「鎌倉殿の13人」と、言う‥ 一昔前の N○K の大河ドラマで‥
源頼朝(大泉洋)は配下が捕まえたヒヨドリを入れた鳥籠を眺めながら〜
少し気持ちが沈んでいた鳥好きの妻(八重姫)へと鳥籠(ヒヨドリ)をプレゼントしようと思っていた。
しかし、である。 「鳴き声がとても美しいヒヨドリのハズなのだが、あんまり鳴かないんだよなぁ~」 と、義円(僧侶)と言う自分の義理の弟へそうこぼす(相談する。)のである。
鳥籠の中をジーッと見た義円は‥
「兄上、それはヒヨドリではありませんよ、良く似ていますがツグミと言って何時も口をつぐんでいる鳥でございます。」と、頼朝へと意味深々げそう言うのである。
小鳥好きとしては印象的なドラマのワンシーンである。
歴史(大河ドラマ)好きの間ではそのシーンの展開(展開)に際して何か深い意味が有る? とか、無い? とか、ひと頃は少し話題だった。
そして‥ 僕のような〜 野鳥の愛好家は! あれは日本にいるツグミでは無い。(TVへ写った籠の中の小鳥に対して‥)との憶測も飛んでいた。
まぁ〜 そう言う意味では‥ 日本とは本当に平和な国である。
実は野鳥撮影を始めて、僕もかなりの間(時間)ヒヨドリとツグミの区別がついていなかった。
素人目から見ると、ヒヨドリとツグミは大きさと色形は殆ど似たような小鳥なのである。
野鳥撮影を始めた当初僕は案外身の回りにいるヒヨドリばかりを一時期撮っていた。
雀やメジロやシジュウカラ等の大きさのスタンダードな小鳥よりも‥ ちょっと大きく、そして激しく鳴きながら飛び交う姿は、とても見つけやすい事も有って、気づけばカメラを良くヒヨドリへと向けていた。
そして撮った写真を後で見てとても可愛い小鳥だと思った。
ヒヨドリは、まぁ〜 普段は案外臆病な鳥なのだが‥
しかし、たまに、ジーッと自分が動かずに見ていると、人間に気づかなくて? とても近くへと不意にやって来る事がたまにある。
まぁ〜 それでも普通大体のヒヨドリは高い木の深い枝葉へと隠れている(停まる)こと事が多い。
隠れてはいても盛大に囀るので、居るなぁ~って事は良く解る。
そして体の色がお互いに濃い茶色(灰色と混じっている。)なので、例え望遠レンズを通して見ていても模様の判別まで僕の視力では出来ない。
後から撮った写真を見て〜 いつものヒヨドリとは何かちょっと違う(ヒヨドリ)けど、オス・メスの差とか? まぁ〜 良いか? そんな程度に何時も思っていた。
それがヒヨドリでは無く実はツグミだったのである。
そんな事で色々と後に調べてツグミの種類等も多少は知る事となる。
ツグミには「トラツグミ」とか「黒ツグミ」とか「ウタツグミ」とか「ヤドリギツグミ」とか案外色々な種類が有る。
僕の感覚で言うとツグミはヒヨドリと同じように1年中街のアチラコチラに何処へでもいるような気がしていたが?
ツグミは一般にどうもシベリア等の北方から渡って来る冬の渡り鳥のようである。
『迷鳥』と、言って‥
「ウタツグミ」は、本来日本には渡らない(来ない‥)種類のツグミである。
何か(渡る方向)?を間違えて少数が日本へと飛来し、国内(近似神奈川県内目撃情報有り。)でもごく稀に見られる事が有ると言う話しを以前聞いた事がある。
大河ドラマの「鎌倉殿の13人」に出たツグミの映像はこの「ウタツグミ」だと言う人がWeb上にいたのには少し驚きだった。(ドラマ当時 N◯K 制作スタッフがペットショップから適当にツグミを仕入れて来たのだろう!? ‥と、その人はそんな推測までしていた。)
小鳥に詳しい人とはヤッパいるものである。(羨ましい‥)
まぁ〜 真意のほども不明だが‥
そう言う話しはとても面白い。
ツグミはちょっと種類同士でもお互い似ているのでウタツグミが眼の前に例へ現れても僕には恐らくそれらの区別がつかないだろう。
でも、映像とは正直で‥
撮ったツグミをジーッと見て後からそれを Web で調べればその種類は判明する。
そんな事も含めて僕は直接見る(観察する)だけでは無く、こうして小鳥の写真を撮っているのかもしれ無い?(撮るキッカケになったの🦆しれない。)
さて‥ ちょっと話しは変わる。
良く自然保護を謳たって政治活動をする人達がいる。
「此処へ大規模な建築物や施設が出来(開発が行われる‥)ると野生の生態系は崩れて自然破壊へとつながる。」
見たいな〜 主張をして、開発を反対する人達(活動家の皆さんが‥)である。
私はそれをおかしく(変に!)思う。
人類は野生動物や植物を飼育栽培までして食べ‥
人間の生活環境圏に近づく動物を害虫や害獣・雑草と呼び、人間の生活に際して排除の必要性(⚠️危険性)もそんなには無い(薄い)動物を過剰に駆逐して来た。
交通や流通に全く関係が無い何の罪(責任)も無い野生動物の交通事故が頻繁に起こる。
今の現代社会の現実である。
そしてそれらは全て人間の勝手な都合なのである。
そんな社会で生きている人間総てが環境破壊と言う言葉を安易には使うべきでは無い。
そう言う気がどうしても僕はするのである。
確かに大規模開発が起きれば大きな自然破壊へつながる事は事実🦆しれない。
しかし、それを政治(個人の利益)の理由としては決してならないのである。
「此処の場所へ工作物(施設)を作られては困るなぁ〜 何か? うまい具合にそう出来ない理由を付けられないか?」と、部下や秘書へと命じ、無理矢理に理由を探してはそれらを正当化する。
全く呆れてしまう行為である。
それらは自然に対する冒涜で環境保護に対しての何の利益にも繋がらない最低な行為にしか他ならない。
もし、少しでも真剣に自然保護を人類に対して唱えるのであれば、人間の全ての行動の根本を先ずは反省し、そこ(原点)から行いを考え直すことでは無いかと私は強く思うのである。
上記のような事を唱える者が自分自身を振り返り反省し、このままではいけないと考えて自然保護を訴えているとはどうしても私は今思えないのである。
僕は天邪鬼な性格なので特にそう思うのかもしれない。
何故、こんな話しをツグミの話しへと挟む(絡める‥)かと言えば!!
鎌倉時代から〜 イヤ、それ以前から〜 も、日本の野生動物は様々に人との深いつなりを今まで持って暮らしてきた。
最近は北海道で民家(文明)の近くへとやって来るヒグマを行政が駆除する事に、地元の当事者(実際に熊が下りて来た地区の住人)からですら可哀想だとの苦情も多いと聞く。
野生動物との共存も含めて、それら可能性(野生動物との遭遇)のある地区の小学校でもそう言う場合の教育(子供達との話し合い。)がなされると言う事も聞く。
日本人もまんざらでは無い。
古代と現代では生活は明らかに違うと思うが?
野生動物達はその頃から殆ど何も変わってはいない。
そう、そんな風にドラマ(ツグミ)から私は感じたのである。
これからも人は色々と人以外の動物と関わって長く共存し生きて行かねばならない。
天気の良い日に表に出て、雀やヒヨドリの元気な鳴き声(囀り)を聞くと、私は元気が出てとても安心出来る。
「この世には人間だけ居れば、まぁ〜イイヤ!!」 とは、恐らく以降も誰もは思わないし‥
反対に、「例へ動物(生き物)が人の生活圏を荒らしても、動物は邪魔なので人間が嫌がる全ての動物を駆逐してしまえ!」 とも、普通の人は思わ無いと思う。