「ヘラの全身状態は、どこか変なんだよ」
「ヴァインキ一族の生まれ変わりであっても、落ち込むな。こんな時だから、くれぐれも行動は慎重にな」
車内で直人さんと祐樹から届いたメールに、目を通した。
今思えば二人のメッセージは、寄り道をするなと暗示していたのかもしれない。
それでも亜子と俺は、真っ直ぐ自宅へ帰る気にはなれなかったんだ。
「明日と明後日は、きさらぎクリニックも久し振りに連休だし、ドライブへ出掛けよう」
自宅付近が緑の多いエリアだから、海岸方面を選んだ。
「ありがとう。これから私と倫太郎さんは、どんな風に神々とバリー二家へ協力すればいいか…潮風にあたりながら、考えようよ」
ペガサスに乗りローマへ戻った女神ウエスタ一向とプルート・バリー二らを見送った後、亜子と俺も終業した。
連休前だから、夜のドライブに出かけた。
ところが「ヴィアンキ・ショック」は和らぐどころか、増してしまった。
と言うのも道中、亜子が直人さんや祐樹からのメールを読み上げてくれた。
更にショックへ追い討ちをかける様な、事実を知ってしまった。
「過換気発作を起こしたヘラは、血ガスまで取ったの?」
ケツガスって、略語ね。
血液ガス分析は、動脈から取る採血だから、臭くないわよん。
大雑把に言うと動脈血液に含まれる、二酸化炭素や酸素の濃度など、他にも色々分かるんだ。
「うん。それで抗不安薬を注射して、発作を鎮めた。もちろん、抗不安薬は変更した」
なんとヘラは直人さんの診察を待つ間、詩乃さんへ発作を起こした時の様子を伝えている最中、過換気発作を起こしてしまった。
だから、血ガスを取った。
ヘラのケースでこの検査を参考にする場合、指先に挟むパルスオキシメーターの、採血バージョンかな。
しかし直人さんが、血ガスを測定したからには、ヘラは重い過換気発作を起こした、かつ繰り返していたのだろうな。
過呼吸を起こすと、ひたすらハアハア苦しくなるから、酸素だけでなく血液の「二酸化炭素」も低くなる。
ヘラは手足のしびれなど合併症も、出ていたかもしれない。
これが過換気発作の、特徴の一つなんだ。
にも関わらず、直人さんのメールには、「何か変だ…」と綴られていた。
「何か変」は、重い過換気発作を誘発するヘラの全身状態を指す。
でも今までは例の魔力を消滅する、かなりなストレス下でも、抗不安薬で発作は充分おさまっていたんだよなあ。
それだけ彼女の精神状態は回復していた、ゼウスの寄り道癖を、冗談半分に見守る余裕もあったんだ。
実際二人は、仲良くしていたしね。
だからヘラは、明らかにヘビーな発作を起こすほどの精神状態ではなかったはずなんだ。
まして先週の健康診断では心臓や肺機能にしろ、病気は無かった。
検査値も長寿とは思えないほど、良好だった。
神々の中で、今のところナンバーワンよ。
だからこそベテラン医者の直人さんが、訝しく思うわけだ。
祐樹もヘラの発作について、直人さんと同意見を、チラッとメールで綴っていたほどだ。
そして彼は、こんな時だからこそ、お互いの行動は慎重にと、珍しく注意をしていた。
医療者が、時折患者さまの全身状態変化に抱く、何か変だな、急変しないだろうか…?
その前に、必要な検査をしておこう。
裕樹はこの勘を、自分達に置き換えたのだな。
「直人さんと裕樹君がヘラの状態を訝しく感じても、現に彼女は過去の不審火事件に、強いストレスを感じて、不安に駆られたのだから。
その奥に潜むヴィアンキ家の野望を、早く消さないと。それが私と倫太郎さんの、務めの一つだものね」
亜子は左手に映る紺碧色の海岸線に顔を向け、敢えて表情を隠している。
ヴィアンキ一族の生まれ代わりなのだから、責任やらショックを感じるよなあ。
ヘラの過換気発作と言い、進まない再生ネクタル造りの件も、元をただせばヴィアンキ一族が関係している。
プルートと女神ウエスタは逆に頼りになると期待してくれた、だから余計に焦るんだ。
ヴィアンキ・ショックの波紋は、広がるばかりだよ。
しかしねえ。
どうして真面目な亜子と俺が、一族の生まれ変わりなんだろうなあ…。
まわりは、ヒーロー「バリー二家」じゃん。
「まあ考え込んでも、仕方ないよ。ほらサザンビーチに着いたから、車を停めるよ。
飯じゃ飯じゃ…」
茅ケ崎海岸へ、到着した。
ハハハーんだ。
もう落ち込んでも仕方ない、せっかくの二連休が涙で終わるのは勿体ない。夜風を浴びて気分爽快になろうってわけよん。
21時30分を過ぎたけど、ここまで夜ご飯も、我慢した。
「シロクウ〜ジチュウもお〜、すきい…」
「ホホホッ。倫太郎サン、お歌の方は…あまりお得意では、ありませんわねえ」
亜子がヘラの口癖を真似て、俺をからかう。
「なんだか、槍が刺さった気分…」
プルートがグリーグのピアノコンチェルトを流したように、ムーディな鼻歌を歌ったのにさ。
肝心なその先は図星だ、フェードアウトした。
「あらまあ。ワルキューレの槍は、飛んできませんことよ。
オシャレな曲が流れているであろうカフェも、残念ながら閉まっているね。
コンビニでお弁当を買って、正解だった。チャラララララーン…チャララララーン」
亜子は某コンビニのメロディーを口ずさむ。
「あのねえ、何事もスマートにこなすプルートと俺を比べないの」
「分かってまーす。ああ、カフェ・グレコの焼き菓子も食べようよ」
こんな時は歌より…いいえ花より団子だな。
亜子は笑みを浮かべ、焦げた甘い香りのする白いビニール袋を手に持って、車から降りた。
まあ食欲はあるようだから、ホッとした。
焼き菓子の一つは円形で、ジャムだろうか挟まっていた。
スイーツでも食べれば「ヴァインキ・ショック」から、少しは立ち直れるだろう。
「そうだヴィアンキ・ショックは、ヴァインキ・シンドロームと名付けようか」
「倫太郎さんは歌より、ユーモアが得意ね」
それは微妙な、誉め言葉だな。
「だってさ、再生ネクタル造りも、協力したいじゃない。早く完成すれば、ヴィアンキ・シンドロームを、一気に昇華できるだろう」
「神々も本当は主治医の協力を、望んでいるものね」
祐樹と直人さんも、興味深々だ。
都合がつけばプルートやヨナスのように時空を超えて、ティボリまで行きたいと考えている。
俺も然りよ。
ガレノスやクロノスも助っ人にまわり、ティボリとローマを行き来しているようだ。
まして元御典医は、デオニュソスの往診も頼んでいるから、忙しいだろう。
「ディオニュソスは、古代ローマ時代にまとめられた薬物誌も参考にしているんだよ」
だから酒神の古代の薬に関する知識は、計り知れないんだ。
彼の「ネクタル・ノート」に目を通してみたい。
「薬物誌?初めてきいた」
「薬物誌は皇帝ネロの時代に生きた、医者・薬理学者のディオコリデスがまとめたんだよ」
だからネクタルノートは、薬物誌以上の酒神の知識が詰まっているだろう。
俺たちは並んで歩き、砂浜へ向かっていた。
湿り気と磯の香りが混ざる風は、気持ちが良い。
「彼はガレノスよりも前に、生きた人ね。
せめて、その当時にヴィアンキ家に生きていたらいいなあ。今ほどワルちゃん一族では、なかったでしょうに」
亜子がふと足を止め、何か気配を感じたのか、振り返った。
「ヴィアンキ家の生まれ代わりについては、一旦頭の隅に置いてさ。
せっかくドライブ・デート…」
俺もつられて、同じように首だけ後ろにまわした。一組の男女が、歩いていた。
同時に黒光したピアノの上に飾られた、数枚の写真が脳裏に浮かんだ。だから直ぐに、男女の素性は判明した。
「知りたいのなら、前世を教えてやろう。羽沢亜子の前世は、バリー二一族へ寝返った、リーモ・バリー二だよ」
涼君は二十代後半だったな、それなのに掠れた高い声だ。
タイムスリップして増えたのか、明かに過度な喫煙の影響だろう。
一体、どんな生活を送っているんだ?
「倫太郎さん、まさかあの二人は…」
「うん、早苗さんと涼君だろう。尾行されてたいようだな」
前世を告げられ震える亜子を、自分の背後にまわした。
「涼君と、早苗さんですね。僕は羽田京子さんの主治医を、短い期間でしたが担当しました。羽沢倫太郎です」
自己紹介しない相手に、俺は声を掛けた。
案の定、二人は返事をせず、手が届くか届かないくらいの距離を空け、立ち止まった。
リーモが誰であるか分からないし、聞きたいことは山ほどある。しかしこの分では、返事をしないだろうな。
「リーモ、お前は嵐の夜、ヴィーナス教会に集まったバリー二一族に助けられたのよ」
早苗さんは母親、羽田京子さんゆずりだろう、一重の目と、細長く形のよい唇を持っていた。
彼女は京子さんよりも若いし、すらっとして背も高い、今時の美人だろうなあ。
容姿とは裏腹に、彼女の声も涼君と同様、しわがれて聞き取りずらい。
顔の横を隠すほつれた黒髪は、結ぶというより無造作に束ねたような雰囲気だ。
果たして二人は、幸せなのだろうか?
「亜子…お前がリーモであった頃、嵐の夜に倒木に右足を挟まれた。だからバリーニ一族に、助けれた」
涼君が俺を指さし、ニヤッと笑う。
それが運命の別れ目だと、言いたげだなあ。
でも一命を取り留めて、かつヴィアンキ一族から離れて良かったじゃないか。
なるほど、嵐の夜に亜子の過去生「リーモ」は、倒木に右下肢を挟まれて、バリー二一族に救出されたんだな。
「右下肢の切断手術をしたのは、チェーザレ・バリー二医師。
倫太郎の親友、祐樹の前世でしょう?」
「生き延びたリーモはカメラマンとして、ケイ・バリー二の店やオペラ座で活躍した。
それに比べてムネメ・ビアンキは、寂しい生涯を送ったんだ」
二人は抑揚の無い声だし、どこか虚ろな目をしているな。
暗い浜辺でも、判断できる。
何はともあれ、ここまでの話しは理解した。
フィレンツェのヴィーナス教会で起きた、自然災害だな。
繰り返すけど、亜子の前世はヴィアンキ一族だった「リーモ」だ。
祐樹の過去生、チェーザレ医師に右下肢を、アンプタ(切断)されたようだ。
現代に置き換えれば、リーモは足を切断したあとに、クラッシュ・シンドロームを起こしかけただろう。
これは、災害時などに起こりやすい。
圧迫された筋肉の、細胞が壊れてしまう。
すると、腎不全などを起こす体に不要な成分が、血液の中に増えてしまうのね。
だから圧迫を取り除くと、その成分が一気に巡ってしまう。予防しないと、急性腎不全、ショックを起こしてしまう、一刻を争う状態だ。
先程の血液ガス分析も、腎不全を診断する検査に含まれるな。
現代であれば、一太のいる市民病院に搬送して、緊急で透析を回すだろう。
血液から不要な物質、老廃物を取り除き、命を守るんだ。
そのくらい重症だったリーモを、バリーニ一族が、ましてオペを行ったチェーザレ医師がほっとくはずは、ないだろう。
説明したところで、二人は聞く耳を持たないだろうなあ。
「あなた方は凛ちゃんの友人、直人先生にも、お世話になったでしょう」
「早苗さん、お母さんとお父さんの様子を見ていたはずです。貴女と涼君を、探していました。
今からでも遅くない、過去と現在を行き来する生活は、辞めたらどうなのですか?」
期待はできないが、亜子と俺はヴィアンキ家から戻るよう勧めた。
「残念だが、お前たち二人を助けに来る神々はいないわ。ゼウスはヘラの事で頭が一杯。
他の神々も再生ネクタル造りや、モデルの写真撮影中だった」
なぜ彼女は、家族の事に触れない、反応を示さないのだろう?
涼君も同様なんだ。
彼の実家は、美月家と同じ住宅街にある。
「さあ、ティボリの別荘へ連れて行け。
地底に隠れているヘカントケイルの見張りや、身動きの取れなくなる網を超えられるのは、お前たちだろう」
ジリジリと、二人が迫ってくる。
絶対絶命なんだろうけど。
俺は二人の話から、心当たりがあった。
「ヘラの過換気発作を、わざと起こしたのですね。記憶が蘇るように、仕組んだのでしょう」
直人さんがヘラの全身状態を、「何か変だ」と感じた原因は、ここにありそうだ。
ヘラが抗精神薬を注射するほど過換気発作を起こすなんて、その根拠が思いつかない。
…そうなると倫太郎さん、ティボリにいる神々だけでなく。往診のためにローマへ戻るガレノスも魂を狙われるかもしれない。
彼は薬物誌に詳しいでしょう?そして再生ネクタル造りへ関わっている…
そして亜子の素早い耳打ちも、おそらく正しい。
俺は軽く頷いた。
さあて、どうやって切り抜けよう…。
直人さんの「何か変」、裕樹の「行動は慎重に」、この勘は間違いでは無かったようだ。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
薬物誌について
wikipedia参考
写真 文 Akito