


〜過去の忘れられない出来事と決別していく方法メモ〜
例
〇〇されて嫌だったことを繰り返し思い出す
〇〇と言われて傷ついた事を繰り返し思い出す
→なぜ〇〇されて嫌だったのか
→なぜ〇〇と言われたことで傷ついたのか
この理由が自分でわからない限りは
正解のでてない問題なので
ずっと考え続けてしまうらしい。🙀
ジュクジュクと傷が痛むが
私はしっかり向き合って答えが出るまで考えた。
(書くのもいいと思われる)
すると
最近結構
過去を思い出してあーってなる
のが改善してきたかもしれない。
あとは大人になって冷静に
過去を振り返ると
わいは精神障害か?人格障害か?発達障害か?
一体何者なんだ?!と
思うほど無自覚に人を傷つけたりイラッとさせる発言をしてしまった学生時代であった。
(私自身、これまでに何かしらの障害等の診断を受けたというわけではない)
そんな出来事を思い出しては
アー恥ずかしいな、
申し訳ないなと未だになったりしていた。
他人がなぜ怒っているのか(同じことを自分が言われても怒らない発言と判断して言っているのに)
わからない恐怖はとんでもないものだ。
教科書みたいに覚えていくしかないのだから。
逆に大多数の人が傷つかない一言が自分には
傷つく一言になるので、
多数派の感覚の人たちと付き合っていると
グサグサ心が傷つくことが多いのだった。
(向こうは傷ついてるとは思わないので、悪意はないし、自分が傷つきやすすぎるのか?となってきて、多数派の他者達から離れるしかない…となってしまう。。)
つまりよく言われてきた言葉ではあるけれど、
「変わっている」「価値観がずれている」
のかもしれない。
同じ部族の人に会うことは稀だし、
大多数の人間から離れて暮らしている人も多かったりするのかな。😅
なぜあんな発言をしてしまったのか?
→自分が変だから。
と結論づけてしまうのは
むなしすぎる
じゃあなぜ変な人間として生みおとされたのだ?
→神様のせい?
→自分のせい?
→魂の向上の為?⭕️
とりあえず研究の中で
魂の向上の為説を今回は
書いておきたい。(仮定の一つです)✏️
・人を傷付けてはいけないと思うのは、傷付けられたことがあるから
・人を傷付ける発言は、負のカルマでもあり
反面教師としての学びでもある
・魂の向上には
加害者、被害者 両方の経験が必要である。
・魂の向上の中で
病気・障害など、ありとあらゆる経験をしているかもしれない。
いわゆるさまざまな障がい者とよばれる人間の中には魂の老齢期にはいっている方も結構いるという話もある。(割合がどのくらいかはわからない)
何度も生まれ変わる中で
子ども期、中年期、高齢期と
魂の年齢があるとしたら、
高齢期の人の中で
これまでの輪廻転生の中で
たくさんの人を傷つけてのし上がった
部分がある為、
その事を つぐなう 意味で
生まれてきた可能性がある。という話
子供の頃に何も分からず
人を無意識に傷つけていたりするように
子供期の魂の頃、
さまざまな障がいを持つ方を
「なんでそんな事も
できないんだ?わからないんだ?」と
バカにしたりしていたかもしれない。とか
あの人や自分が生きづらい要素をかかえているのは、

①まだ魂が子ども期だからだ
②シンプルに負のカルマが重いからだ
③逆に魂が高齢期に入っているからだ
→そんなに負のカルマはなくとも
これまでどおり➕の立場や経験ばかりしていてはいけない、
➖の立場や経験も通過せねばならないパターン💦
(霊的には、良い悪いという概念はなく、
プラスの状態、マイナスの状態があり
どちらも経験しよう みたいなイメージ)
全体的に
魂が成長していく傾向としては、
赤も青も経験して紫色を目指していく
みたいな感じみたい。
①②③のどれにあてはまるかは
断定できないと私は感じている。
イレギュラー編(?)として、地球に慣れてない魂にとって地球で生きることが難易度が高い為に
あえて障がいや精神の病をもつ人として生まれることもあるという。
もしかしたら、これらの題材は
死後にならないとスッキリとは
わからないかもしれないけど、、
少なくとも
今世でこれから気をつけることは
あまり 発言すること ばかりに気を取られず
「沈黙」
をうまく使っていきたい。
大体
失言してしまったなっていう
学生時代のあの記憶を思い返せば
まだまだあの時「沈黙」が苦手だったり
使いこなせていない時だったかもなぁ、
なんて思ったりする。
冷静でいれば防げた発言事故もあったかも
しれない。
そして
相手のいうことに絶対反応しないと
いけないわけではないし、
時に相手側からの
あからさまに意図的な言動に
傷ついたりイラついたなら
返事をしなくたっていいわけで。
沈黙することで相手の発言は
受け取られず
そこに浮いたままとなって、
そんな光景を冷静に見れる自分に
なればいいかなと。🫠
(⚠️もちろん時と場合にはよるけれど、わざわざ自分を下げない・慌てない
という練習にもなると思われる)




