人類の罪を償うため、十字架で自らの命を犠牲にしたイエス・キリスト。
イエスの十字架処刑は、過越が始まる直前の金曜日の朝だったため、この金曜日は"Good Friday"(聖金曜日)と呼ばれます。
イエスが想像を絶する苦しみの末に息絶えたこの日がなぜ"Good"と呼ばれるかというと、このイエスの死によって、誰でもイエスを信じる人の罪は、過去のものも、現在のものの、そして未来のものも、全て許されることになったからです。
「キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(ヘブル人への手紙 9:11-12)
イエスは、十字架上で息を引き取る直前に、こう言いました。
「成し遂げられた」(ヨハネによる福音書 19:30)
つまり、罪への贖いは完了したということです。
さて、この十字架処刑の後、イエスの遺体は引き取られ、墓に葬られます。
金曜日の夕方のことです。
その後、3日の日曜日にはイエスの遺体は墓から消えていました。
死から復活したからです。
この死から復活までの間、イエスはある場所へ行っていました。
それは、「陰府」と呼ばれる、死者が行く場所です。
イエスが死を克服するまで、人間は死後、皆この陰府に送られていました。
この陰府は、2つのセクションに分かれています。
一つ目は、生前神を否定し、神に背く生き方をしていた人が行く苦しみの場所です。
もう一つ目は、「アブラハムの胸」と呼ばれる、神の祝福に溢れた場所で、生前神を信じ、神を畏れて生きた人がいる場所です。
この陰府について詳しく書かれているのが、ルカの福音書16章です。
イエスは、ある金持ちと貧しいラザロという男性について語っています。
神を畏れず、欲望の赴くまま暮らしていた金持ちは、死後苦しみの場所へ送られ、神を信じた貧しいラザロは、アブラハムのいる祝福の場所へ送られます。
ラザロとアブラハムを遥か彼方に見上げた金持ちは、こう懇願します。
「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」(ルカによる福音書 16:24)
しかし、金持ちとラザロの間には、行き来することができないほどの大きな淵があります。(ルカによる福音書 16:26)
イエスは、死後この陰府に来たとされています。
聖書では、以下のように書かれています。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」(ペトロの手紙一 3:18-20)
この時、イエスが具体的に何を宣教したのかは詳しく書かれていませんが、
苦しみのセクションに対しては、神の裁きがやがてやってくることが伝えられた
祝福のセクションは、イエスの死によって天の父のところに行く道ができたので、皆天国へと送られた
と言われています。
つまり、陰府の祝福のセクションは既に空っぽで、苦しみのセクションには人々が送られ続けているのです。
陰府は、永遠の行き先ではありません。
全てが終わるとき、陰府の苦しみのセクションにいる人は、ある場所に送られます。
「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録 20:13-15)
これが神の最後の裁きであり、地獄での永遠の苦しみの始まりです。
イエスを信じる人は、誰でも救われ、天国に直行です。
しかしイエスを拒む人は、生前どんなに良い行いをした人でも、苦しみの世界へ行くことになります。
その決断は、神が下すのではなく、一重に私たちの決断によるものです。
イエスを信じて救われるか、自分あるいは悪魔を信じて苦しむか。
永遠の命は、神からの贈り物です。
イエスが十字架上で成し遂げたことによって可能になったこの贈り物を、どうか受け取り、永遠の命を手にしてください。
アーメン
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