騒動を起こしたヘパイストスの椅子は背もたれから解体して、ゼウスの体と分離した。
 
しかし、彼の凝り固まった岩のような体は、なかなか動かない。

ストレッチャーに乗せ、処置室まで運んださ。
もうね、ご本人も含め、みんな汗だくよ…。
 
幸い椅子の魔力は座面と足、背もたれに解体したら弱まった。
ヘラとエロスがゴニョゴニョ呪文らしきものを唱えて、布の袋へ丁寧に「封じた」。
 
鍛冶の神へパイストスが「アクロポリスの丘へ出張」から戻れば、復元するだろう。
それまでの間だ。

まっ、今後も何かと使えそうだもんな。
特に、ゼウスはね。
 
「あっ、そこそこ。羽を酷使したあと違和感が出て、痛くなるね」

処置室のベッドに腰かけるエロスは、右手を左の羽の付け根付近に当てる。
 
「オッケー」
スッ…。

俺はエロスの左肩関節、トリガーポイントへ関節注射を打つ。
 
「エロス。お前さんは毎回、注射を打っているのか?」
 
隣のベッドに横になるゼウスは、怖い物見たさなのか?
しかめっ面で、凝視している。
 
「そうですよ。今日みたいに羽を使いすぎると、あとでジワジワ痛み出すの」

淡いブルーのトーガを降ろした、むき出しの引き締まった背中が揺れる。
金髪の巻き毛にブルーアイ、ハンサムだしさ。
 
その上、余計な脂肪の無い肉体は、クールなジョークもサマになるなあ。
俺も筋トレに、励もうかしらん。
 
「エロス、しれっと冷たいこと言うなよ、恩にきるって」

このお方だって多少は痩せたけど、もともとガタイはいいのよ。
 
「祐樹、そこだ。痛い痛い…腰痛は大昔、紀元前から悩まされとる」

紀元前って…どんだけ腰が痛かったの?

ゼウスは祐樹から腰部のトリガーポイントへ、局所麻酔薬の注射を受けている。

そうしながら、エロスの注射を眺めてる。
 
自分の様子は分からないから、どないなモンか気になるし。
苦手だからこそ、見たくなるもんだわね。

ガタイは良くて長いこと生きているけれど、少しだけ、お子ちゃまなんです。
 あっ、失礼。

「一度、レントゲンを撮って。腰椎椎間板ヘルニアなど、確かめた方がいいですよ」
 
精密検査を勧める祐樹も、ゼウスの子供っぽい様子にクスっと微笑む。それを見た亜子も、笑いを堪えて頷いている。
 
彼女の右手はへパイストスの「網」に絡まれたくらい、かたーくゼウスに握られている。
注射を怖がらないよう、介助についてくれたんだけどね。
 
ゼウスの場合は、ピンチこそ無意識で寄り道癖が出るのだろうなあ。
天性なんだろうね。
 
「今回ばかりは懲りた、祐樹の勧めを受けようかな。怪しいと自覚したら、検査は受けたほうがいいな」
 
おやっ。
ゼウスのダミ声が、ワントーンおちてしまった。

さすがにヘラの過換気発作を目の当たりにして、尾を引いているんだな。
 
ヘラは以前から、慢性過換気発作を起こしていた。この機会に、直人さんが彼女を診察している。
 
採血一般に加えて、動脈血ガス分析(血液の酸素化を知る。呼吸機能の状態や、腎臓肺などが影響する病気の有無を調べる)、心電図やレントゲン、心エコーを実地中だ。
 
過換気症候群と類似した症状を起こす、心臓の虚血性変化(狭心症や心筋梗塞)の有無や、肺炎なども調べて鑑別する。
 
ゼウスも以前から妻の変化に、気が付いていた。
しかし、ガレノスの診察を受けていると思い込んで、そのままにしていた。
 
ヘラはガレノスに相談しなかったのは、病気だったら「怖い」から。だから彼女は、ゼウスにも症状を打ち明けなかった。

私が病気だったら、正妻の立場では、なくなるかもしれない…不安がよぎったようだ。
 
「昨日も俺が目覚めた時は、ヘラの顔色が悪かったんだ。ハプニングが起こって、彼女の病気をしるなんて、すがにショックだよ。長い間、連れ添っているのにさあ」
 
ゼウスの表情が、しょんぼりする。
ここに到着した際も、ヘラは心配のあまり過換気発作を起こした。
これがおさまった後で、昨日も同様に生じたと明かした。
 
アフロディーテの件を、女神ウエスタらに相談している最中、なにかと思いつめてしまい、発作が起きたそうだ。
 
「僕も緊急コールしてきたヘラの様子が、おかしいと感じた。クリニックへ連れて行くから落ち着けっていっても、聞く耳を持たないんだ」
 
エロスも昨日のヘラを、訝しく感じていた。

「胸や息が苦しくなりそうだから、早くゼウスの対処をしてと、一点張りだった。ヘラは弱みを見せないから、自分の変化は誰にも相談しなかったんだね」
 
なんだか、自分の母親とダブルな…。
俺は打ち明け話を聞きながら、彼の右肩…羽の付け根、この上部へ注射する。
 
「ヘラは以前からワーグナーのニーベルングの指環、この楽劇も鑑賞を嫌がったんだ。
ワシの寄り道クセが、物語に出てくる神々の長ヴォータンと重なるからとね」
 
楽劇も嫌になるほど、ヘラはゼウスの寄り道癖に悩んでいたのか。
「病は気から」って、的外れではないよ。
 
ワーグナーの「ニーベルングの指環」は4部作あって、神話を元にしていたな。 

「ラインの黄金、ワルキューレ、ジークフリート、神々の黄昏」

指環を巡る4つの物語は、繋がっているんだ。
 
登場人物の一人「神々の長ヴォータン」は、正妻以外の女神と多数の関係を持つ。

そんなヴォータンの娘には、8人の女神ワルキューレが存在する。
もちろん正妻との子供ではない。
 
これは、あくまで物語だが。
ヘラは境遇の似たヴォータンの正妻と、自分を重ねたのね。
 
…倫太郎。私とお父さん、どちらについて来る?

母親も俺の前では、弱みを見せなかったなあ。

もちろん「ははあっ、母上についてまいります」と、即答したけどね。
もともと二人家族のようなもんだった。

寄り道癖のあるゼウスと、それに気を揉むヘラは、まるでかつての両親だな。
 
ゴトゴト。
あっ、林主任が処置室へ入ってきた。
ってことは、ヘラの診察が終わったな。
 
「皆さま、お疲れさまでした」
若干重たくなった空気も一層されるような、軽やかな声で告げた。
 
「ヘラがタクシー・バタフライを呼んでくれたので。エマ―ジェンシー・ホースは、帰ってもらいました」
 
「体を動かせるようになって、腰痛や全身の痛みも和らいだから。蝶々に乗ってフォロ・ローマノへ帰れるぞ」
 
ヘラの回復した様子に、ゼウスは額の皺が消え安堵の表情を見せた。

おそらく診察に入った主任が、ヘラにそうするよう勧めたのだろうな。

乗りなれたプシュケの蝶々に乗って、夜景でも眺めながら帰りなさいな、多少は気分も晴れるわよってね。
 
後で、ヘラのカルテに目を通したところ。
呼吸苦や胸苦しさを起こすような他の病気、肺疾患や心臓の病気は発症なく。
典型的な、過換気症候群の状態だった。
 
動脈血ガス分析では呼吸性アルカローシス…低炭素ガス血症で、これは呼吸数の増加による低酸素血症に起因する。

だからヘラは、過換気を起こした時に呼吸や胸の苦しさだけでなく、呼吸性アルカローシスの症状、手足のしびれ感なども出現していたんだ。
 
直人さんは抗不安薬の内服で、治療を開始してくれた。
不眠もあったようだから、これも改善を期待したいところだ。
 
そのあと古代の神々と女神は、迎えに来た極彩色の蝶々に乗った。
前回と同様、待合室から幻想的にフワリと姿を消した。
 
長い長い一日を終えたのは、午後21時をまわっていた。
 
帰路の車内で、ワーグナー作「ワルキューレ」から。
「ワルキューレの騎行」を久しぶりに、聴いてみた
 




3幕の劇中でもワルキューレの女神たちが、歓声を入れながら、勇ましく歌う。

でもね力強さを放つ一方で。
どこか神々の魔力が漂う、そんな雰囲気を醸し出すんだ。
 
亜子と俺にとって疲れた時にはそぐわない、らしくないチョイスだ。「それを分かっていただけに」、聴きたくなった。
 
「女神ワルキューレとペガサスが、妙に引っかかるんだよなあ」

「ペガサスと遭遇しただけでなく。ヘラの悩みと楽劇まで繋がりがあったものね」
 
この曲を聞き終える頃には。

ワーグナーの魔力的な音楽と壮大な指環物語を想像しつつ。同時にワルキューレが登場する北欧神話を思い出していた。
 
ワーグナーの物語では、勇敢な戦いの女神ワルキューレで登場する。オペラ歌手の体型と、かつ勇敢な戦士の設定だから。
女神ワルキューレは、ちょっと筋肉質で逞しい容姿だったりする。

しかしね。
北欧神話に登場する女神ワルキューレは、白鳥に変身する、ロマンチックな女神よ。

透ける薄い布の衣類をまとい、長い髪をもつ美しい女神なんだよね。
 
ちなみに神話では、妖精の血筋を引く…。
だからなのか、俺は妙な胸騒ぎを覚えたんだ、両親と神々夫婦を重ねたりね。 

ゼウスじゃないけど、今の俺にとって女神ワルキューレとペガサスは。
なんだか、怖い物見たさだ。


お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
写真 文 Akito
 
参考図書
ぶんけい
ピエール・デュボア 著
ロラン・サバティエ 絵
つじ かおり 訳
妖精図鑑
 
※ニーベルングの指環について
https://tsvocalschool.com 参照