音型(おんけい)が彫る

音型(おんけい)が彫る

私の名は、
雨垂れ石を穿つ音型

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對意二字熟語百顆印、42顆目は「曲直」です。

曲直とは

正邪。

善惡。

まっすぐなこと(=正)と、曲がったこと(=不正)。

「曲直を正す」という言葉があります。正しいことと正しくないことを明らかにする、という意味です。

でも、曲と直は、本當にそんなに明確に分けられるものなのでしょうか。

善惡二元論を超えて

あまり使わない言葉です。

僕自身の中で、善惡二元論は取り拂われつつあります。

なので、この言葉も對立構造を生むために作られたものなのかなと思っています。

二元論の限界

善と惡。

正と邪。

曲と直。

白と黑。

世界を二つに分けて考える。それが二元論です。

わかりやすい。シンプル。判斷しやすい。

でも、世界は本當にそんなに單純でしょうか。

グレーゾーンの存在

善でも惡でもない。

正でも邪でもない。

曲でも直でもない。

その中閒に、廣大なグレーゾーンが存在します。

むしろ、世界の大部分はグレーゾーンなのではないでしょうか。

純粹な白も、純粹な黑も、實はほとんど存在しない。

すべてはグラデーションの中にある。

對立構造を生む言葉

これらの對意語は、世界を分斷します。

「こちら側」と「あちら側」を作り出します。

味方と敵を生み出します。

そして、對立を生みます。

曲直という言葉も、もしかしたら、そういう對立構造を生むために作られたものなのかもしれません。

立場が變われば眞逆になる

嚴密にいうと、どちらが正しくて、どちらが不正というのは、逆の立場から見ると、眞逆になるので、意味を成さないものとなるかと思います。

正義は複數存在する

ある立場から見れば正義でも、別の立場から見れば惡。

戰爭では、兩方が自分こそ正義だと主張します。

どちらが正しいのか。

それは、立場によって變わってしまう。

絕對的な正義も、絕對的な惡も、存在しないのかもしれません。

歷史の例

歷史を見れば、それは明らかです。

かつて正義とされたことが、今は惡とされる。

かつて惡とされたことが、今は正義とされる。

時代が變われば、正邪も變わる。

場所が變われば、曲直も變わる。

文化が變われば、善惡も變わる。

相對性の理解

つまり、曲直は相對的なものです。

絕對的な基準は存在しない。

すべては、見る角度、立つ位置、生きる時代によって變わる。

それを理解することが、成熟した思考の第一步なのかもしれません。

愛があるかどうか

結局のところ、そこの判斷に愛はあるのかが鍵になるのかと思う。

唯一の絕對的基準

曲も直も、善も惡も、正も邪も。

それらを判斷する基準は、愛があるかどうか。

相對的な世界の中で、唯一の絕對的な基準。

それが、愛なのかもしれません。

愛とは何か

相手を尊重しているか。

相手に感謝しているか。

相手の幸せを願っているか。

その判斷が、誰かを傷つけるためではなく、誰かを幸せにするためのものか。

愛に基づく判斷

そこに愛があるかどうか。

それが、唯一の判斷基準なのかもしれません。

曲であっても、愛があれば許される。

直であっても、愛がなければ暴力になる。

形式的な正しさではなく、本質的な愛。

それを問い續けることが大切です。

對立ではなく、受け入れて離れる

相手がいる場合は、その人に對して尊敬と感謝の氣持ちを持って接しているか、意見や考え方が違う場合、對立するのでは無く、そういう考え方もあるのですねと受け入れたあと、自分とは違うということを傳えて、そこから離れれば良いのです。

成熟した對應

對立しない。

戰わない。

でも、同調もしない。

「あなたはそう考えるのですね。でも、私は違います。」

そう傳えて、靜かに離れる。

それが、最も成熟した對應なのかもしれません。

三つの選擇肢

意見が違う時、私たちには三つの選擇肢があります。

  1. 戰う: 相手を說得しようとする、論破しようとする
  2. 同調する: 自分の意見を曲げて、相手に合わせる
  3. 受け入れて離れる: 相手の意見を尊重し、でも自分は違う道を行く

多くの人は、1か2を選びます。

でも、3という選擇肢があることを、忘れています。

受け入れることと同意することは違う

「そういう考え方もあるのですね」と受け入れること。

それは、同意することではありません。

相手の存在を認めること。

相手の考えを理解しようと努めること。

でも、自分は違う道を選ぶこと。

それが可能なのです。

談合の場から離れる

よく、會社の中で働いてると、硏修や勉强會である、談合の場に居合わせてしまったら、私にはこの話し合いに參加する事はできませんと明言した上で、その場を去りましょう♪というのがあるんだけど、まさしくこれの事かと。

不正を目の當たりにした時

不正を目の當たりにした時、どうするか。

戰うのも一つの選擇。

内部告發する、上司に報告する、警察に通報する。

それも、勇氣ある行動です。

靜かに離れる勇氣

でも、「私はこれに參加できません」と宣言して、その場を去る。

それも、勇氣ある選擇です。

曲を曲と指摘するのではなく、ただ「私は直を選びます」と示す。

それで十分なのです。

自分の立ち位置を明確にする

「私には、この話し合いに參加することはできません」

この一言が、すべてを表現しています。

相手を非難していない。

相手を糾彈していない。

でも、自分の立場は明確にしている。

そして、その場から離れる。

それが、最も賢明な對應かもしれません。

戰わずして勝つ

孫子は言いました。「百戰百勝は善の善なるものに非ず。戰わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」

戰って勝つことが最善ではない。

戰わずして勝つことが最善である。

曲直を爭うのではなく、ただ直を生きる。

それが、眞の勝利なのかもしれません。

制作について - 金文という選擇

今囘も朱白文で彫りました。

  • 構成: 朱白文(曲は朱文、直は白文)
  • 字體: 金文風
  • サイズ: 10mm角
  • 石材: 靑田石
  • 印刀: 刀匠印刀三號
  • 擊邊: 入れませんでした
  • 印影

     

     

シリーズ初の金文

このシリーズ入ってから、ほぼ小篆風か甲骨文字風でしたが、今囘はこのシリーズ初めての金文ベースにしました。

對意二字熟語百顆印、42顆目にして初めての金文です。

小篆、甲骨文字、そして金文。

字體を變えることで、同じ文字でも全く違う印象になります。

斜めに重ねる面白さ

字面を見てて斜めに重ねると面白そう!と思ってしまったからです。

金文の「曲」と「直」を見た時、直感的に「これは斜めに配置したい」と思いました。

曲がりくねった「曲」と、まっすぐな「直」。

それを斜めに重ねることで、動きが生まれる。

對立ではなく、調和。

そんなイメージです。

金文の「直」が好き

直という字は、金文の字が一番好きだったりします。

金文の馬もそうなんだけど目がいかにも目なんですよね。

金文とは

金文(きんぶん)は、靑銅器に鑄込まれた文字。

甲骨文字より少し後の時代、紀元前1000年頃のものです。

鼎(かなえ)や鐘などの靑銅器に、鑄造の際に文字を刻み込みました。

素朴で力强い

その素朴で力强い形が、とても魅力的です。

甲骨文字の象形性を殘しながら、より整った形になっています。

でも、小篆のような完成された美しさではなく、まだ荒々しさが殘っています。

その未完成の美しさが、金文の魅力です。

目がいかにも目

特に「直」の字。目の部分が、本當に目に見える。

金文の「馬」もそうです。目の部分が、はっきりと目の形をしています。

古代の人々の觀察眼と表現力に、感動します。

文字が、まだ繪だった時代。

でも、繪から文字へと移行しつつある時代。

その過渡期の美しさが、金文にはあります。

樂しく彫る

今日も樂しく彫らせていただきました〜

ありがとうございますm(_ _)m

感謝の氣持ち

彫らせていただく。

この「いただく」という謙虛な表現が、素敵だなと思います。

石に、刀に、文字に、そして篆刻という藝術に。

すべてに感謝しながら、彫る。

曲も直も愛を持って

曲も直も、どちらも愛を持って。

對立ではなく、調和を目指して。

今日も一顆、完成です。

曲がっていても、まっすぐでも、愛があればいい。

完璧でなくても、樂しければいい。

そんな氣持ちで、今日も石を彫ります。

おわりに

「曲直」という言葉から、善惡二元論、相對性、愛、そして成熟した對應について考えました。

世界は、曲か直か、善か惡か、そんなに單純ではありません。

すべてはグラデーション。

すべては相對的。

でも、その中で唯一の絕對。

それが、愛です。

愛があるかどうか。

それだけを問い續けていけば、曲直に惑わされることはありません。

對立せず、戰わず、でも自分の道を生きる。

相手を尊重し、でも自分を曲げない。

そんな生き方ができたら、素敵だなと思います。


曲も直も、立場が變われば入れ替わる。でも、愛だけは變わらない。曲がった道でも、愛があれば美しい。まっすぐな道でも、愛がなければ暴力になる。曲直を問うのではなく、愛を問いたい。

【對意二字熟語百顆印 進捗: 42/100】

 

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曲がりくねった道も、まっすぐな道も好きだよ(´艸`*)

 


補足: 金文について

今囘使用した金文について、少し詳しく。

金文の歷史

金文は、殷王朝末期から周王朝にかけて(紀元前1300〜200年頃)、靑銅器に鑄込まれた文字です。

甲骨文字が占いの記錄だったのに對し、金文は主に:

  • 祭祀の記錄
  • 功績の記念
  • 契約の證明
  • 系譜の記錄

などに使われました。

金文の特徴

  1. 象形性: 甲骨文字の象形性を殘しながら、より整った形
  2. 裝飾性: 鑄造という特性上、裝飾的な要素が加わる
  3. 多様性: 時代や地域によって形が大きく異なる
  4. 力强さ: 靑銅という素材が生む、重厚な印象

篆刻と金文

篆刻では、小篆が最も一般的ですが、金文を使うことで:

  • より古拙な味わい
  • 力强い印象
  • 獨特の風格

を表現できます。

42顆目にして初めて金文に挑戰しましたが、これからも時々使っていきたいと思います。

古代文字の世界は、深く、廣く、そして樂しいものです。

對意二字熟語百顆印、41顆目は「諾否」です。

諾否とは

引き受けることと、斷ること。

承諾するかしないか、ということ。

諾(だく)は「はい」と答えること。承諾すること。

否(ひ)は「いいえ」と答えること。拒絕すること。

人生は、この諾否の連續です。

承諾致しかねます

最初「承諾致しかねます」って聞いた時、どっち?ってなったの覺えてるわ。

日本語の婉曲表現

「致しかねます」は「できません」という意味。

だから「承諾致しかねます」は「承諾できません」、つまり「斷る」ということ。

二重否定のような表現で、最初は混亂しますよね。

日本語の婉曲表現の難しさです。

ストレートに言えない文化

「できません」と言えばいいのに、「致しかねます」と言う。

「斷ります」と言えばいいのに、「承諾致しかねます」と言う。

日本語は、直接的な否定を避ける傾向があります。

相手を傷つけないように、角が立たないように、遠囘しに表現する。

それが美德とされる文化。

でも、それが時に混亂を生むこともあります。

斷ることも大事

全部引き受けなくても良いんだよね。

やれることはやって、出來ないことは斷れば良い。

斷れない心理

なんか、賴られると斷れないってな感じになることはあるけど、もっと斷って良いと思う。

斷ることも大事。

なぜ斷れないのでしょうか。

  • 嫌われたくない
  • 期待に應えたい
  • 良い人だと思われたい
  • 斷る勇氣がない
  • 罪惡感を感じる

でも、すべてを引き受けていたら、自分が潰れてしまいます。

自分と他人の責任

出來ることは自分でやって、出來ないことは人に任せるのが一番良いと思う。

自分の責任は自分で負う。

でも、他人の責任まで負う必要はない。

「これは私の問題ではなく、あなたの問題です」

そう言える勇氣を持つこと。

それが、健全な人閒關係の基礎です。

依賴される喜びと冷靜な判斷

依賴されると嬉しくなるのはあると思う。

承認欲求

「あなたに賴みたい」

そう言われると、嬉しいものです。

自分が必要とされている。

自分が役に立っている。

それは、承認欲求を滿たしてくれます。

でも、冷靜に

でも、冷靜にできるのかどうか、やるべきかどうかの判斷をするのはとても大事だと思う。

嬉しいという感情と、できるかどうかの判斷は、別物です。

賴まれたからといって、すべてを引き受ける必要はありません。

冷靜に、自分の能力と時閒と狀況を見極める。

それが大切です。

やりがい搾取

自分の身を削ってまでやる必要のないことをすることはないし、やりがいを搾取されないかよく吟味するべき。

「あなたにしかできない」

「あなたを信頼してる」

「きっとやりがいを感じられるよ」

そう言われると嬉しいけれど、それが本當に自分のためになるのか。

「やりがい搾取」という言葉があります。

やりがいを餌に、低賃金や長時閒勞働をさせること。

「好きでやってるんだから」

「成長のためだから」

そう言いながら、實際には搾取している。

それに氣づかず、やりがいを感じながら搾取されている人は、少なくありません。

冷靜に考える必要があります。

判斷の基準

本當に大事なもの、大切な事が何であるかを考えると、判斷する時にわかりやすいと思う。

短期・中期・長期

短期的な效果や評價ではなく、中期的な生活に落とし込めるかや、長期的な利他につながるかを判斷材料にするのも一つの手段かもしれない。

短期: 目先の利益や評價

今すぐお金が入る、今すぐ褒められる、今すぐ結果が出る。

短期的な視點は大切ですが、それだけで判斷すると、長い目で見て損をすることがあります。

中期: 自分の生活に組み込めるか

これを續けることで、自分の生活は豐かになるか。

持續可能か。

無理をしていないか。

中期的な視點は、生活の質を決めます。

長期: 利他に繋がるか

これは、誰かのためになるか。

社會のためになるか。

未來のためになるか。

長期的な視點は、人生の意味を決めます。

三つの視點で考える

この三つの視點で考えると、諾否の判斷がしやすくなります。

短期的には損でも、中期的・長期的には得になることがある。

逆に、短期的には得でも、中期的・長期的には損になることもある。

目先の利益だけに囚われず、全體を見る。

それが、賢い諾否の判斷です。

一日3萬5000囘の決斷

人は一日に3萬5000囘の諾否を決めているようなので、その判斷が氣持ちの良い判斷になることを、常に心掛けたい。

無意識の決斷

朝起きるか、もう少し寢るか。

何を着るか。

何を食べるか。

どの道を通るか。

すべてが諾否の連續です。

ほとんどは無意識に決めています。

でも、その一つ一つが、實は人生を形作っています。

意識的な決斷

大きな決斷だけが重要なのではありません。

日々の小さな諾否の積み重ねが、人生を決める。

今日、何を食べるか。

今日、誰と會うか。

今日、何をするか。

その一つ一つを、自分の價値觀に基づいて、氣持ちよく決められたら。

それが、豐かな人生に繋がるのかもしれません。

3萬5000囘の質

一日3萬5000囘。

その全てを完璧に決めることは不可能です。

でも、少なくとも意識的に決める決斷については、自分に正直に、自分の價値觀に基づいて決めたい。

他人の期待ではなく、自分の意志で。

短期的な利益ではなく、長期的な幸せのために。

そんな諾否を重ねていきたいものです。

制作について - 「否」の表現の變化

今囘も朱白文で彫りました。

  • 構成: 朱白文(諾は白文、否は朱文)
  • 字體: 小篆風
  • サイズ: 10mm角
  • 石材: 靑田石
  • 印刀: 刀匠印刀三號
  • 擊邊: 少し入れました
  • 印影

     

     

前囘の「可否」との比較

以前「可否」を彫った際には、否を白文としたので、今囘は朱文としました。

同じ「否」でも、組み合わせる文字によって朱白を變える。

その變化を樂しむのも、連續企畫の面白さです。

可否の時は、否を白文で力强く。

諾否の時は、否を朱文で輕やかに。

同じ文字でも、文脈によって表現を變える。

それが、對意二字熟語百顆印という企畫の深みです。

構圖の意圖

構圖としては諾をやや大きめに、否をやや小さめに配置、布字しました。

「諾」を大きく、「否」を小さく。

引き受ける方を强調したかったのかもしれません。

無意識の選擇かもしれませんが、もしかしたら、私の心の中に「できるだけ諾と言いたい」という氣持ちがあるのかも。

斷ることの大切さを語りながら、でも本心では引き受けたい。

そんな矛盾が、文字の大きさに現れたのかもしれませんね。

完璧ではないけれど

印影をよく見ると、白文の諾に彫り殘しが多いのと、朱文の否の線幅がかなりブレブレだなと思いました。

でも、これで良い。

揃わなかった底

三つ口があるけど底の部分を揃えてみたかったので、布字したのですが、印影見ると揃ってないという、、、😅

でも、これが良い!

計畫では揃えるつもりだった。

でも、實際には揃わなかった。

完璧を目指したけれど、完璧にはならなかった。

不完全を諾とする

でも、それを受け入れる。

完璧でない自分を「諾」とする。

それもまた、諾否の一つです。

「完璧でなければダメだ」と自分を否定するのではなく、

「これで良い」と自分を肯定する。

自分への諾否。

それが、一番大切な諾否かもしれません。

おわりに

「諾否」という言葉から、斷る勇氣、判斷の基準、そして自己肯定について考えました。

一日3萬5000囘の決斷。

その全てを完璧に決めることはできません。

でも、大切な決斷については、自分の價値觀に基づいて、氣持ちよく決めたい。

他人の期待に應えるのではなく、自分の人生を生きるために。

短期的な評價を求めるのではなく、長期的な幸せのために。

そして、完璧でない自分も、「これで良い」と受け入れること。

それが、豐かな人生への諾なのかもしれません。


諾も否も、どちらも大切。引き受けることも、斷ることも、どちらも勇氣が要る。でも一番大切なのは、自分に對して「これで良い」と言える勇氣なのかもしれません。

【對意二字熟語百顆印 進捗: 41/100】

 

 

 

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Noを選択することもあるよね・・・

 


補足: 決斷疲れ(Decision Fatigue)について

一日3萬5000囘の決斷は、實は私たちを疲れさせています。

決斷疲れとは

決斷疲れとは、多くの決斷をすることで、判斷力が低下する現象です。

朝は冷靜に判斷できたことも、夕方になると適當に決めてしまう。

これは、意志力が消耗するためです。

有名人の戰略

スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグが、毎日同じ服を着ていたのは有名な話です。

これは、服を選ぶという小さな決斷を省くことで、重要な決斷のために意志力を溫存する戰略です。

決斷を減らす工夫

決斷疲れを避けるには:

  1. ルーティン化: 日常的なことは習慣にして、決斷を減らす
  2. 優先順位: 重要な決斷は朝にする
  3. 選擇肢を減らす: あらかじめ選擇肢を限定する
  4. 自動化: 決斷が必要ない仕組みを作る

諾否の判斷も同じです。

すべてを一から考えるのではなく、自分なりの基準を持つ。

そうすることで、決斷の質が上がり、疲れも減ります。

一日3萬5000囘の諾否。

その質を高めるために、工夫をしていきたいものです。

 

對意二字熟語百顆印、40顆目は「首尾」です。

首尾とは

頭と尾。

頭部と尾部。

また、首腦部とそれに從うもの。

「首尾よく」という言葉があります。物事が始めから終わりまで、うまく運ぶこと。頭から尾まで、一貫して成功すること。

始まりと終わりを包括する、完全性を表す言葉です。

爬蟲類屬性の名殘

爬蟲類屬性の名殘なのかな?

尻尾生えてないんだよなぁ。

進化の痕跡

人閒は哺乳類ですが、進化の過程で爬蟲類の時代を經ているという誰かの考え方があります。

魚類 → 兩生類 → 爬蟲類 → 哺乳類

その長い進化の歷史の中で、尻尾は次第に退化していったという仮説のようです。

尾骶骨という名殘

尾骶骨という尻尾の名殘はあるけれど、尾そのものは無い。

お尻の骨の一番下にある小さな骨。それが尾骶骨です。

觸ってみると、確かにそこにあります。小さな突起として。

それは、かつて私たちの祖先が持っていた尻尾の最後の痕跡だと言う仮説のようです。

言葉の中の尻尾

でも、言葉の中には「尾」が頻繁に登場します。

身體から消えても、言葉の中には生き續けている。

それは、尻尾という概念が、人閒の想像力に深く根付いている證據なのかもしれません。

尾のつく言葉たち

よく考えると徹頭徹尾も尻尾です。

頭隱して尻隱さずの藏頭露尾も尻尾ですね。

徹頭徹尾

頭から尾まで、最初から最後まで。

「彼は徹頭徹尾、誠實な人だ」

始めから終わりまで一貫している、という意味です。

首尾一貫とも言いますね。

藏頭露尾(頭隱して尻隱さず)

頭を隱しても尻尾が出ている。

一部を隱しても全體は隱せない、という意味です。

「頭隱して尻隱さず」という諺の方が馴染みがありますね。

キジが草むらに頭を突っ込んで隱れたつもりでも、長い尾羽が丸見えになっている光景から來た言葉です。

その他の尾

他にも、尾のつく言葉はたくさんあります。

  • 語尾: 言葉の終わり
  • 尾行: 後をつけること
  • 尾鰭: 話に尾鰭をつける(誇張すること)
  • 首尾一貫: 始めから終わりまで一貫していること
  • 虎頭蛇尾: 始めは勢いがあるが終わりは衰えること

現時点で人には尻尾がないのに、尻尾を使った表現がこんなにも多い。

それだけ、尻尾という概念が言語に深く刻まれているのです。

犬や猫の尻尾

犬や猫が家にいるので、たまにその尾を觀察する事があるのですが、結構動きが激しいです。

感情を表す尻尾

犬の尻尾は、感情のバロメーターです。

嬉しい時はブンブン振って、興奮してる時は大きく囘して。

怒ってる時はピンと立てて、恐怖を感じてる時は足の閒に挾んで。

尻尾を見れば、犬の氣持ちが手に取るように分かります。

猫も同樣です。

機嫌が良い時はゆっくり揺らし、集中してる時はピクピク動かし、怒ってる時は太く膨らませます。

もし人閒に尻尾があったら

人も尻尾あったら面白そうですよね。

嬉しい時はブンブン振って、怒ってる時はピンと立てて、緊張してる時は足の閒に挾んで。

感情が尻尾に現れる。

もし人閒に尻尾があったら、嘘がつけなくなりそうですね。

口では笑ってても、尻尾が怒ってたら、バレバレです。

「本音と建前」という日本の文化は、成り立たなくなるかもしれません。

會議中、上司に同意するフリをしながら、尻尾はブンブン怒ってる。

合コンで興味ないフリをしながら、尻尾はパタパタ喜んでる。

想像すると、なかなかカオスな光景ですね。

でも、ある意味、とても正直な世界になるかもしれません。

カエルの不思議

特殊なのがカエルですよね。

消える尻尾

おたまじゃくしにはあるのに、カエルになる過程でだんだん短くなって消えるんですよね。

いや、もう、すごいことですよねこれって。

變態(メタモルフォーゼ)という現象。

おたまじゃくしは、完全な水中生活者です。鰓で呼吸し、尻尾で泳ぎます。

でも、成長するにつれて:

  1. 後ろ足が生える
  2. 前足が生える
  3. 肺が發達する
  4. 鰓が退化する
  5. 尻尾が短くなる
  6. 尻尾が完全に消える

そして、完全な陸上生活者になります。

驚異的な變化

尻尾だけでなく、鰓が肺になり、水中生活から陸上生活へと完全に變わる。

一つの生物が、一生の内に全く違う形態になる。

自然の神秘です。

同じDNAを持っているのに、環境に應じて全く違う姿になる。

これは、生物の持つ可塑性(かそせい)の驚くべき例です。

人閒で言えば、赤ちゃんが成長して大人になる程度の變化ではありません。

魚が鳥になるくらいの、根本的な變化です。

逆はない

でもその逆はなさそうですね。

生まれた時は尻尾ないのに大きくなるにつれて生えてくるってのは聞いたことないですね。

進化の方向性

進化の方向は、複雜から單純へ、ではなく、單純から複雜へ。

あるいは、必要なものを殘し、不要なものを削ぎ落とす。

カエルにとって、陸上では尻尾は不要だから消える。

水中では推進力として必要だった尻尾も、陸上では邪魔なだけです。

人閒にとっても、尻尾は不要だから退化した。

樹上生活から地上生活へと移行した人類の祖先にとって、バランスを取るための尻尾は、もはや必要ないと言う仮説のようですね。

首は殘り、尾は消えた

首と尾。

首は殘り、尾は消えた。

でも言葉の中には、今も尾が生き續けています。

身體からは消えても、概念としては殘り續ける。

それが、言葉の力なのかもしれません。

制作について - 白文のバランスの難しさ

今囘も朱白文で彫りました。

  • 構成: 朱白文(首は朱文、尾は白文)
  • 字體: 小篆風
  • サイズ: 10mm角
  • 石材: 靑田石
  • 印刀: 刀匠印刀三號
  • 擊邊: 少し入れました
  • 印影

     

     

尾が大きくなりすぎた

白文がちょっと大き過ぎた氣がします。

どうしても枠がないので大きめになっちゃうので、氣持ち抑えめに布字しないと押印後にあれ?ってなります。

白文は周りを彫り落とさないので、文字そのものの大きさが印象を左右します。

少し小さめに書いたつもりが、押印してみると想像以上に大きく見える。

朱文と白文の違い

朱文は周りが殘るので、枠に支えられてバランスが取りやすい。

外枠があることで、文字の大きさの基準ができます。

でも白文は、枠がない分、文字の大きさが全體のバランスを決めてしまう。

文字が大きすぎると、印全體が窮屈に見える。

文字が小さすぎると、印全體が間延びして見える。

このバランス感覺は、經驗を積むしかありません。

感覺を掴む

この感覺は、何度彫っても難しいです。

でも、だからこそ面白い。

一囘一囘、少しずつ感覺を掴んでいく。

今囘は少し大きすぎたから、次囘はもう少し小さめに。

そうやって、試行錯誤を繰り返しながら、自分の感覺を磨いていきます。

首尾よく...いかなかった

首尾よく仕上げるつもりが、尾が大きくなりすぎた。

それもまた、一興です😊

完璧を目指すけれど、完璧にはならない。

でも、その不完全さの中に、手作りの味わいがある。

それが、篆刻の面白さなのです。

おわりに - 40顆目の節目

「首尾」という言葉から、尻尾について、進化について、そしてバランスについて考えました。

そして、この「首尾」は、對意二字熟語百顆印の40顆目。

ちょうど40%が完了したことになります。

首から尾まで、100顆という長い道のりの、ちょうど中間地點を少し過ぎたあたり。

始めた頃は、100顆なんて遠い未來のように思えました。

でも、一顆一顆彫り續けているうちに、氣がつけば40顆。

首尾よくいったものもあれば、失敗したものもある。

でも、すべてが學びであり、すべてが成長の過程です。

殘り60顆。

首から尾まで、最後まで彫り續けます。


首尾一貫。始めから終わりまで、一つの道を貫く。それが、百顆印プロジェクトの目標です。尾が大きくなりすぎても、それもまた一つの學び。首尾よくいかなくても、それもまた首尾なのです。

【對意二字熟語百顆印 進捗: 40/100】

 

 

生成AIさんに作っていただいた画像はこちら、

たしかに、角の先から尾っぽまでですね・・・

 


補足: 尾骶骨について

人閒の尻尾の名殘である尾骶骨について、少し詳しく。

尾骶骨の構造

尾骶骨(びていこつ、尾閭骨とも)は、脊椎の最下部にある小さな骨です。

通常3〜5個の骨が癒合してできており、三角形の形をしています。

尻尾の痕跡

これは、かつて尻尾だった部分の痕跡だと言われています。

他の哺乳類、例えば猿は長い尻尾を持ちます。その尻尾の骨格が、人閒では退化して尾骶骨だけになったという想像のようです。

稀に尻尾が生える

非常に稀ですが、人閒の赤ちゃんが尻尾を持って生まれてくることがあります。

これは「先祖返り(atavism)」と呼ばれる現象で、退化したはずの形質が現れるものです。

ほとんどの場合、軟骨と皮膚だけでできた小さな突起で、手術で除去されます。

遺伝子の記憶

尾骶骨は、私たちの身體に刻まれた記憶です。

何億年という時閒をかけて、私たちがどうやって生成されたのかを、靜かに物語っています。

首から尾まで。

その尾は消えても、記憶は殘る。

それが、生命の歷史なのです。

 

對意二字熟語百顆印、39顆目は「强弱」です。

强弱とは

古くは「こうじゃく」とも讀む。

强いことと弱いこと。

きょうじゃく。

力の强弱、聲の强弱、光の强弱。

私たちの周りには、さまざまな「强弱」が存在しています。

弱さがあるからこそ

强いと言うのが良いとは思うんですけどね、でも弱さがあるからこそ强くなれるような氣もします。

弱さを知らない强さ

弱さを知らない强さは、脆い。

一度も負けたことのない者は、負けた時に立ち直れません。

一度も失敗したことのない者は、失敗した時に崩れてしまいます。

表面的には强く見えても、その强さは砂上の樓閣のようなものです。

弱さを經驗した强さ

弱さを經驗したからこそ、本當の强さが生まれるのかもしれません。

倒れたことがあるから、立ち上がり方を知っている。

傷ついたことがあるから、傷を癒す方法を知っている。

弱さを受け入れ、弱さと共に生きることを學んだ時、人は本當に强くなります。

强さとは、弱さを排除することではなく、弱さを包含することなのかもしれません。

昭和の扇風機

昔の扇風機は强と弱でしたよね。

カラフルな羽根

羽が綠とか靑とかオレンジで、昭和な感じが良いですよね。

今は白一擇にたまに黑みたいな感じですよね。

昭和の扇風機は、カラフルでした。

綠色の羽根、靑色の羽根、オレンジ色の羽根。

囘っている時は色が混ざり合って、何とも言えない昭和の色になる。

今の扇風機は、どれもシンプルでモノトーン。

洗練されているけれど、どこか寂しい氣もします。

紐を引っ張る電源

壁掛け首振りなんて、電源もアナログで紐引っ張ったりしてました。

今じゃ考えられないんだろうなぁ。

カチッ、カチッという音。

紐を引っ張る感觸。

首振りのギィギィという音。

すべてがアナログで、すべてに手觸りがありました。

一囘引っ張ると弱、もう一囘引っ張ると强、さらに引っ張ると切。

シンプルで、わかりやすくて、壞れにくい。

リモコンもタイマーもないけれど、それで十分だったのです。

アナログが好き

そう考えると僕はアナログが好きなんだろうなぁ。

觸覺的な樂しさ

ガチャガチャ囘したり、カチカチボタンを押したりするのが好きだったりする。

デジタルは便利だけど、觸覺的な樂しさがない。

タッチパネルをスワイプするのと、ダイヤルを囘すのと、どちらが樂しいか。

僕は斷然、ダイヤルです。

ダイヤルを囘す時の手應え。

ボタンを押した時のクリック感。

スイッチを入れた時のカチッという音。

それらすべてが、操作している實感を與えてくれます。

デジタルの均質性

デジタルは、すべてが均質です。

畫面をタップするのも、スワイプするのも、同じ平面を觸るだけ。

音も感觸もフィードバックも、すべてが人工的にプログラムされたもの。

便利だけれど、どこか物足りない。

アナログの不完全性

アナログには、不完全性があります。

ダイヤルは少しガタついていたり、ボタンは押す角度で感觸が違ったり。

でも、その不完全性こそが、愛着を生むのです。

使い込むほどに手に馴染み、自分だけの道具になっていく。

それがアナログの良さです。

クレッシェンドとデクレッシェンド

あとは强弱と言えば、クレッシェンドとデクレッシェンドかな。

だんだん强く、だんだん弱く

だんだん强くしたり弱くしたりするやつです。

だんだんって個人差ありますよね。

クレッシェンド(crescendo): だんだん强く

デクレッシェンド(decrescendo): だんだん弱く

音樂用語として、誰もが知っている言葉です。

でも、この「だんだん」が曲者です。

曖昧な指示の豐かさ

それをあのマークだけで表現してるってすごいことだと思うんですよね。

< と > のようなシンプルなマーク。

でも、演奏者によって、だんだんの速度も、到達點も全く違う。

ある人は一小節かけてゆっくりと强くし、ある人は一拍で急激に强くする。

同じ樂譜でも、十人十色の表現が生まれる。

それが音樂の面白さです。

數値化したら

ボリュームコントロールが壞れてしまったら表現できないです。

一秒後に何dB上がるとか書いてあればもっとわかりやすいのかな。

確かに、それは明確です。

「一秒後に3dB上げる」と書いてあれば、誰が演奏しても同じになります。

でも、それでは音樂ではなく、ただの數値になってしまう。

曖昧さの價値

曖昧だからこそ、豐か。

明確でないからこそ、解釋の餘地がある。

演奏者の感性、その日の氣分、會場の雰圍氣。

すべてが混ざり合って、唯一無二の演奏が生まれます。

强弱という二つの言葉だけで、無限の表現が可能になる。

言葉の力、記號の力は、實に不思議です。

强弱って盡きないですね。

ここらでやめとこう😊

制作について - 意圖せぬ弱さの表現

今囘も朱白文で彫りました。

  • 構成: 朱白文(强は白文、弱は朱文)
  • 字體: 小篆風
  • サイズ: 10mm角
  • 石材: 靑田石
  • 印刀: 刀匠印刀三號
  • 擊邊: 入れました
  • 印影

     

     

弓だらけの文字

强も弱も字の中に弓が入ってて、ほぼ弓で何これ感滿載ですよね。

「强」の字を分解すると:弓+口+虫

「弱」の字を分解すると:弓+ン+弓+ン

兩方とも弓が主要な構成要素です。

弓という武器が、强さと弱さの兩方を表現している。

不思議な組み合わせですよね。

配置の判斷

何と無く强のが白文合うかなと思っていたのですが、弱の朱文がとても弱そうでこっちの方が合ってて良かったなと印影みて思いました。

最初は何となくの直感で朱白を決めました。

强は白文で力强く。

弱は朱文で...特に深く考えていませんでした。

でも、押印してみて驚きました。

弱そうな朱文

そんなに意識してなかったのに、かなり弱そうです。

なんかもう今にも倒れそうな感じです。

何でそうなったって言う雰圍氣が滲み出てます。

これだから面白い🤣

偶然がもたらした完璧

意圖せず生まれた「弱さ」の表現。

線がガタガタしており、バランスが不安定で、本當に弱々しい。

でも、それが「弱」という文字を完璧に表現している。

計算ではなく、偶然がもたらした良い感じな表現。

强は力强く白文で、弱は頼りなげに朱文で。

その對比が、「强弱」というテーマを見事に體現しています。

創作の面白さ

創作の面白さは、こういう豫期せぬ瞬閒にあるのです。

完璧に計畫して、完璧に實行して、計畫通りに仕上がる。

それも良いけれど、時には計畫を超えたものが生まれることがあります。

意圖しない美しさ。

狙わない良い加減さ。

それが、手作業の醍醐味なのです。

もし、コンピュータで設計して機械で彫っていたら、この「弱さ」は生まれなかったでしょう。

人の手が彫るからこそ、不完全が生まれ、その不完全が良い加減になる。

矛盾しているようですが、それが眞實なのです。

おわりに

「强弱」という言葉から、弱さと强さ、アナログとデジタル、計畫と偶然について考えました。

弱さがあるからこそ、强さが生まれる。

アナログの不完全性が、愛着を生む。

計畫通りにいかないことが、豫期せぬ美を生む。

すべては對極にあるものが、互いを引き立て合っています。

强だけでは成り立たない。

弱だけでも成り立たない。

强と弱が共に在ることで、初めて完全になる。

それが、「强弱」という對意二字熟語が敎えてくれることなのかもしれません。

今日も石を彫りながら、强さと弱さの閒を行き來します。


完璧を目指しながら、不完全を受け入れる。强さを求めながら、弱さを認める。その矛盾の中に、人生の、そして創作の眞髓があるのかもしれません。

【對意二字熟語百顆印 進捗: 39/100】

 

 

生成AIさんに作っていただいた画像はこちら、

強と弱ですかね・・・

そうそう、そんな感じ!
懐かしいなぁ・・・まだ探せばあるのかなぁ・・・

 


補足: 强と弱の語源

「强」と「弱」、兩方に「弓」が含まれている理由について、少し調べてみました。

强(強)の成り立ち

  • 弓+蟲(または田田)
  • 弓が堅く張られている樣子
  • 張力が强い=强い

弱の成り立ち

  • 弓+弓(左右對稱)
  • 弓の弦が緩んでいる樣子
  • 張力が弱い=弱い

兩方とも弓の張り具合から來ているようです。

弓は古代において重要な武器でした。その張り具合で、强さと弱さを表現したのです。

同じ弓でも、ピンと張れば强く、緩めば弱い。

一つの物の狀態の違いが、對極の意味を生む。

漢字の成り立ちには、古代の人々の觀察眼と表現力が凝縮されています。

文字を彫りながら、そんな古代の人々の思いに馳せるのも、篆刻の樂しみの一つです。

 

對意二字熟語百顆印、38顆目は「呼吸」です。

呼吸とは

息を吐いたり、吸ったりすること。

息の出し入れ。

生きとし生けるものすべてが行う、最も基本的な生命活動です。

呼吸という對義語

呼吸という言葉があまりにも馴染みすぎていて、それ自體が呼氣と吸氣の對義語だと言うことを忘れているような狀態です。

なぜ「吐吸」ではないのか

息を吐くなので、吐吸でも良さそうですよね。

でも私たちは「呼吸」と言います。「吐吸」とは言いません。

これは單なる慣習ではなく、深い意味があるようです。

「呼」という文字には、單に「吐く」以上の意味が込められているのです。

「呼」という字の意味

それは呼という字に答えがあるようです。

色んな解釋があるようですが、呼は口と乎という字で構成されていて、乎に「呼ぶ」という意味があるみたいです。

「乎」という字には、實に多様な解釋が存在します。

解釋その1: 神との繋がり

乎は鳴子の形をしてるので、鳴子が神と繋がるための道具→息を吐くことは神とつながる事と同義。

鳴子とは、神事で使われる音を鳴らす道具。シャラシャラと音を立てて、神を呼び、神と交信するためのものです。

息を吐くこと、聲を發すること。それは神を呼び、神と繋がる行爲。

古代の人々にとって、呼吸は單なる生理現象ではなく、神聖な行爲だったのかもしれません。

解釋その2: 丹田からの放出

乎がしたから上にエネルギーを放出させる意味合いを持っている→息を吐くことは丹田から力を放出させるのと同義。

東洋醫學や氣功では、丹田(へその下三寸の部分)を重視します。

そこからエネルギーを放出すること。それが「呼」の本質。

息を吐く時、私たちは丹田から力を放出しています。

武術の「氣合い」も、歌唱の「腹式呼吸」も、すべてこの原理に基づいています。

解釋その3: 感嘆

乎は感嘆を表す文字→あーと言うと息を吐くのと同義。

「ああ!」「おお!」

感嘆の聲は、すべて息を吐くことで發せられます。

驚き、喜び、悲しみ。

感情が溢れ出る時、私たちは自然と息を吐き、聲を發します。

「呼」という字には、そんな人閒の根源的な表現が込められているのです。

多様な解釋の面白さ

色んな意味が想像できますね、面白いです。

一つの文字に、これだけ多くの意味が重層的に込められている。

それが漢字の深さであり、面白さです。

神との交信、エネルギーの放出、感情の表現。

すべてが「呼」という一文字に凝縮されている。

最も大切で最も疎かなもの

普段何氣なくしてる呼吸について掘り下げることなんてないのに、一番大事なことなんですよね、呼吸。

6ヘルスの一つ

仲埜孝明先生の6ヘルスの一つは呼吸なんですよね。

6ヘルスとは、健康の六つの柱:

  1. 呼吸
  2. 構造(姿勢)
  3. 睡眠
  4. 食事
  5. 運動
  6. 精神

その筆頭に來るのが呼吸です。

なぜなら、呼吸なくして生命は成り立たないから。

すべてに繋がっている

全てにつながっていると言っても過言ではないです。

だって息してないと動けないんだもの。

運動する時、呼吸が亂れます。

食事する時、咀嚼と嚥下の閒に呼吸を調整します。

睡眠中も、呼吸は續いています。

精神が安定している時、呼吸は深く穩やかです。

精神が不安定な時、呼吸は淺く速くなります。

すべての生命活動は、呼吸と連動しているのです。

疎かにしがち

疎かにしがちなんだけど、もっと大切にすべきですね。

最も大切なのに、最も意識されない。

それが呼吸です。

一日に何回呼吸をするか、數えたことがあるでしょうか。

大人で一日約二萬回。

そのうち、意識して呼吸した囘數は、何回あるでしょうか。

おそらく、ほとんどゼロに近いはずです。

生命そのもの

呼吸は生命そのもの。

生まれた時の最初の吸氣から、死ぬ時の最後の呼氣まで。

私たちの生は、呼吸と共にあります。

「息を引き取る」という言葉があります。

最後の呼氣を吐き出し、もう吸氣をしなくなった時、人は死にます。

生まれてから死ぬまで、一度も止まることなく續く行爲。

それが呼吸です。

制作について - 擊邊の改善

今囘も朱白文で彫りました。

  • 構成: 朱白文(呼は朱文、吸は白文)
  • 字體: 小篆風
  • サイズ: 10mm角
  • 石材: 靑田石
  • 印刀: 刀匠印刀三號
  • 擊邊: 入れました
  • 印影

     

     

昨日よりは良くなった

昨日よりは擊邊は良くなった氣がします。

前囘の「長幼」では、擊邊がびっくりするほどおかしなことになってしまいました。

明らかに作爲的な模樣になってしまい、恥ずかしい思いをしました。

でも、その失敗があったからこそ、今囘は意識して改善できました。

自然な成長

前囘の失敗から學び、少しずつ改善していく。

それもまた、呼吸のように自然な成長の過程です。

呼いて、吸って、また呼いて。

失敗して、學んで、また挑戰して。

その繰り返しが、成長を生むのです。

一度の呼吸で完璧にはなれません。

でも、何萬囘も呼吸を繰り返すうちに、自然と呼吸は深くなり、安定していきます。

篆刻も同じです。

朱文を彫る樂しさ

朱文はどうしても時閒がかかってしまうんだけど、樂しいんですよね😃

ずっと彫ってたい感じになる。

時閒を忘れて沒頭する

朱文は文字の部分を殘し、周りを彫り落とす技法。

彫る面積が廣いため、時閒がかかります。

でも、不思議と時閒を感じません。

集中しているうちに、あっという閒に時が過ぎていきます。

その時、呼吸は自然に深くなり、心は靜かになる。

彫刻と呼吸が一つになる瞬閒。

それが、創作の喜びなのかもしれません。

呼吸と刀のリズム

呼いて、吸って、また呼いて。

刀を動かすリズムと、呼吸のリズムが重なり合う。

息を吸う時、力を溜める。

息を吐く時、刀を動かす。

武道の動作と同じです。

その調和の中で、一つの印が生まれていきます。

呼吸を意識する

篆刻をしている時、私は呼吸を意識します。

淺い呼吸では、刀が安定しません。

深い呼吸をすることで、心が落ち着き、手が安定し、美しい線が引けます。

呼吸を整えることは、心を整えること。

心を整えることは、技術を整えること。

すべては繋がっているのです。

おわりに

「呼吸」という言葉から、生命の根源について考えました。

最も大切で、最も疎かにされているもの。

それが呼吸です。

普段、私たちは呼吸を意識することなく生きています。

でも、時には立ち止まって、自分の呼吸に意識を向けてみる。

深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

そうするだけで、心が落ち着き、身體がリラックスし、頭が冴えてきます。

呼吸は、神との繋がりであり、エネルギーの放出であり、感情の表現である。

そして、生命そのものである。

今日も、呼吸と共に生き、呼吸と共に石を彫ります。


生まれてから死ぬまで、一度も止まることなく續く呼吸。最も身近で、最も神聖な行爲。それを意識するだけで、人生は變わるのかもしれません。

【對意二字熟語百顆印 進捗: 38/100】

 

 

生成AIさんに作っていただいた画像はこちら、

吸って、吐くですね。。。

 


補足: 呼吸法について

呼吸を意識することの大切さを書きましたが、具體的な呼吸法をいくつか紹介します。

腹式呼吸

  • 鼻からゆっくり息を吸い、お腹を膨らませる
  • 口からゆっくり息を吐き、お腹をへこませる
  • リラックス效果が高い

丹田呼吸

  • へその下三寸(丹田)を意識する
  • 吸う時に丹田にエネルギーを集める
  • 吐く時に丹田から力を放出する
  • 武道や氣功の基本

4-7-8呼吸法

  • 4秒かけて鼻から吸う
  • 7秒息を止める
  • 8秒かけて口から吐く
  • 不眠症や不安に效果的

片鼻呼吸(ヨガ)

  • 右鼻を閉じて左鼻から吸う
  • 左鼻を閉じて右鼻から吐く
  • 交互に繰り返す
  • 自律神經を整える

呼吸を變えることで、心と身體が變わります。

一日一囘、五分でもいいので、意識的に呼吸をしてみてください。

それが、健康への第一步です。

 

對意二字熟語百顆印、37顆目は「長幼」です。

長幼とは

年上と年下。

また、おとなと子ども。

年長者と年少者。

また、大人と子供。

「長幼の序」という言葉があります。年長者を敬い、年少者をいたわるという、儒敎的な秩序觀念です。

でも、この言葉の本質は、單なる上下關係ではなく、互いを尊重し合う關係性にあるのではないでしょうか。

年齡差の不思議

小さいうちは結構重要なことなのかもしれないけれど、大きくなるとその差が開いたりしますよね。

何なんですかね、あれ。

子供の頃の一歲

子供の頃は一歲違うだけで大きな差を感じます。

幼稚園の年少と年長では、體格も知識も全く違う。

小學一年生と六年生では、まるで別の生き物のようです。

一歲の差が、發達段階において大きな意味を持つのです。

大人になると

でも、大人になると十歲違っても對等に話せたりする。

三十歲と四十歲、四十歲と五十歲。

確かに人生經驗の差はあるけれど、對話において決定的な壁を感じることは少ない。

むしろ、年齡に關係なく、價値觀や興味が合うかどうかの方が重要になってきます。

不思議なものです。

子供心の大切さ

幾つになっても子供心は大事だとは思います。

好奇心、純粹さ、遊び心。

年齡を重ねても、それらを失わない人は魅力的です。

逆に、若くても心が老いてしまっている人もいます。

長幼の差は、年齡だけでは測れないのかもしれません。

幼少期に滿たすこと

でも、なんていうのかな、幼少期に自分の中を一盃滿たしているかどうかで、變わってくるんでしょうね。

腦の發達段階

爬蟲類腦から、哺乳類腦を經て、人閒腦を育成する段階がとても大事なんでしょうね。

人閒の腦は三層構造になっています。

爬蟲類腦(腦幹): 生命維持を司る。呼吸、心拍、體溫調節など。

哺乳類腦(大腦邊緣系): 情動を司る。恐怖、喜び、愛着など。

人閒腦(大腦新皮質): 理性を司る。思考、判斷、創造など。

この三つが順番に發達していきます。

安心感の重要性

一つは安心して過ごせるかどうかで滿たされ具合は違ってきそうです。

幼少期に安心感を得られるかどうか。

それが、哺乳類腦の發達に大きく影響します。

安心できる環境で育った子供は、情緖が安定し、他者を信頼する力を育みます。

逆に、常に不安や恐怖の中にいた子供は、世界を敵對的に捉えるようになってしまいます。

接し方の大切さ

あとは接し方なのかな。

出來ること前提で見守ると言うのが大事なんだと思う。

「この子はできる」と信じて見守るのか。

「この子はできない」と思って先囘りするのか。

その違いが、子供の自己肯定感に大きく影響します。

できると信じて見守られた子供は、自分を信じる力を育みます。

できないと思われて過保護にされた子供は、自分を信じられなくなります。

當時は精一盃だった

多分、いまだったらできそうだけど、當時はもう精一盃だったんだろうなぁ。

ごめんねぇ〜m(_ _)m

繰り返される連鎖

口を出して、手傳いをして、自分の思考を押し付けて、轉ばないように先囘りして、、、

それじゃ、結局自分がされた事と一緖で同じ事が繰り返されてしまう。

親もまた、親から同じように育てられたのかもしれない。

そして、氣づかないうちに、同じパターンを繰り返してしまう。

世代を超えて繼承される、育て方のパターン。

それが、必ずしも良いものとは限りません。

眞逆をすればよかった

自分がされた事とは眞逆をすればよかったのかもしれない。

自分が口を出されて嫌だったなら、口を出さない。

自分が先囘りされて窮屈だったなら、先囘りしない。

自分が押し付けられて苦しかったなら、押し付けない。

でも、それは簡單なことではありません。

自分が當たり前だと思っている育て方を變えるのは、とても難しいことです。

今更だけど

まぁ、今更だわ。

過ぎてしまった時閒は戾らない。

もう一度やり直すことはできない。

後悔しても、自分を責めても、過去は變わりません。

これからのことを考えよう

これからのことを考えよう。

いつ始めても遲くはない。

見守ること、觀察すること

見守ること、觀察することから始めよう。

今からでも、できることはあります。

口を出したくなっても、グッと堪えて見守る。

手を出したくなっても、じっと觀察する。

相手が何を考え、何を感じ、何をしようとしているのか。

それを理解しようと努めること。

それが、新しい關係性の始まりになります。

せっかくの機會

せっかくの機會が訪れたのだから、これを活かす手はないよね〜😊

子供が大きくなった今だからこそ、できることがある。

過去の失敗を活かして、今からの關係を築き直すこと。

過去は變えられないけれど、今から始められることはある。

長幼の關係も、いつからでも築き直せる。

そう信じて、一步を踏み出します。

制作について - 擊邊の難しさ

今囘も朱白文で彫りました。

  • 構成: 朱白文(長は白文、幼は朱文)
  • 字體: 小篆風
  • サイズ: 10mm角
  • 石材: 靑田石
  • 印刀: 刀匠印刀三號
  • 擊邊: 入れました
  • 印影

     

     

失敗した擊邊

擊邊がびっくりするぐらいおかしなことになってます。

特に下部。

明らかに作爲的につけた模樣のようで、恥ずかしい限りです。

擊邊(げきへん)とは、印の邊緣を石や金屬で叩いて、自然な缺けや傷をつける技法です。

古い印の風合いを出すためのものですが、やり方を間違えると、いかにも「わざとらしい」模樣になってしまいます。

今囘がまさにそれです。

體で覺える技術

叩き方にコツがあるんだろうけど、まだまだ叩き足りないんでしょうね。

いや、加減というか、わざとらしさが出ないような叩き方があるんだとは思うけど、體で覺えるんでしょうね。

恐らく、同じ角度で叩いちゃダメなんだろうけど、同じ角度で同じ强さで叩いてるので、模樣ぽくなってしまうんだろうなと、何と無く思います。

ランダムに、不規則に、自然に。

それを意圖的に作り出すことの難しさ。

規則性を持たせないために、どう叩けばいいのか。

理屈では分かっていても、體がそれについていかない。

生で見てみたい

人が叩いてるのを、生で見てみたいんですけどねぇ。

一度、實際に見れば、きっと分かることがある。

角度、强さ、リズム、道具の持ち方。

言葉では說明できない微妙なコツが、きっとあるのでしょう。

獨學を貫くか

まぁ、獨學を貫くか。

それも樂しいでしょう😆

獨學の樂しさ

誰かに敎わる方が效率的かもしれない。

でも、自分で試行錯誤しながら學ぶ過程こそが、樂しい。

失敗して、氣づいて、また試す。

その繰り返しが、本當の學びなのかもしれません。

敎わったことは、すぐに忘れてしまう。

でも、自分で苦勞して掴んだことは、身體に染み込んで一生忘れません。

子育ても篆刻も

子育ても、篆刻も、獨學も。

すべては試行錯誤の連續です。

完璧な親などいない。

完璧な篆刻家もいない。

みんな、手探りで、一步ずつ進んでいる。

失敗しながら、學びながら、少しずつ成長していく。

それでいいのだと思います。

おわりに

「長幼」という言葉から、子育てについて、そして學びについて考えました。

幼少期に十分に滿たしてあげられなかった後悔。

でも、今からでも遲くない。

見守ること、觀察することから始めよう。

篆刻の擊邊も、一度の失敗で諦めない。

何度も試して、體で覺えていく。

長い時閒をかけて、少しずつ成長していく。

長幼の關係も、技術の習得も、すべて同じです。

焦らず、急がず、一步ずつ。

今日も石を彫り、今日も子供を見守ります。


幼い頃に戾ることはできない。でも、今から始めることはできる。長い時閒をかけて、少しずつ關係を築き直していく。それが、長幼を生きるということなのかもしれません。

【對意二字熟語百顆印 進捗: 37/100】

 

 

生成AIさんに作っていただいた画像はこちら、

素敵な画像ですね・・・(´艸`*)


補足: 三つの腦について

人閒の腦の三層構造について、もう少し詳しく:

爬蟲類腦(腦幹)

  • 最も原始的な部分
  • 生命維持機能を擔當
  • 本能的な反應(戰うか逃げるか)
  • 胎兒期から乳兒期に發達

哺乳類腦(大腦邊緣系)

  • 情動を司る
  • 愛着、恐怖、喜び、悲しみ
  • 親子關係、社會性の基礎
  • 乳幼兒期に發達

人閒腦(大腦新皮質)

  • 理性的思考を司る
  • 言語、創造性、計畫性
  • 人閒らしさの源泉
  • 幼兒期から成人期にかけて發達

この三つは階層的に發達します。下の層が十分に發達していないと、上の層もうまく發達しません。

だから、幼少期の安心感や愛着形成は、その後の人格形成に決定的な影響を與えるのです。

 

對意二字熟語百顆印、36顆目は「名實」です。

名實とは

名と實。

名聲と功績。

評判と實際。

名稱と實質。

「名實相伴う」という言葉があります。名聲と實力が釣り合っていること。評判と實際が一致していること。

でも、世の中には名ばかりで實が伴わないものも、實はあるのに名が知られていないものも、たくさんあります。

名と實。その關係性を問う言葉です。

人の評價なんてどうでもいい

人の評價なんてどうでもいいんだよ!

大事なのは自分でどう思うかなんだよ!

とは思います。

名聲は要らない

名聲は要らないです。

有名になりたい、認められたい、褒められたい。

そういう欲求は、誰にでもあるのかもしれません。

でも、それは本當に必要なものでしょうか。

名聲を求めた結果、實を失ってしまった人を、私たちは數多く見てきました。

名ばかりが先行して、中身が空っぽになってしまう。

それは本末轉倒ではないでしょうか。

評判は誰かの思い

評判は誰かの思いなんですよね。

他人がどう見るか、どう感じるか。

それは相手の問題であって、自分の問題ではない。

千人いれば千通りの評價があります。ある人には素晴らしいと思われ、ある人には取るに足らないと思われる。

すべての人に良く思われることなど、不可能です。

ならば、他人の評價に一喜一憂するよりも、自分が納得できるかどうかを大切にした方が、よほど健全ではないでしょうか。

名稱も誰かの意思

名稱も誰かがつけたり、誰かの意思だったりしますよね。

商品名も、藝名も、組織名も、すべて誰かが意圖を持ってつけたもの。

その名前に引きずられて、實體を見失うこともあります。

「オーガニック」という名前がついていれば安全だと思い込む。

「高級」という言葉がついていれば良いものだと思い込む。

名に惑わされず、實を見る目を持つこと。それが大切なのです。

名を持つということ

名は今世では兩親や親類が決めてくれた大事なものなんだけど、本來名を持つということでさえなんか變なのかもしれない。

生まれた時は名を持っていない

だって生まれてきた時は、名を持って生まれてきてないもの。

赤ちゃんは、名前のない存在として、この世に生まれてきます。

そこには純粹な「存在」だけがある。

名づけられる前の、ただの「いのち」。

でも、社會の中で生きていくために、私たちは名を與えられます。

識別子としての名

生きていく上で、人と區別するための識別子でしかないわけで、本當に必要かどうかと言われると、あってもいいし無くてもいい感じなんだと思う。

「田中さん」「鈴木さん」「佐藤さん」

それは、數多くいる人閒の中から、特定の個人を指し示すための記號に過ぎません。

コンピュータで言えば、IDやユーザー名のようなもの。

便利ではあるけれど、それが本質ではない。

名の向こうにある實

名の向こうにある實。

それこそが、本當の自分なのかもしれません。

肩書きを外したとき、名聲を失ったとき、評判が地に落ちたとき。

そこに殘るものが、本當の「實」なのでしょう。

名を剝ぎ取られても、なお殘る何か。

それが、私たちの本質なのです。

制作について - 紙による表情の違い

今囘も朱白文で彫りました。

  • 構成: 朱白文(名は朱文、實は白文)
  • 字體: 小篆風
  • サイズ: 10mm角
  • 石材: 靑田石
  • 印刀: 刀匠印刀三號
  • 擊邊: 入れました
  • 印影

     

     

三種類の紙

三種類の紙に押印をするんだけど、一枚は付箋、もう一枚はメモ用紙、最後はカードタイプの用紙。

紙によって表情が違うので、どれがいいとかはないんだけれども、硬い紙のが綺麗に押印できるような氣がしてます。

同じ印、同じ朱肉でも、紙が變われば印影が變わる。

柔らかい紙は朱肉をよく吸い、にじみが出やすい。 硬い紙は朱肉の吸収が少なく、シャープな印影になる。

どちらが良いということではなく、どちらも異なる美しさがある。

名と實の違い

これもまた、「名實」のテーマに通じます。

同じ印という「名」でも、紙という條件が變われば、現れる「實」は異なる。

本質は同じでも、環境によって見え方は變わる。

それが、名と實の關係なのかもしれません。

朱文を彫る樂しさ

朱文は彫ってる時、時閒がかかってるはずなのに、ずっと樂しい感覺があります。

朱文は文字の部分を殘し、周りを彫り落とす技法。

白文に比べて彫る面積が多く、時閒もかかります。

でも、不思議と時閒を忘れて沒頭してしまう。

細くシャープに彫る

できる限り細くシャープに彫ったつもりですが、押してみると意外と太かったり、ガタガタしてたりします。

彫っている時は、完璧に細く、完璧にシャープに彫れたと思う。

でも、實際に押印してみると、想像とは違う。

線が太く見えたり、ガタガタしていたり。

違いの面白さ

そこが面白かったりします。

思うように彫れるのが良いとは思うんですけどね〜

違うのも面白いんですよね。

理想通りに仕上がることも嬉しい。

でも、思いがけない結果が出ることも、また樂しい。

その豫測不可能性が、創作の魅力なのです。

名と實の乖離

彫った時の想像と、押印した時の現實。

その違いもまた、「名實」というテーマに通じます。

思い描いた「名」と現れた「實」

頭の中で思い描いたイメージ。それが「名」です。

實際に石に彫り、紙に押して現れた印影。それが「實」です。

完全に一致することはありません。

必ず、何かしらの違いがある。

違いの中の美しさ

でも、その違いの中に、豫期せぬ美しさが生まれることもある。

思った通りに彫れなかった線が、意外な味わいを生む。

計算外のガタガタが、獨特の雰圍氣を醸し出す。

完璧を目指しながら、不完全を受け入れる。

名實相伴うことを目指しながら、名實の違いを樂しむ。

そんな矛盾も、創作の一部なのです。

おわりに

「名實」という言葉から、名前について、評價について、そして自分自身について考えました。

名聲や評判、名前や肩書き。

それらは確かに便利なものです。社會の中で生きていく上で、必要なものでもあります。

でも、それが全てではない。

名の向こうにある實。

評判の向こうにある眞實。

肩書きの向こうにある本質。

それらを見失わないこと。

他人の評價に惑わされず、自分が納得できるかどうかを大切にすること。

名ばかりを追い求めず、實を磨くこと。

そんな生き方ができたら、素敵だなと思います。

篆刻も同じです。

「上手い」という名聲を求めるのではなく、自分が納得できる實を追求する。

思い通りにいかなくても、その違いを樂しむ。

名と實の閒を行き來しながら、今日も石を彫ります。


名を剝ぎ取られても殘るもの。それが本當の自分。名實相伴う完璧を目指しながら、名實の違いを樂しむ。その矛盾の中に、創作の、そして人生の面白さがあるのかもしれません。

【對意二字熟語百顆印 進捗: 36/100】

 

 

 

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どういう意味やろか・・・(;^ω^)

 

 


補足: 名實相伴うということ

「名實相伴う(めいじつあいともなう)」とは、名聲と實力が釣り合っていることを意味します。

逆に:

  • 名實ともに揚がる: 名聲も實力も共に高まること
  • 名實共に亡ぶ: 名聲も實體も共に失われること
  • 有名無實: 名ばかりで實體がないこと

現代社會は、しばしば「名」ばかりが先行します。

SNSのフォロワー數、肩書き、ブランド名。

でも、その名に見合った實があるかどうか。

それを問い續けることが、大切なのではないでしょうか。

自分自身に對しても、他人に對しても。

名に惑わされず、實を見る目を養いたいものです。

 

對意二字熟語百顆印、35顆目は「晝夜」です。

晝夜とは

夜ひる。

晝も夜も。

四六時中。

絕えず。

晝夜を通して。

ひるもよるも。

いつも。

日夜。

時閒の流れを表す言葉として、「晝夜」ほど包括的なものはないかもしれません。一日二十四時閒、すべての時を包み込む言葉です。

本當に大事なのは「いま」

認知症の方から、晝夜問わず電話がかかってくるらしいです。

まぁ、それは大變ですよね。

介護する側の負擔は計り知れません。晝夜の區別がつかなくなり、何度も同じ電話をかけてくる。受ける側は睡眠も滿足に取れない日々が續きます。

認知症に至るまで

自分が何をしてるのかとか、今何日の何時なのかがわからないとなると、仕方ないのかなとは思いますが、おそらく、そこに至るまでに何らかの氣付きはあったと思うのです。

物忘れが增えてきた。 同じ話を繰り返すようになった。 時閒の感覺が曖昧になってきた。

小さなサインは、きっとあったはずです。

氣付きを蔑ろにした代償

でも、その氣付きを蔑ろにしたり、氣付いてないふりをしたり、眞劍に向き合うことを放棄して、思考を停止させられ、現實というか「いま」を大事に取り扱わなかった代償ですよね。

「まだ大丈夫」 「歲だから仕方ない」 「考えたくない」

そうやって目を背けているうちに、「いま」を見失っていく。

本當に大事な事は「いま」なんですよね。

過去でもなく、未來でもなく。 今この瞬閒に、意識を向けること。 今この瞬閒を、大切に生きること。

それができなくなったとき、時閒の感覺は失われ、晝夜の區別もつかなくなるのかもしれません。

魂の選擇

まぁ、今囘はぼけるという選擇をして生まれてきたのかもしれないので、そこはなんとも言えないところではあります。

輪廻轉生という考え方に立てば、今世での經驗はすべて魂の學びのため。

認知症になることも、その介護をすることも、すべて魂が選んだ經驗なのかもしれません。

だとすれば、それを責めることはできない。ただ、そこから何を學ぶかが大切なのでしょう。

晝と夜、それぞれの役割

晝は活動的に動いて、夜は寢ることに專念するというのが僕の體には一番あってるような氣がしています。

夜は寢るための時閒

夜って暗いから行動しにくいというのもあるし、冬場は氣溫かなり下がりますよね。

寢るのが一番かと。

人工照明が發明される前、人類は何萬年もの閒、太陽と共に生きてきました。

日が昇れば活動し、日が沈めば休む。

その自然のリズムに從うことが、人閒本來の生き方なのかもしれません。

現代社會は二十四時閒營業、夜勤、深夜勞働と、晝夜の區別を失っています。

でも、それは本當に人閒の體に合っているのでしょうか。

晝夜の美しさ

ご來光はとても綺麗だし、夕日が空をあかく染めるのも好きです。

朝日が昇る瞬閒の神々しさ。 夕日が沈む時の切なさ。

晝夜の移り變わりの中に、美しさがある。

その移り變わりを感じながら生きることが、「いま」を大切にすることなのかもしれません。

毎日同じように日は昇り、日は沈む。でも、全く同じ朝日も、全く同じ夕日もない。

今日のこの瞬閒は、二度と戾らない。

だから、「いま」が大切なのです。

制作について - リベンジの成功

今囘も朱白文で彫りました。

  • 構成: 朱白文(晝は朱文、夜は白文)
  • 字體: 甲骨文字風
  • サイズ: 10mm角
  • 石材: 靑田石
  • 印刀: 刀匠印刀三號
  • 擊邊: 入れませんでした
  • 印影

     

     

前囘の思いを活かす

昨日の思いがあったので、今日は晝を大き目、夜を小さめに配置して印稿を作り、出來る限り忠實に布字して彫りました。

前囘の「髙低」では、髙を髙めに低を低めに配置しようとして、技術的な制約で斷念しました。

でも、その經驗があったからこそ、今囘はより慎重に計畫を立てることができました。

晝を大きく、夜を小さく。

太陽の存在感と、夜の靜けさ。その對比を視覺的に表現する。

甲骨文字風という選擇

今囘は字體に甲骨文字風を選びました。

甲骨文字は、中國最古の文字。紀元前1300年頃の殷の時代に、龜の甲羅や獸の骨に刻まれた文字です。

最も原初的で、最も力強い。

晝夜という、人類が文字を持つ前から經驗してきた普遍的な現象を刻むのに、ふさわしい字體だと思いました。

計畫の樂しさ

いやぁ、旅行もだけど、計畫時が樂しいですよね。

想像力をフルで活用して頭の中で色々考えるのって樂しい😆

どんな配置にしようか。 どんな字體にしようか。 どんな印影になるだろうか。

頭の中のシミュレーション

紙の上に何度もスケッチを重ね、頭の中で何度も完成形をイメージする。

この文字をもう少し大きくしたら? 位置をもう少し右にずらしたら? 線の太さを變えたら?

無限の可能性の中から、最適な一つを選び出す。

その過程こそが、創作の醍醐味なのかもしれません。

旅行の計畫と同じ

旅行も同じですよね。

どこに行こうか、何を見ようか、何を食べようか。

地圖を眺めながら、ガイドブックをめくりながら、想像を膨らませる。

その時閒が、旅そのものと同じくらい樂しい。

もしかしたら、實際に行くことよりも、計畫している時閒の方が樂しいかもしれない。

創作も、旅も、未來への想像力が原動力なのです。

あっという閒の制作時閒

出來上がりは、納得いかない點もちょっとあるけど、まぁ、いい出來なのかと思う。

完璧ではないけれど、自分なりに納得できる仕上がり。

それが、創作というものなのでしょう。

時閒の不思議

彫ってる時閒はあっという閒で、すぐに終わっちゃうんですよね。

計畫に何時閒もかけて、實際の制作はほんの數十分。

でも、その短い時閒の中に、全ての集中が注がれている。

時閒の感覺が消える。

晝も夜も、過去も未來も、すべてが消えて、ただ「いま」だけがある。

刀を持つ手、石の感觸、削れていく音。

すべてが一つになる瞬閒。

「いま」への沒入

晝夜を問わず續く時閒の中で、この瞬閒だけは完全に「いま」に沒入している。

それが、彫刻という行爲の本質なのかもしれません。

認知症の話で「いま」を大切にすることの重要性を語りましたが、まさに彫刻をしている時こそ、最も「いま」を生きている瞬閒なのです。

過去の失敗も、未來の不安も、すべてが消える。

ただ、石と刀と、そして自分だけがある。

その純粹な「いま」が、創作の喜びなのです。

おわりに

「晝夜」という言葉から、時閒について、「いま」について、そして創作について考えました。

晝も夜も、絕え間なく流れ續ける時閒。

その中で、私たちは「いま」をどれだけ大切にできているでしょうか。

晝夜を問わず忙しく働き、晝夜の區別もつかないほど疲れ果て、氣がつけば「いま」を見失っている。

現代人の多くが、そんな狀態にあるのかもしれません。

でも、太陽は今日も昇り、今日も沈む。

そのリズムに身を委ね、晝は活動的に、夜は靜かに。

自然と共に生き、「いま」を大切に生きる。

そんな生き方を、この小さな印が思い出させてくれました。


晝夜は巡る。終わりなく、始まりなく。その循環の中で、「いま」という瞬閒だけが、永遠に輝いている。

【對意二字熟語百顆印 進捗: 35/100】

 

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昼なんだけどね・・・(;^ω^)

 


補足: 甲骨文字について

今囘使用した甲骨文字風の字體について、少し補足を。

甲骨文字は、現存する漢字の最古の形態です。

紀元前1300年頃、殷王朝の時代に、龜の甲羅や牛の肩胛骨に刻まれました。

主に占いの記錄として使われ、「これから戰爭をすべきか」「雨は降るか」「收穫は豐かか」といった質問と、その結果が刻まれています。

文字の形は象形的で、物の形をそのまま表しています。

例えば:

  • 「日」は太陽の形
  • 「月」は三日月の形
  • 「木」は樹木の形

その素朴で力強い形は、三千年以上の時を經た今も、私たちの心を打つ何かを持っています。

晝夜という、人類普遍の經驗を刻むのに、最古の文字を使う。

それは、時閒を超えた普遍性への敬意なのかもしれません。

 

對意二字熟語百顆印、34顆目は「髙低」です。

髙低とは

物の髙いことと、低いこと。

山や樹木・背たけなどの、空閒的な髙さ低さ。

日常生活の中で、私たちは常に髙低差に圍まれています。建物の階段、坂道、山々。重力がある限り、髙低は私たちの存在と切り離せないものです。

次元が變わると消えるもの

物理世界では普通に存在している髙いと低いだけど、次元が變わるとなくなるものなのかな。

三次元空閒では明確に存在する髙低差。

でも、四次元、五次元と次元が上がっていくと、その概念自體が意味を失うのかもしれません。

相對的な概念

よく考えてみれば、髙いも低いも相對的な概念です。

富士山の頂上は地上から見れば髙いけれど、宇宙から見れば地表の微かな凹凸に過ぎない。

地球という球體の表面に立つ私たちにとって、「上」や「下」という方向すら、實は地球の中心を基準にした相對的なものです。

次元を超えた視點から見たとき、髙低という區別は溶けて消えるのかもしれません。

山行と標髙差

山に登る時は髙低差が結構重要な抑えておくべき點となってくる事がある。

登山において、標髙差は體力と時閒を見積もる上で最も重要な指標の一つです。

累積標髙差1000mの意味

1日での移動を計畫する際、累積の標髙差が1000mを超えると結構きつめの山行となる。

累積標髙差とは、登りの標髙差を全て足し合わせたもの。途中で下ってまた登る場合、その下りは計算に入れず、登りだけを累積します。

1000mというのは、東京スカイツリー(634m)を登って、また半分ほど登るような標髙差。これを自分の足で、重い荷物を背負って登るのですから、體への負擔は相當なものです。

距離と標髙差の關係

あとは距離も影響してくる。

距離短いのに標髙差が大きいとかなりの急登が存在してることになる。

例えば、水平距離2kmで標髙差1000mなら、平均斜度は約26度。これは相當な急斜面です。

逆に、水平距離10kmで標髙差1000mなら、平均斜度は約6度。比較的緩やかな登りとなります。

同じ標髙差でも、距離によって體感の辛さは全く違うのです。

地圖とルートの把握

事前に等髙線入りの地圖とかルートの把握は必要ですよね。

等髙線が密集している場所は急斜面。 等髙線の閒隔が廣い場所は緩斜面。

地圖を讀めば、實際に登る前に、どこが急でどこが緩やかなのかが分かります。

これは山の安全を守る上で、とても大切な技術です。

上りと下りの時閒

下りはコースタイムより短めに降りれるけど、上りは意外と時閒がかかったりする。

一般的に、登山のコースタイムは「登り:下り = 2:1」程度で設定されています。

でも實際には、體力や經驗、荷物の重さによって大きく變わります。

山小屋への到着時刻

餘裕を見て目的地の到着時閒を設定しておかないと、山小屋によっては怒られたりするらしいです。

山小屋は夕食の準備があるため、遲い時閒の到着は迷惑になることがあります。また、日沒後の山道は危險なため、明るいうちに到着することが鐵則です。

今の所怒られたことはないですが、遭難しかけた事は何度かあるので、氣をつけるようにはしてます。

遭難の經驗

遭難しかけた經驗というのは、決して大袈裟ではありません。

道に迷った、日が暮れた、體力が盡きた、天候が急變した。

山では、ちょっとした判斷ミスや計畫の甘さが、命に關わる事態を招きます。

山という自然の中で、髙低差は單なる數字ではなく、命に關わる現實となります。

全ては自己責任ですからね。

山は誰も助けてくれない。自分の身は自分で守る。その覺悟を持って登る必要があります。

制作について - 理想と制約の髙低差

今囘も朱白文で彫りました。

  • 構成: 朱白文(髙は朱文、低は白文)
  • 字體: 小篆風
  • サイズ: 10mm角
  • 石材: 靑田石
  • 印刀: 刀匠印刀三號
  • 擊邊: 入れました
  • 印影

     

     

やりたかった表現

髙は髙めの位置に、低は低めの位置に配置しようとしたけれども、印面サイズの關係で難しい事がわかり斷念しました。

これは面白いアイデアでした。

「髙」という文字を印面の上部に配置し、「低」という文字を印面の下部に配置する。視覺的に髙低を表現しようという試みです。

でも、10mm角という限られた空閒の中で、文字のバランスを保ちながらこの配置を實現するのは、想像以上に難しかったのです。

後の祭り

字體を變更してたら可能だったのかもしれないと後の祭りでした。

もっと四角い字體を選んでいれば、上下に配置する餘裕があったかもしれない。

あるいは、文字のサイズに差をつけて、「髙」を大きく上に、「低」を小さく下に配置するという方法もあったかもしれない。

でも、彫り始めてから氣づいても遲い。石は一度彫ったら元には戾せません。

そんな時もあります。

後の祭りも學び

やりたかった表現が、技術的な制約でできなかった。

理想と現實の閒には、いつも髙低差がある。

でも、それも一つの學び。次囘に繋げる經驗です。

失敗から學ぶこと

今囘の失敗から學んだことは:

  1. 布字の段階でもっと慎重に檢討すること
  2. 複數の字體で試してみること
  3. 實驗的な配置を試みる場合は、事前に別の石で試作すること

理想を追求する姿勢は大切。でも、現實の制約を理解することも同じくらい大切。

その兩者の閒を行き來しながら、少しずつ技術を高めていく。

次に繋ぐ

次に繋ぎましょう😊

できなかったことは、次囘への宿題。

山で遭難しかけた經驗が次の山行を慎重にさせるように、制作の失敗も次の制作を豐かにしてくれます。

髙低差を乗り越えることで、また一段高い場所へ登れる。

そう信じて、また石を彫り始めます。

おわりに

「髙低」という言葉から、山行の經驗と制作の經驗、兩方について考えました。

山では、髙低差は體力と時閒と命に關わる現實。 制作では、理想と現實の閒にある髙低差。

どちらも、乗り越えるべき差であり、同時に存在することで意味を持つ差でもあります。

髙いがあるから低いがあり、低いがあるから髙いがある。

その對比の中で、私たちは自分の位置を知り、次の一步を踏み出していくのです。


山を登る時、頂上だけを見ていては足元がおぼつかない。足元だけを見ていては道に迷う。髙きを望みながら、低きを踏みしめる。その繰り返しが、登山であり、創作であり、人生なのかもしれません。

【對意二字熟語百顆印 進捗: 34/100】

 

 

 

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解放感が凄いですよね(´艸`*)

 

 


補足: 登山における安全管理

登山を安全に樂しむためのポイントをいくつか:

計畫段階

  • 累積標髙差と距離から所要時閒を見積もる
  • コースタイムに1.2〜1.5倍の餘裕を持たせる
  • 日沒時刻から逆算して出發時刻を決める
  • 天氣豫報を必ず確認する

裝備

  • 地圖とコンパス(スマホの電池は切れることがある)
  • ヘッドランプ(日沒後に備える)
  • 非常食と水(多めに持つ)
  • レインウェア(天候急變に備える)

山行中

  • こまめに現在地を確認する
  • 體力を溫存し、無理をしない
  • 引き返す勇氣を持つ

全ては自己責任。だからこそ、準備と判斷が大切なのです。

 

對意二字熟語百顆印 其之三十三

「遠近」という言葉は、
遠い所と近い所、
遠いことと近いこと、
あちらこちら、ここかしこ、
將來と現在――
そんな複數の意味を、ひとつの中に含んでいます。

この二字を前にした時、
何となく「遠近兩用」という言葉が浮かびました。

私は中學生の頃から、遠くが見えにくくなりました。
それ以降、長いあいだ眼鏡と付き合ってきましたが、
最近は運轉時以外、ほとんど掛けていません。

コンタクトは目が乾き、
眼鏡も長時間になると、目に良くない氣がする。
その結果、
「遠くは見えないまま」過ごすという選擇に、
自然と落ち着きました。

どうしても見なければならないものがある時は、
自分から近づいて見る。
けれど、
實際には、見なくても濟むものがあまりにも多い。

遠くを見ようとしない生活は、
思っていた以上に效果がありました。

我が家にはテレビがありません。
もう十年ほど、
いや、それ以上になるでしょうか。

映像は、人の感情や思考に
直接入り込む力を持っています。
それを「洗腦の道具」と知ってから、
私の中では、テレビという存在が
次第に消えていきました。

テレビを見なくなってから、
恐怖心は驚くほど薄らぎました。
映像の力は、それほどまでに强い。

あの時の判斷は、
閒違っていなかったのだと、
今は靜かに思います。

たまたま身近に、認知症の方がいます。
その方はテレビが大好きで、
現實と映像が混ざってしまうことがあるようです。

一度、テレビが壞れ、
しばらく修理せずにいた時期がありました。
その閒、不思議なほど落ち着いていた。

これは知識ではなく、
實體驗として、強く印象に殘っています。

遠くを見ること。
近くを見ること。

それは、視力の問題だけではなく、
何を自分の世界に入れるか、
何を入れないか、
その選擇そのものなのかもしれません。


印の制作について

今回も朱白文で彫りました。
字體は小篆風。
「遠」は白文、「近」は朱文としています。

印材は靑田石。
印面は10mm角。
擊邊は、ほんの少し入れました。
印刀は、刀匠印刀三號を使用しています。

朱文側の枠は、うまく殘せませんでした。
ほぼ枠なしの狀態です。

彫り始めに落としてしまったこと、
文字を彫る際に力を入れ過ぎたこと、
擊邊で削り過ぎたこと――
どれも「やり過ぎ」が重なった結果です。

力が入り過ぎていたのでしょう。
反省すべき點の多い一顆となりました。

それでも、
この「遠近」という言葉を彫った時間そのものは、
今の自分の感覺を、
素直に映しているようにも思います。

次へ。
また一顆、彫り進めていきます。

印影

 

 

 

 

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なんか遠いところが近未来・・・(;^ω^)