「ガイウスの入院先を、教えて欲しい」

 

第3代ローマ皇帝、ガイウス・カエサルの恋人ミラは、遂に、きさらぎ訪問診療クリニックの門を潜った。


俺とシルバヌスは、ガイウスから入院先の病院、治療もろもろについて、彼女に黙っていてくれ、訳あって口止めをされていた。

 

「こうなったらゲートを開けて、ええじゃないか?僕も、勝手に家を飛び出しちゃったもん」

 

補液中のディオニュソスは、アフロディーテに体を起こして貰いながら、いざって時に役に立てないと歯がゆい、頬を赤らめはにかんだ。

 

「どのみち僕らだけじゃ、解決できる問題ではないよ。アレス、いい機会だよ」

「そうだな。結局ミラは、元御典医ガレノスにも相談してないようだし…」


酒神の本音は、シルバヌスと俺の背中を押してくれた。

 

「賢一郎、実はね…」

俺が本題に入りかけた、まさにその時だ。

 

「ミラ、じっとしてろ!」

「お姉ちゃん、フラフラ危ないとっ!」

エロスと中嶋のオバちゃんの甲高い声が、院内に響いた。

 

俺は反射的に、右背後へ振り返る。

扉の開いた処置室から、待合室の様子が目に飛び込んできた、瞬時に駆け出した。

 

待合室の長椅子に腰かけていたはずのミラが、こちらへ歩き始めている。

ブルーの半袖ワンピースがユラユラ波を打つ、いつ前方へ倒れてもおかしくない。


車椅子はクリニックの玄関付近に常設している、エロスは取りに行きかけた。

 

「エロスさん、車椅子は間に合わない。お姉ちゃん、これに座ると!」

「オバちゃん、商売道具をサンキューッ!」

 

気転を利かせた中嶋のオバちゃんは、洗濯浄化済みのユニフォームを入れた大袋を、長椅子に置いた。

 

ドスンッ…。

 間一髪、間に合った。


エロスと俺、そしてシルバヌスは、ミラの大きな体を無理矢理押し込み、尻餅をつかせ台車に乗せた。


でも油断は、禁物だ。

男性三人は中腰になり、背中と左右の両腕に配置を分け、彼女の大きな体を支えた。

 

「ミラさん、分かりますか?」

「額から汗が凄い、顔色も不良だよ」


追いかけてきた岸田主任と賢一郎が、ただちにミラの状態を確かめる。

ミラは主任の問いかけに微かに頷いたものの、返事をしない。

 

「処置室へ運ぼう」

賢一郎の鶴の一声、ミラをクリーニングの台車に乗せたまま処置室へ戻った。

 

「アレスとシルバヌスは親友だ。二人、力を合わせてえ…せえのっ、ヨッと!」


点滴中のディオニュソスが音頭を取り、彼の左隣のベッドへミラを休ませた。

 

にわかに院内が、慌ただしくなる。

荒ちゃんは診察手続きのため事務室へ戻り、エロスは美月クリニックへ連絡する。

 

昇天の儀式に参加した元御典医ガレノスも、受診中だ。ミラが自身の体について、相談をしてないか確かめる。

 

「ガイウスは、ここに入院しているでしょう…」

ミラは目を開いたものの、焦点が合わない。

さらに混乱しているのか、来院時の趣旨と辻褄が合わない。


相変わらず額からは、玉のような汗が噴き出している。ガイウスから聞いていた彼女の症状は、明かに進んでいた。

 

「ミラ、違うよ。ここは、きさらぎ訪問診療クリニックだよ。ガイウスは他の病院に、入院している」


彼女はぎゅっと目をつむり、今度は口をへの字に曲げてしまった。大ファン、シルバヌスの声かけにも返事をしない。

 

「賢一郎先生…多分、低血糖症状ですね」

「だとしたら症状が、ヘビーだね」

岸田主任が、血糖値や血圧測定に掛かる。

 

賢一郎は慣れた手つきで、心電図モニターを装着した。だからミラの腹部と両腕、両足に残る傷痕が、あらわになった。


「これは、外傷のあとだね…」

「大小、様々ありますね」


傷痕は薄くなっているものの、賢一郎と主任は素早く視診した。


「生前のミラは、女性剣闘士だったんだ。体の傷痕は、当時に受けたものだ。でも5年の現役を、勤め上げた」

女性剣闘士は、実在した。


「なるほど、引退して木剣を授かったのね。さて糖尿病をはじめ、他に既往歴は分かる?」

 

賢一郎の前世は、ユリウス・カエサルの部下に支えた軍医だ。ローマ史は精通している、理解が早い。


現代では腎臓専門医、腎不全をはじめ人工透析や、腎不全の原因となる糖尿病、メタボリック・シンドロームなども専門分野だ。

 

「現役を退いてから一年後、流行りヤマイで旅立った。他に大きな病気に掛かったとは、聞いてない。そんな様子も、これまで見かけてない」


特技は健康…くらいの人だった。


「ガイウスと本人によると、高熱が出た数日後、旅立った。僕と似た様な肺炎とか、何かしらの感染症だろうね」


俺とシルバヌスは思い出せるだけ、ミラの経過を告げる。

 

「了解。となると今回のような症状は、いつからから発症したのだろう?」

 

賢一郎は俺達の報告に耳を傾けつつ、翼の形をした針と、「50%ブドウ糖20ML」と書かれたシリンジをトレーに準備していた。

 

「低血糖のような症状に気が付いたのは、三ヵ月くらい前だ。徐々に強くなっているようだ」


「パートナーのガイウスは、病院嫌いの彼女に、せめてガレノスを受診するよう促していたんだ」

 

ここで岸田主任のピッチを借りて、美月クリニックと通話中のエロスが、首を横に振った。


という事は…やはりミラは、ガレノスの診察も受けてない。彼は昔、剣闘士を診察していた。

現在二人は、もちろん友人関係だ。


「急な変化に驚いて、受診を戸惑ってしまったのかな?仮に劇症型の1型糖尿病だったら、生前に発症してもおかしくない。剣闘士は大麦をはじめ炭水化物を中心に食事を摂取して、脂肪を付けたらしい。そうすることで、臓器や骨格筋、神経などを守ったようだね」


 賢一郎は剣闘士養成所…宿舎が医師、温泉やマッサージなどが、完備されていただけでなく。だから命の保護も、視野に入れていた。

比較的、新しい学説、解釈をおさえていた。


「元カエサル軍の軍医、賢一郎は古代ローマに詳しいな。ミラも現役時代、食事で体を大きくしたんだ」


「プロの剣闘士の腹筋は、シックス・パックに割れちゃいなかったんだよね」

 

ミラの症状から多少、脱線するが。

俺とシルバヌスは、賢一郎の古代ローマ・マニア振りに…またしても関心してしまった。

倫太郎と、肩を並べるな。

 

「でも今は、現代の食生活でしょう?イタリアは食の国ですもんね。先生…血糖値スパイクにしては、値の変化も激しいです」

「あらまあ、Lowか…」

 

賢一郎と岸田主任は揃って眉根を寄せ、測定した血糖値を覗き込む。

値は「Low」だ、これは20mg/dlを下回っているらしい。

 

血圧は75/50mmhg、脈拍80回だ。

幸い心電図の波形は、俺のような不整脈はない。

 

 

賢一郎はミラの利き手、右腕から注射針を穿刺して、準備していたブドウ糖を注入する。

血糖値が上昇するまで、更に経過を伝える。

 

「体重は、60キロ弱くらい。現在は65キロまで、増えてしまったようだ。冷や汗が出たり、ボーッとするのが怖くて、頻回に食べていたようだね」


だからガイウスは、神々の主治医でなくても、せめて馴染みのあるガレノスを受診するよう、何度もミラへ言い聞かせた。

 

「ガイウスは、思いがけず緊急入院になってしまった。ミラの状態では、混乱する可能性が高い。退院するまで詳細は伏せて欲しい、可能なら受診を勧めてくれ、僕とアレスは頼まれたんだ」

 

 

こんな時はアタシかヘラ、ウェスタでも構わない、一人でしょい込まないで、親しい女神に相談してくれればよかったのに…。アフロディーテはミラの金髪を、そっと撫でた。

 

「前後するけれど、ミラの現役時代は、ガイウスが皇帝だった頃かな?」


賢一郎は傷の大きさを、測定しメモに取る。

カルテに記載する、大事な情報だろう。

 

「いや、違うんだ。16代皇帝が即位した初期の頃」

 「この時期ガレノスは、皇帝の侍医になっていたはずだよ」


皇帝は大勢いるので、名前はすぐに出てこない、朧気な記憶を辿る。


シルバヌスも16代皇帝、マルクス・アウレリウス・アント二ウス…舌を嚙みそうな長い名前を省いたが、5賢帝の一人で最後の人。


そういえば、なぜ5賢帝と言われたのか?

一応ローマ帝国の神である俺も、きれいさっぱり忘れた…神よ、許して下され。


「ちょっと、待って下さい。具体的な年代を把握した方が、ミラやガレノスが活躍した時代をイメージしやすいですよね」

 

事務の荒ちゃんは、準備した手書きのカルテや看護記録を、まず各自へ渡した。賢一郎は早速、カルテの人型に、傷を記している。

 

「お待たせしました。アントニウス皇帝の在位は、紀元161年から180年で、19年間」


荒ちゃんは自分のスマホから、当時を検索、調べてくれる。


「ガレノスは故郷のトルコで157年から3、4年、剣闘士の医師を務めた。162年から典医だったようですね。参考までに、3代皇帝ガイウスの在位は37年から41年、4年間でした」


字の綺麗なアフロディーテが、関連事項も含め、患者さま情報用紙へ記入した。


神々も役割分担して、ミラの回復を待ったものの…。主任が血糖値を再検すると、75mg/dLだった。


「反応が、今一つだなあ…。精査は、視点をずらした方がいいかもしれない…」


賢一郎は5%ブドウ糖100mLの投与を、岸田主任へ指示した。

 

そして美月クリニックと通話していたエロスと交代し、どうやら直人にコンサルトを始めた。


内視鏡検査がどうのこうの、専門用語も多いので、素人の俺には意味が分からない。

 

そうこうするうち、ミラの意識が復活した。


「皆さん、迷惑をかけて申し訳ない。ガイウスに優先順位を考えろと言われたけれど、その通りになってしまった。

病気の治療に、取り組むべきね」


ブドウ糖の点滴を追加投与した効果で、血糖値は正常まで上昇した。


「彼と私は剣闘士養成所跡を始め、彼らが眠る場所へ、鎮魂の祈りを捧げる。かつてのローマ帝国を、旅してまわる予定なの」


言葉も意識も明瞭な様子に、俺は胸を撫で下ろした。出来る事なら、これ以上、親友が悩む姿を見たくない。


「そのために、お互い病気の治療を始めようと決めた。でも私は、日に日に症状が強くなるから、結果を知る方が、怖くなってしまった。現役時代は、健康そのものだったもの」

 

だから無事に引退し、木剣を授かった。感染症で亡くなる頃は、恋人のガイウスと同じ状態になれる、悲しみよりも期待が募ったそうだ。


魂の状態になって初めて、二人は最大のピンチに見舞われた。それが、病気だった。


最終的に、どちらか先に生まれ変わるのか?

二千年近く共に過ごしてきたが、遂に別れるのだろうか、不安が押し寄せた。


ミラのストレートな告白に、なんとなくこの場がしんみりしてしまった。


しかしここのスタッフは、ゲートを開くタイミングが上手だ。

 

「一休み、しましょうか。賢一郎先生も、ミラさんが何か食べるよう、勧めています」


「長崎のお茶と、カステラたい。ガイウスさんのお、素敵な御召しものは浄化したけんね。後でミラさんに、見て欲しいと。皇帝から神様の御召し物に、変わったと」

 

荒ちゃんと中嶋のオバちゃんは、二階の休憩室から緑茶や、お馴染みカステラを運んでくれた。

 

「こんな時に渋滞にはまって、なかなか戻れない。倫太郎と亜子が、気の毒たいねえ」


さらにエロスのモノマネで、処置室の空気も、和らいできた。


「私の父は市民から剣闘士になった、少ないケースだった。でも5年間、無事に勤めて、木剣を授かった」


ミラも打ち解けてきたのだろう、今度は生い立ちを話し始めた。


プロの剣闘士は、二年間養成所で訓練を積み、任期は5年だった。無事に引退した証が、「木剣」の授与だった。


「父は引退後、16代皇帝が建設したウィーン郊外、カルヌントゥムの剣闘士養成所で訓練士になった。花形剣闘士だった父の姿を見て、私も志してしまった。

だからこそ皇帝カリグラ…彷徨うガイウスの魂と、出逢えた」

 

ミラはベッドの背にもたれに寄りかかり、緑茶を啜る、美味しいと微笑んだ。

そして昔を懐かしむように、茶色の瞳は遠くを見つめた。

 

そんな彼女の様子から、俺もセンチメンタルな気分になってしまった。

ふとBGMを思い出して、耳を傾けた。

 

ジャン・マルク・ルイサダが演奏するショパン集は、ロマンチックでどこか官能的なノクターン16番から、幻想ポロネーズに変わっていた。

 

「この曲って、広大な時間の流れの中にさあ…」

「悲喜こもごも、ドラマが浮かんでくる様な曲なのね」

 

細長い緑色の湯のみを手に持つアフロディーテとデオニュソスは、隣のベッドでカステラを頬張るミラの様子に、目を細めた。

 

ミラが誕生する140年近く前、幼少期のガイウスの渾名は「カリグラ…小さな軍靴」だった。


ライン河に沿った国境付近、辺境の地を守るローマ軍の兵士から、親しみを込めた渾名で呼ばれなければ、時代を超えた、二人の出逢いはなかっただろう。


剣闘士達は、所属する興行師に連れられて、軍団基地をまわり、競技を披露した。だからミラも、ライン河国境付近の、軍団基地を訪れた。


一方、魂の状態であるガイウスも、ゆかりのある国境付近の基地を訪れ、時には開催される競技を見物していた。


そんなある日、女性剣闘士ミラが登場した。

告白したのは、ガイウスだったでしょうな。


出逢いのきっかけが、古代ローマ史を語る上で、眉をひそめがちな剣闘士の活躍であるからこそ、二人は心の痛みを、分かち合ってきた。

 

照れ屋なガイウスは、生まれ変わったら日本人女性と恋がしたい、誤魔化したそうだが。


彼の病気「抜毛症」の原因にもなった心のしこりを、ミラと共に剣闘士たちを追悼することで、浄化するつもりだった。


このまま神々の元で、過ごすことになる…親父ゼウスも、二人の神格化はとっくに了承している。


「そういえば、剣闘士のルーツは?これも、忘れちゃった」

シルバヌスが、キョトンとする。


「確か古代エトルリア(イタリア中部)、カンパニア地方(南西部のナポリ付近)、弔いの場で設けられたはずだ。その意味はローマ帝国にも、受け継がれた」


やがてミラも競技場のゲートを潜り、眩しい太陽光と、興奮に湧く観衆に迎えられただろう。


かつてのガイウスも、皇帝専用のゲートを抜け、独特な歓喜と興奮を、全身で感じたはずだ。


剣闘士競技に関しては、およそ3パターンに受け止め方が分かれた。


哲学者のキケロや、帝国の基礎を作ったカエサル、初代皇帝アウグストゥスらは、自分の好みに関係なく、市民の欲する物を政策の一環として受け入れ、折に触れ開催した。


2代目皇帝ティベリウスは、その鍛え上げた肉体を神聖なオリンピアの場で、試した人だ。

剣闘士競技は、好まなかったタイプ。実際、財政を整えるために中止した。


そして3代目皇帝ガイウスは、幼い時期から軍団基地で過ごした経験も影響したのか、市民が好む物を理解し、自らも好んだ。


以上ざっくりだけど、こんな感じに、好みは別れる。しかし感じる心って、不思議だよな。


一部のキリスト教徒は剣闘士よりも、ギリシア演劇の方を、例えば官能的表現が好ましくないと、主張したそうだし。

ギリシア文化に傾倒した5代皇帝ネロは、ファイターよりも、ギリシア演劇を好んだ。



「ミラさんの前世は剣闘士、逞しかねえ。でもごめんなさい。私は前世でえ、ローマ帝国の国教になったキリスト教…イエスを、踏み絵を踏んだと、しかも両足で。その後は、遊郭のゲートを潜った、コルティジャーナ(遊女)たい。でもお特有の病で、世を去ったと」


中嶋のオバチャンは得意の「遊女物語」で、さらに沸かせてくれた。


「楼主サタンが、現世の旦那さんなんだよ」

「過去の渾名が、サタンの理由は。遊女が病気に罹っても、診察代金をケチった。ほとんど医者に、診せなかったようなの。儲けが大事」


「ハハハッ。二人の出逢いも、随分ドラマチックだったのね」


すかさずエロスと荒ちゃんが、ツッコミを入れて、ミラの笑いを誘った。


「ミラの病気なんだけどね…消化器外科の診察を受けた方が適切だと、僕は判断した」

「一先ず直人先生が、診てくれるそうです」


シルバヌスと俺、そして通話を終えた賢一郎と岸田主任は、ミラの診断と治療について、方向性を共有した。

この後、彼女に持ちかける。


 

お時間を割いてお読み下さり

どうもありがとうございました

 

写真 文 Akito

 

参考図書ほか

 

山川出版社

本村凌二 著

帝国を魅せる剣闘士 

 

新潮社

塩野七生 著

ローマ人の物語Ⅶ

 

メデイックメディア

病気がみえる3

 

春秋社版

ショパン集5

 

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