用を持つ薬草、ヤローを使った。ヤローの煮汁を樹脂と混ぜて、創部を保護した。これを8時間後に交換した。

ガイウスは森に出かけて、薬草を調達してくれた、本当に助かった。
 
こうしてミラは時間が掛かったものの、回復した。開催予定日を延長した、最後のアリーナへ立った。試合は引き分け。満員の観客から、健闘を讃えられ引退した。

 

 

「パパって演技が、ヘタなんだよね。普段は猫背なのにさ、孤独したい時は、ジーちゃんやオジさんみたいに、背筋がピンシャンする。で、コッソリ抜け出すんだよ」


「古代ローマ時代から、パパみたいな外科医の治療は行われていたんだ。イラストも付いているから、怪我の状態と治療が分かりやすいね」


駿の鋭い指摘と、カルテを熱心に見つめる潤の声で、僕は現代に戻った。誰も操作してないのに、リピート再生したはずの「聖杯への厳かな行進」は止まっていた。


「バレてたんだ。このカルテは、木曜日に入院する、ガイウスの恋人さんの治療経過なだからさ。目を通しておきたかったのよ」


ママにナイショの夜更かしは、ことのほか楽しくてたまらないだろう。


好奇心旺盛な二人は、瞳をキラキラさせて、古いカルテを覗き込んでいた。魔術の貴公子ナルキッソスが気を使って載せてくれた、日本語訳のお陰だ。

 

息子達がカルテに興味を示したのは、ガイウスと出会っていた事も関係しそうだ。
それは先週の土曜日、病院の駐車場だった。

たまたまスイミングの終了時間が、僕の帰宅時間と重なった。奥さんが、車で迎えに来てくれた。
 
ちょうどガイウスも外泊だった、真紀子さんの迎えを待っていた。ミラは2日後の月曜日、エコー下内視鏡を控えていたから、話題もインスリノーマについてだ。
 
「インスリノーマは良性腫瘍と、悪性腫瘍に分類される。後者は転移も起こすのだな」

ガイウスはインスリノーマが神経内分泌腫瘍に属する事や。ホルモンなどを生産する腫瘍が、全身に発生するなど、詳細を調べていた。

「良性腫瘍は、3つのグレードに分れるでしょう。グレード3は悪性腫瘍から、派生した物なんだ。進行速度や増殖スピードが、速いケースもあってさ。これが転移も含め、油断できないんだよ。ミラもエコー下内視鏡で吸引細胞診を行うから、結果待ちになるね」
 
僕らは真剣に話していたので、忍び寄る影に気が付かないでいた。
 
ドカッ、ドカッ!
「うわあっ、何?」
突如、お尻に衝撃を受けた。
運動不足の体は、たやすく前につんのめった。
 
「オンコロコロ、センダリ」
「マトウギソワカーッ!!」

なんと息子達は僕だけでなく、あろう事かガイウスのお尻まで、思いっきりどついていた。
喝はこっちのセリフだよ…。

ジーちゃんの座禅は冗談で誘われても、トイレに隠れるか隙間から覗いてるくらいだ。天真爛漫だった、一太君を思い出しつつも…焦った。
 

だってガイウスの左腹部の傷は、縦10センチ弱のサイズ。本人も苦笑いするくらい、体動に伴い痛い。痛いけれども、退院に向けて生活動作を拡大していく時期だ。


特に腹部、消化管の術後は腸管の動きを整えたい、術後イレウスの予防にもなる。ガイウスも院内を歩き回っている、ついでに床屋も済ませた。

僕は詫びるつもりで、息子達の背中を押して頭を下げかけた。するとガイウスは、それを制した。

「駿と潤のエネルギーを分けて貰ったよ。私がもう少し元気になったら、古代ローマ世界へ遊びに行こうか?4頭立ての戦車に乗ろう」

ガイウスは四頭の馬を操る手綱を握るには、心もとない、細くて長い指を広げた。息子達の小さな頭を撫で、相好を崩した。
 
「約束だよ!俺達スイミングで体を鍛えてるから、戦車は余裕で乗りこなせるよ」
「待ち合わせは場所はどこにする、どこからタイムスリップするの?」

息子達はローマ史マニアのリンタロー・オジサンと親友を誓ってたくらいだ。タイムスリップの誘いは、二人のハートに火を付けた。
 
「そうだなあ…フォロ・ロマーノ、カエサル神殿の前で待ち合わせしよう。人間が生活しやすいように国を整えた、ヒーローの一人だよ」
 
さすが旨い事、言うなあ…僕は関心してしまった。リンタロー・オジサンが聞いたら感極まり、ハラハラ涙を流しただろう。

関心したのは束の間、僕はさらに驚いた。ガイウスは腹部の痛みを極力抑えるように、ゆっくり膝をついた。そして息子達と視線の高さを合わせ、もう一度頭を撫でていたからだ。

 

微笑ましい光景を眺めながら、ふと思い出した。リンタロー・オジサンが教えてくれた、皇帝カリグラに纏わるエピソードだ。

 

「皇帝カリグラには、一人だけお子さんがいた。彼は29歳で旅立った。幼少時から可愛がってくれた部下が、役目を引き受けたんだ。この時は一歳の娘さん、奥さんと運命を共にした。舞台を見るために、家族と移動していたんだよ」

 

皇帝カリグラは、素直に愛情表現するタイプではなかったかもしれない。でも2000年以上の時間は、ガイウスを本来の姿に変えた。僕は主治医の立場からも、そう感じている。


皇帝カリグラは周囲の愛情を一心に受けて育った。決して、愛情を知らなかった訳ではないんだ。


でなきゃガイウスは、全身を抜毛するなんて…現病歴を振り返っていたら、息子達が声を上げた。

 

「ガイウスさん、空を見てよ!大きな蝶が、羽を広げてる。奇跡みたい…」

「じーちゃんのお寺にある、薬師如来さまが住んでる場所、入口だよ。瑠璃色の蝶だもん!」

息子達が、東の空を指さした。

 

「ホントだ、美しいなあ。如来さまがいらっしゃるのは、東方浄瑠璃世界だな。願いを叶え、あらゆる病を治して下さる。どうかミラのインスリノーマを、完治して下さい」

空を見上げるガイウスは、素直に願いを放った。

 

 

 

それからあっと言う間に、数日が過ぎた。

ミラは9月1日木曜日、無事に入院した。


翌日の金曜日、僕は回診当番で早出だった。

朝7時30分 市民病院2階・消化器科医局


僕は回診にまわる前デスクのパソコンから、病棟のカルテを開いた。
看護記録から、消化器外科で担当する患者さまの、夜間の状態を確認するのは日課だ。
 
 「おやっ?ミラは部屋移動をしている」
まず目に飛び込んできた。

ミラは大部屋520号室から、ナース・ステーションと繋がる「予備室」へ移動していた。22時30分、病棟の消灯時間が過ぎた時刻に、部屋移動は行われていた。
 
ミラの名前をクリックすると、かろうじて夜の検温、血糖値は入力されていた。移動した経緯までは綴られてない。
他の患者さまも確かめた、ミラと同様「数値」のみの記録だ。
 
「看護記録が少ないからには。夜間、病棟全体がワサワサしていた。ナース・コールはほぼ一晩中、鳴り止まなかったんだろう」
大袈裟じゃない…本当にこんな夜はある。

僕だって、伊達に長いこと臨床の現場に立ってない。昨夜から今朝にかけて病棟で起きた事態は、ほぼ想像できた。
 
58床ある病棟の夜勤は、午後16時30分から翌日の午前8時30分の16時間だ。ナース3名、看護助手さん1名でこなす。

入院する患者さまも、10代後半から80代まで、年齢層も幅広い。コールの内容も十人十色。

急変だけでなく不眠や突然の発熱、気分不快。
生活面でのサポートも多い、術後もしくわ筋力低下によるトイレの付き添い。認知症を持つ方の対応は、時間も掛かったりする。
 
実はコール内容いかんで、緊急性のある全身状態の変化が分ったり、治療の変更に繋がる事は少なくない。

とにかく急いで病棟へ上がろう。デスクを離れた僕は、速足で医局を出た。
 
ガタン…。
医局の斜め前、職員用階段の扉を押した。
 
5階の病棟を目指し、階段を早足でのぼる。
昨日入院時のインフォームド・コンセント、ミラの様子を振り返る。

気がかりな主訴は、二つに増えていた。
強い倦怠感と、記憶障害・健忘症状だ。
 
後者は、インスリノーマの合併症を疑ってはいるものの。それにしては短期記憶・長期記憶ともに、低下が進んでいた。
 

入院初日の説明は、南側の面談室で行った。

車椅子に乗ったミラ、そして3人のキーパーソンが揃った。

キーパーソンは車椅子を押す女神ミネルヴァ、点滴棒をミラの代わりに押す真紀子さん、進行方向へ誘導する女神ウェヌスだ。

 

初日なので僕の説明はインスリノーマの確定診断と治療に向けた、検査の流れが中心だった。さらにクリニックでは実地できなかった膵臓以外、全身の精査も実地する予定を伝えた。
 
ミラの担当ナース中里さんは、4年目の中堅どころ。急逝時のアナフィラキシーショック、このエピソードから万が一の薬剤アレルギーに対しては、ステロイドを使用することや。MRIなど、閉鎖空間の検査についても触れた。

ミラはかつて「兜」は装着したものの、当時の記憶は残ってない。
「現に閉所が苦手な方もいます。特にオープンタイプでないMRIの機種では、頻度は少ないが中断するケースもあるんですよ」
中里さんは熱心に説明した。
 
しかしミラ本人からは病気や検査に関して、これと言った質問はなかった。
「最近は忘れっぽいし、覚えきれないの」
ミラの素っ気ない返事に対して、中里さんは小さなため息をついてしまった。

「だからこそ、何かあったらナース・コールを押せばいいんだよ」

空気を読んだ知恵の女神ミネルヴァが、フォローしてくれた。

キーパーソンらの報告によると、ミラはここ数日で倦怠感も強くなり、自宅では誰かにつかまりながら移動していた。フラフラして、たびたび転倒仕掛けた。
だから入院後は、車椅子を使っていた。
 
倦怠感については、採血で、貧血や他の原因を確かめるが。体重の増加も、倦怠感を増しているだろう。

絶食検査の影響もあったのか、インスリノーマの患者さまに多い過食傾向が進んでしまった。

さらにプラス4キロ、体重が増えていた。
身長は154センチ・体重は68キロ、BMI28,6%だが、病気の影響だ、やむを得ない。

幸い意識消失を来すほどの、重度の低血糖は回避できていた。


インスリンの分泌を抑える薬剤「ソマトスタチン」を、倫太郎が注射で投与を開始してくれた、その効果が現れている。高濃度ブドウ糖液の点滴と共に、どちらも継続している。

 
そうそうインフォームド・コンセントが終わる頃だ、ミラは突然「ガイウスの行方」を尋ね、ソワソワし始めた。

「ガイウスはどこに行ったの?どうしてワタシの入院に、付き添ってくれなかったの」

 

ミラはガイウスの行方を探すように、面談室をキョロキョロ見渡した。腰を浮かして、二本の点滴ラインや輸液ポンプの「投与量」ボタンに触れようとした。
彼を探しに行くには、邪魔な物だろう。

ミラが気にした二本の輸液ラインは、維持輸液とブドウ糖液だ。
ポンプは24時間持続投与中のブドウ糖液に用いていた、血糖コントロールのためだ。
 
キーパーソンの3人が、ミラを落ち着かせた。

「ガイウスは昨日、フォロ・ロマーノへ戻ったな。病気の治療と経過を、最高神ユピテルへ報告するためだ」
「術後を心配した、マルスとメルクリウスも同行しているわよ」
「3人で、外出していたかもしれない…」

ミネルヴァとウェウヌスが、彼の行方を伝えたがミラは曖昧な返事をした。

ガイウスは火曜日に退院した、その翌日にはローマへ戻った。自らの治療経過と、ミラの状態を報告するためだ。

実はガレノス先生と酒神バッカスが、事前に最高神ユピテルへ相談していた。

そこでユピテルは直ぐに動いた。一旦、帰国するようメッセージを送った。この件も、何度かミラに話したそうだが、やはり時間が経つと忘れてしまう様だ。
 
「剣闘士だった過去は、ほとんど覚えてない。傷あとが、不思議でならないのよね」
「自分が剣闘士だったなんて、信じられない」

真紀子さんはパジャマへ着替えを手伝いながら、さりげなく傷を覚えているか尋ねてみた。ミラは首を捻ったそうだ。
 
長期記憶と短期記憶の低下は、月曜日に倫太郎から報告を受けた時点に比べて、進行していた。
これはガイウスも含め、神々のヴィラで暮らすキーパーソン達も、肌身で感じていた。
 
慌てず対応できたのは、知恵の女神ミネルヴァの事前学習だった。
女神はインスリノーマの合併症による記憶障害・健忘症状だけでなく、むしろ多い他の原因や、介護の知識まで学んでいた。

僕の方からも、今後起こりやすい精神状態の変化も話しをしたんだ…。
 
ガタン…。

「ハアッ。運動不足だ、息が上がっちゃった」
昨日のインフォームド・コンセントを振り返っている内に、5階消化器病棟へ到着した。
重たい扉を押して、病棟へ入った。

案の定、普段に比べてフロア全体が静かだ。
夜勤スタッフも見かけない。間もなく朝食だ、検温に追われているのだろう。
 
「部屋の入口も閉じたままだし、廊下を歩く患者さんも少ないな」

建物中央は吹き抜けになっていて、日の光が差しこんでくる。南側の個室は、朝焼けが眩しい丘陵地帯を望む。
 
普段ならこの時間帯は、病棟ならではの光景に遭遇する。たいてい術後の患者さまが検温に回るナースの代わって、吹き抜けに面した窓のカーテンを開けていたり。

景色を眺めながら、イレウス予防・筋力回復を兼ねて点滴棒を押しながら歩いている方を、多く見かける。しかし今朝は廊下のカーテンも、閉まったままだ。
 
僕は昨日使った面談室を通り越して、南側の廊下を左方向、ナースステーションへ急ぐ。
 
パッ、パッ。

数メートル先の個室で、ナース・コールが点滅している。

505号室は昨年、消化器外科チームで担当した患者さまが入院している。
72歳の林和子さんは、大腸癌術後の再発と肺転移で薬物療法のために、おととい入院された。

林さんは、アルツハイマー型認知症を発症されている。生活全般に介護が必要だ、同じ敷地内にある有料ホームへ入居中だ。
 
「今回も、入院時せん妄を起こしてしまった。筋力も低下しているでしょう、歩行も一人では難しい。入院前はホームの廊下で転倒して、尾骨を骨折していました」
消化器内科の担当医師から、昨日だったかな、報告を受けた。

「あらまあ夜勤スタッフは、コール対応に来ないから。手が離せないんだな」
入院前に起きた転倒と骨折が、気になった。

赤色が付いたネーム・プレートの横、ナースコールのスイッチを押した。
それでもナース・コールは消えない。

って事は、部屋の中にナースがいる…もしくわ林さんが、まさか歩いてる?
踏むとコールが鳴るマットは、転倒予防に用いる、ナースコールと連結している。
 
ドアを少し開けて、部屋の中を覗いた。消化器内科の当直医師が、診察していたからホッとした。
 
「林さん。両膝以外に打った場所、覚えていますか?膝のレントゲンを撮影しますからね。えっ、出掛けるから、支度する?トホホ…だからベッド柵を乗り越えてしまったかあ。報告を受けた際、僕はびっくりしましたよ」

なるほど、林さんは膝を付くような形で転倒してしまったんだろう。下肢の筋力が落ちているため、歩行は難しいが。ご本人は「せん妄」と「認知症」の影響で、自らの状態を理解できない。
 
ナース・コールの必要性もピンとこない、万が一に備えて「センサー・マット」を敷いて、対応している。
 
「中林先生、おはようございます。マットのスイッチを、切ってないよ」
僕はドアの隙間から、できるだけ小さく声を掛けた。
 
「しまった…一太先生、ありがとうございます。夕べはミラさんも、入院時せん妄を起こして。先生のオーダー、セレネースを使いました。今、主任が検温してますよ」

中林先生は屈んでスイッチを切りながら、ミラについて簡単に報告してくれた。
 
「二人も、せん妄だったのか。お疲れ様でした」
看護記録が不完全になってしまうのは、仕方ない。僕はもう一度、中林先生を労い部屋を出た。髪の毛の寝癖は触れないでおいた、彼も眠れなかっただろうなあ…。
 
ミラの入院時の記憶障害・健忘症状の程度から、せん妄の発症は想定内だった。
対処するオーダーを、予め出しておいた。
 

せん妄は病気や薬剤、環境の変化などが原因で起こる、一過性の意識障害だ。

興奮や混乱、注意や思考能力の低下、見当識障害、意識レベルの変化を起こす。

 

薬剤のセレネースは症状の緩和に有効で、内服できない方に点滴で投与する。ミラは昨日の夕食後から経口摂取を控える検査を、本日午前中に予定している。
 
僕は予備室の前に立った。
ドアの取手を掴むと同時に、右上のネーム・プレートを目で追った。

ミラは入院時「黄色」だった、今は「赤」に変えられていた。

 

緊急時の移送は「車椅子」から「ストレッチャー」に変わったわけだ。「緑色」は独歩で避難できます…こちらを意味する。


時々、患者さまやご家族からネーム・プレートの隅にある「色分け」について質問を受ける。

ささやかながら、医療従事者には一目でわかる重要事項だ。

 

トントン…。

僕は予備室のドアをノックして、中に入った。

 

「福田主任おはよう、そしてお疲れ様。忙しい一晩だったでしょう。505号室で診察していた中林先生から、聞いたよ」


「一太先生おはよう、色々起こりました。ミラさんなんだけど、バイタルサインや血糖コントロールは平行。でも面会時間を過ぎた19時、ミネルヴァさんが帰宅してから、まず見当識障害が強くなった。ここは何処って、入院している事も分らなくなった」

 

どうやらせん妄は、この時間帯から出現した。

 

ミラはナースステーション側の右向き、側臥位で眠っていた。肩越しの金髪は癖毛なのか、ところどころ、ゴニョゴニョ丸まっている。

 

左右の手はミトン手袋が装着され、ベッド柵に結ばれている。両腕は体に触れられない。

倫太郎が右上腕から挿入してくれたPiccカテーテル(先端は心臓に近い中心静脈)を、自己抜去しかけたのだろう。


トホホ…中林先生の気持がよーくわかる。


抜去にともなう出血や、特にミラの場合はブドウ糖の点滴が止まる事で、血糖が下がってしまう。ミトン手袋は申し訳ないけれど、全身状態を優先した結果なんだ。

 

点滴を含めたラインやチューブ類…バルーン・術後のドレーンなどの自己抜去は「せん妄」時、もっとも起こりやすい。

体に挿入された「違和感・異物感」を感じる物だから。


次に起こりやすいハプニングが、フラフラ動いてしまった結果の、転倒だ。

 

さてミラが使用する点滴スタンドは、輸液が3ルートに増えた。昨日の説明時も気になったのだろう、触れていたな。


輸液ポンプから投与するブドウ糖、維持輸液の他に、生理食塩水100MLのボトルにセレネース0.5Aと書かれた点滴が、半分ほど残ってぶら下がっている。


「ミラさんね、見当識障害から続いて、幻聴と幻覚が現れた。仲間が私を呼んでいる、カルヌントゥムで引退試合がある。試合の準備をしなきゃいけない、傷は治ったって。大声を出してしまったんだ」

 

せん妄を起こしたミラは、消灯時間を過ぎた大部屋で声を張り上げ、興奮した。同室の方は眠れない、豹変したかようなミラの様子も気になってしまう。同室の方がナース・コールを押して、せん妄を知らせてくれたそうだ。

 

「ミラさんも、ベッドから降りていた。点滴スタンドは、盾のつもりだったのかな?私が520号室へ到着すると、細いスタンドの背後に体を隠すような姿勢で、フラフラ前へ進んでいた。倦怠感が強いでしょう、いつ転んでもおかしくない歩行状態だった」


間一髪、主任はミラを車椅子に乗せた。


 「危なかったね。でも不思議だな、長期記憶は低下していても。幻聴や幻覚として、剣闘士時代は蘇ったんだ」


いやはや、背景はドラマチックだけども。

ミラは試合の準備をする、この主張を繰り返して車椅子のブレーキをかけた。


これでは埒が開かない…主任は一瞬困った。しかしベテランナースは、ハタと閃いた。

主任は僕が渡した、フェリクス医師のカルテを纏めた報告書に、目を通していた。もちろんバリーニ家から、了解を貰ってる。


「円型競技場まで、私が送ります。コスチュームや使用する物品は現地で選びますから。準備は全て、現地に!!整ってます。さあ、試合へ行きましょう!」

「ああ…そうだった。じゃあ、お願いね」


福田主任は、剣闘士一座のスタッフになり切った。ミラが納得したので、素早くブレーキを解除した。


そのまま車椅子を押して予備室の手前、まずはナースステーションへ移動した。一人にすると、フラフラ歩き出してしまう可能性が高いからだ。

しかしミラは、他の行動を始めた。


主任がセレネースの点滴を準備するまでの、ほんの僅かな時間だった。ミラは右上碗に挿入されたPiccカテーテルの、固定テープを剥がし始めた。


これでは、目を離せない。

主任は休憩に入ったばかりの看護助手さん…いや「剣闘士一座のスタッフ」に、やむなくヘルプを頼んだ。


そしてミラを車椅子に乗せたまま、準備したセレネースの点滴を落とし始めた。

 

15分もたたないうちに、ミラはウトウトし始めた。このタイミングで予備室のベッドへ移動した、ミラを休ませた。

 

やがてミラは何事もなかったかのように、眠ってしまった。真夜中に覚醒したため、再度残りのセレネースを投与して、現在に至る。

 
「7時30分には、FDP薬剤を静注するから。ミラさんには申し訳ないけれど、このまま眠ってもらいます。キーパーソンも早めに来院して、万が一の覚醒に備え、付き添ってくれるそうです」
 
僕は昨日の説明時に、せん妄の可能性を話した。主任は真紀子さん宅へ、一報をいれてくれた。
 
「インスリノーマの診断や、脳の状態を把握するにも正確な画像を描写したいから、協力は有難いね」

ミラは9時からFDP・PET(陽電子放出断層撮影)-CT検査が入っている。こちらの予約は、朝一番の時間帯だけ、空いていた。

PETとCT検査を組み合わせて行う。
外観はCT検査の様な機器。
 
PET検査で用いるFDP薬剤は、ブドウ糖と似た性質を持つ放射性薬剤だ。薬剤の性質で、検査前は食事、甘い飲み物は控えて頂く。

FDP薬剤を投与後、全身へ浸透させるため、一時間ほど安静、横になって頂く。
 
PET検査は、FDP薬剤が全身で代謝される状態を活かす。体を動かしてしまうと、薬剤の特徴から筋肉に集まってしまい、正確な状態が描写できない。患者さまからすると、ちょっと厄介かな。
 
ミラの精神状態では、眠ったままの方が、確実に実地できる。でもホントは安静だろうが、検査はシンドイね、色々ごめんね。
 
CTとPET検査と組み合わせる事で、病気の部位、転移など、詳細が分かる。またインスリノーマのような小さい腫瘍の診断に、とても有効だ。
かつミラの場合は記憶障害・健忘症状の原因を判断する、エビデンスが出るだろう。
 
ほどなく僕は、回診に合流した。
同期の女医さん山路先生と、若手の石川君が先に回っていてくれた。
やはり患者さまは、まだウトウト眠っていたり、ベッドで休まれている方が大半だった。

「一太先生、夕べは病棟に嵐が起きた。ナース・コールの連打だった。ドアを閉めてもバタバタした雰囲気って、伝わるでしょう?叫び声も聞こえた」

中嶋さんは「昨夜の嵐」を患者さまの視点から、教えてくれた。彼もなかなか寝付けず、初めて眠剤を希望した。これを内服して明日…本日の血管造影に備えた。

そうそうガイウスは、中嶋さんと同室だったな。二人は話しをしながら、回診前の時間帯、吹き抜け側のカーテンを開けていたっけ…。
 
さて回診を終えたところで。
今度は夜勤のメンバーさんに「院内コンビニ」で買った朝食を差し入れした。山路先生が買ってきてくれた。

休憩・仮眠を取れてないし、ナースは記録が残っているから超勤だ。

福田主任は目の下のクマもクッキリ、メイクは落ちていたし…アップにしていた髪の毛は一つに結ってたな…。なおす時間が、無かったんだ。

僕は消化器科部長で、福田主任と同じ立場にあたる。山路先生と内科の中林先生は副部長だ。僕らは院内の安全管理委員会、倫理委員会なんかにも出席している。
 
患者さまが安全に治療を勧められる、入院生活環境の配慮は欠かせない。でもそこにはスタッフの勤務状態が…難しいけど本当は、整っている事が必要で…。

 まあ差し入れは、ささやかな物だけど。
ハードな仕事であることは医師もナースも、看護助手さんも同じだ。スタッフの病気や離職、転職は多い。患者さまの状態は最優先だけど、僕らは職場環境の見直しも定期的に行なっている。

…一太先生、困ったわ。中里さんが辞めたいって。だから珍しい病気、ミラさんの担当を勧めたの、勉強になるものね…

管理職の福田主任も、月二回だったかな、夜勤に入っている。普通は日勤オンリーなのにね。

あっ、僕も週末は当直だった、すっかり忘れていた。勤務を思い出しながら、一階にある腹部血管造影室へ降りた。


今日は一日、Angio(アンギオ)血管造影室にこもって、腫瘍の特定や肝動脈化学塞栓術などの治療を行う。

ミラは明日、こちらを応用した検査を予定している。インスリノーマを造影剤で映し出す。

 

さて最初の患者さま、中嶋さんの肝動脈化学塞栓術を開始した。肝細胞癌に薬物療法を行い、栄養する血管に塞栓物質を詰める。いわゆる、兵糧攻めだ。


気が付けば3時間以上が、経過していた。

先ほど中嶋さんの治療を終えた。


窓越し造影室の内部では、アンギオ君こと放射線技師の宮島君が、次の患者さまの準備を始めている。


今日は「血管・腫瘍の造影のみ」を含め、4名の検査を予定している。なかなかハードだ。

 
ミラのFDP・PET-CTは、終了しているはずだ。
僕はアンギオ控室で、ミラのカルテを開いた。
 
「おっと、細胞診の結果が出た」
月曜日に美月クリニックで実地した、穿刺吸引細胞診の結果が出ていた。

インスリノーマは二つ判明した、一つは頭部・鉤部に、もう一つは体部だ。結果はどちらも「NETネット G3」に該当した。

(Neuroendocrine・Tumor…神経内分泌腫瘍、グレード3)


「ガイウスと腫瘍の分類について、話しをしたけど。話題にした、まさかのグレーゾーンじゃないか」

細胞診の結果を、思わず口にしてしまった。


「NETネット・ G3」の段階は比較的、進行速度が遅いタイプには属するけれども。

元々は段階「NECネック」…(Neuroendocrine・Carcinoma・悪性腫瘍)から分かれた、何とも微妙な性質を持つ。


だからミラのインスリノーマは、腫瘍の増殖能力を現わす数値が、カルチノーマの段階だ。


「強い倦怠感と記憶障害が目立っている、それだけ腫瘍の進行が速いのかしら、二つ認めているし。まさか肺転移から、脳まで渡ってないよね?それはない、だったら四肢麻痺や言語障害が出てしまうもの」


 山路先生が、右横から診断結果を覗き込んだ。

普段は淡々としている、珍しく感情的になってやしないか?

彼女と僕は介助を交代しながら、一日、血管造影を行う。

 

「ミラさん、ガイウスさんを置いて生まれ変わりへ進む…これは望んでないよね?」

「そりゃそうでしょ。でもミラは今後に関して、口にしてないね」


魔術の効果も薄れているから、生まれ変わりへ進、説明は聞いているはずだ。

こちらも、忘れてしまったのかもしれない。


「ガイウスさんは統治時代の後悔も、少しは残っていたけれど。それ以上の理由があって、全身を抜毛しちゃった。移り変わる世界を眺めて胸が痛んだから…ホントは、愛情深い人ね」


「2000年近い時間が、ガイウスを本来の姿に戻してくれた。ミラは彼の変化を、目の当たりにしてきたんだ。二人揃って神格化、鎮魂の旅に出て欲しい」


時間と言えば。夕べから今朝に掛けての病棟は、嵐が吹き荒れた。ハプニングが多くて、迷走状態だったな。


…ようやくミラは、生まれ変わりへ進む…

…遮る者は、許さない。お前たちは邪魔だ…


誰かが僕の耳元で囁いた、「迷走の魔術」を掛けた者だろうか?幻聴ではなかった。


オン コロコロ センダリ マトウギソワカ。


僕は胸の内で、薬師如来さまのマントラを唱えた。そちらの世界に引っ張られないよう、自分の役目に集中する。


「山路先生、脳転移の可能性は低いよ。むしろ大動脈周囲のリンパ節、肝臓への転移が気になるね。画像を確認しよう」

僕はカルテをFDP・PET-CT画像へ変えた。


インスリノーマの発症が先か、女神ディアナの魔術が溶解が先だったのか、それは分からない。


でもミラの全身60兆個の細胞は「生まれ変わり」へ進むために、急激な変化を起こしている。

検査を進めながら、全貌は明かになっていくだろう。

 

 

お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
 
写真・文・Akito
 
参考書籍 他
メディックメディア・病気がみえるvol,1.2
医歯薬出版株式会社 田中美恵子・濱田由紀編著 精神看護学 
学研雑学百科 仏像のなぞとひみつ
新潮社 塩野七生著 ローマ人の物語(Ⅰ・Ⅶ・ⅩⅤ)
山川出版社 本村凌二著 帝国を魅せる剣闘士
 
kompas.hosp.keio.sc.jp 神経内分泌腫瘍
jstage.jst.go.jp ガイドラインからみたインスリノーマの外科治療