【2023春旅】『おんりえど、ごんぐじょうど』と呪文を唱えた岡崎 | レムの里山紀行

レムの里山紀行

時の流れを忘れて土を耕したり野を歩いたり山を観たり

今年2度目の3月飛び連休は、カミさんと意気投合して東海攻めを決行しました。

複数の候補地のうちで『今だけ』な場所として東海地方を選定。

大河ドラマ関連の地は我が家の旅テーマの一つ。

家康ゆかりの地を主軸にして、その他いくつかのテーマを複合して行きたいところリストを作りました。

 

全部を語りたいけど、濃い旅を語る手間や読んで頂く手間を考えて、掻い摘んで記そうと思います

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「厭離穢土、欣求浄土」を読める人はすごいと思いました。

自分は今だけ読めます。数か月後には忘れてそう(泣)

 

意味は、、、今だけ、わかってます。

数か月後には忘れてそうなので記事に書き残そうと思います。

 

 

「厭離穢土、欣求浄土」は徳川家康の志。

有名なエピソードは、どうする家康の初期でも語られています。

桶狭間の戦いでは、松平康元(19歳の徳川家康)は今川方の武将として戦いました。しかし総大将の今川義元が討死し敗走することになります。

故郷の岡崎まで逃げ帰るも城まで僅かなところにある大樹寺に入ったところで敵方に囲まれます。

大樹寺は松平の菩提寺。
歴代当主の墓前を前に切腹を覚悟した康元に大樹寺住職の登誉上人が諭します。
「厭離穢土、欣求浄土の教え、乱世を浄土のような泰平の世にしなさい」
この教えを受けて、『どうする家康』は生き残ることを選び、多くの犠牲者を出しながらも敵兵を撃退し、無事岡崎城に帰還したというストーリ。

 

その後、生涯にわたる座右の銘として、戦いの時には旗印として掲げられたと聞きますと大樹寺を訪れたくなります。

 

こちらが本堂の中。

しっかりと「厭離穢土、欣求浄土」が掲げられています。

 

この本堂の近くには松平家の墓所があります。

元康(家康)は松平家の9代目です。康元の父・松平広忠まで8人の当主の墓所です。

 

ちなみに松平家発祥の地はこの大樹寺から北東に10kmのところにある松平郷。

三代・信光の代に岡崎・安城へ勢力を広げ西三河の大半を手中にし、

七代・清廉が安城から岡崎に居城を移し、三河一国を支配しました。

この方たちもここ大樹寺にお墓があります。

 

大樹寺には家康の遺言で歴代の徳川当主の位牌が収められています。

宝物を拝観しましたが撮影は禁止なので。

 

大樹寺の三門と呼ばれるこの門。

三門の向うには総門が見えます。

 

さらにその向こうには、、、拡大します(正しくは望遠レンズに付け替え)

は岡崎城です。

つまり、三門、総門、岡崎城は一直線に並んでいるのですよ。

 

距離を地図で測ると2790m。30分強で歩ける距離です。

逃げてきてあとちょっとで城だというのに、敵方に囲まれちゃう康元ってトロい!、、と思ちゃいけない?

 

 

ちなみに家康の時代の岡崎城は同じ場所に会った龍頭山の山頂に本丸が置かれた平城でした。

三門や総門の建設は1640年頃で、3重3階の天守閣を持つ岡崎城の完成も1645年。

もう家康は亡くなっていますね。

 

ゆかりの地ではありますが、時代的には少し違っていることを意識してる人は少ないと思います。

こうした錯覚はよくある事ですけどね。気を付けようと思いました。

 

さて、前日の雨とは違いこの日は快晴、岡崎城の方は桜が咲き出してました。

 

岡崎では大樹寺の他、法蔵寺・本宿東照宮、岡崎公園(岡崎城天守、産湯、岡崎東照宮等)、勝鬘寺(一向一揆拠点)、瀧山寺・瀧山東照宮、奥山田、奥殿陣屋、真福寺へも。

 

それぞれ思うところがありました。

時間を見ながら追々。

 

 

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