「地獄は、あと少しで天国行きだった人で溢れている」
そんな言葉を目にしました。
神であるイエスは、天国よりも地獄に関することを沢山話しました。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイによる福音書 10:28)
「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイによる福音書 13:41-42)
「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」(マルコによる福音書 9:43)
「地獄では、彼らを食ううじはいつまでも死なず、燃えさかる火は消えることがありません。」(マルコの福音書 9:48)
愛と憐れみで溢れた神ですが、地獄は神から永遠に切り離されるので、そこに神の愛や憐れみは存在しません。
苦しみは永遠です。永遠とは、終わりがないということです。
そんな恐ろしい地獄は、「悪い人が行く場所」というイメージが定着しています。
もちろん、この世の悪の元凶である悪魔やその手下たちは地獄へ行きますが、人間に関して言えば少し違います。
天国に行ける人は、
自分が神の前に罪人であると認め、
イエス・キリストがその罪を償うために十字架で命を犠牲にしたこと、
イエス・キリストがその死から復活したこと、
そしてイエス・キリストが神であること
を信じる人です。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマの信徒への手紙 10:9)
聖書にはそう書かれています。
ということは、地獄に行く人とは、以上のことを生前行わなかった人です。
どんな悪人であろうと、その罪を悔い改め、イエスを信じる人は天国に行くことができます。
逆にどんなに善人でも、罪を悔い改めず、イエスを信じない人は地獄へ行きます。
漠然と神を信じながら、その神を認識しようとせず、代わりに偶像を拝んだり、イエスを拒否したり、神が罪とすることを行い続ける人は、天国へ行くことができないのです。
私自身がそうでしたが、イエスのことや聖書のこと、そして天国や地獄のことを耳にしても、
「宗教には興味ないから」
「宗教なんて争いを起こすだけ」
「みんな信じたいものをそれぞれが信じればいい」
などと様々な理由を並べて、真剣に捉えない人が沢山います。
それが、天国へ行く最後のチャンスかもしれないにも関わらず、です。
イエスはこう言っています。
「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:19-20)
イエスは、今もあなたの心の戸をノックしています。
それを拒み続けたまま命を落とせば、待っているのは地獄です。
「その内いつか」
地獄には、そう考えて自分の好きなように行き、神の呼びかけを無視し続けたまま命を落とした人が沢山います。
イエスはこう説いています。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(
マタイによる福音書 7:13-14)
多くの人は、死んだら自動的に天国へ行けると思っています。
しかし、その考えこそが本当の天国への道の妨げになっているのです。
忍耐強い神ですが、私たちのこの世の命はやがて尽きていきます。
その時、イエスを信じなかった人に対する神の憐れみも同時に尽きます。
悪魔は常に地獄へ道連れにする人を狙っています。
「あと少しで天国へ行けたのに」という永遠に終わらない後悔をする前に、今すぐイエス・キリストを神として受け入れ、永遠の命を与えられてください。
アーメン
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