”ベトジャン” 解説編 | DSA167のブログ

DSA167のブログ

昔好きだった服の事、バイクの事を思い出しながら・・・
熱い思いを笑いで綴ります。

 

みなさん こんばんは。

 

DSA167です。

 

今回は前回(スカジャン)からの流れで ”ベトジャン” について

 

詳しくお話しします。

 

 

 

前回のやっつけ記事から一転し、今回は本気で語りますので

 

体調すぐれない方は「初級編」で閲覧を中止する事をお勧めします。

 

マジです(笑)  ワロてますが・・

 

では参ります。

 

 

 

 

-初級編 -

 

ベトジャンとは、ベトナム戦争中(1960初頭~1975)に現地の商人に

 

よって作られたアメリカ兵向けの土産用ジャケットの事である。

 

それは黒のツイル地やアメリカ軍のポンチョライナーなどを利用した簡易な作りで、背中には地図・地名・年号と詩、胸には虎と福の字、袖には龍を、その多くは手刺繍によりヘタウマに施されている。

 

ベトジャンはスカジャンの一種と捉える事も出来るが、スカジャンは土産物として艶やかに、そして現地特有の物が刺繍されている事が多いのに対して、ベトジャンはあからさまに「戦争」を皮肉り、又、兵士の想いを代弁したメッセージが施されたものが多く、そこが大きな違いで、又、魅力でもある。

 

 

 

ここにその代表的な一文を紹介しよう。

 

 When  l  die  l'll  go  to  heaven .

Because  l  spent  my  time  in  hell.


もし俺が死ねばきっと天国へ行くだろうよ

なぜなら  俺は人生を地獄で費やしちまったのだから・・

 

 

誰も望まぬ地獄の戦場に放り込まれ、

 

1年間生き永らえた若者の想いを見事に表現した

 

誇り高きジョーク。

 

そんな詩。

 

 

ベトナム戦争に従軍した兵士の平均年齢は”22才”

戦死者の数 5万8千人

その多くは徴兵で、将来ある若者だった。

 

 

 

 

最初は  "カッコいい" "カワイイ" で着れば良い。

 

そのうち言われなくても感じてくるんだよ。

 

彼らの喜怒哀楽 全てが詰まった様な叫びを・・

 

 

 

 

それが VIETNAM SOUVENIR JACKET

 

ベトジャンだ!

 

 

昼は戦士

FIGHTERS BY DAY


   夜は恋人

    LOVERS BY NIGHT


      時には飲んだくれ

        DRUNKARDS BY CHOICE


 さあ 戦うぜ!

 READY TO FIGHT !

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

-中級編 -

 

従軍期間(通常1年、これをツアーと呼んだ)を無事終え、本国へ帰る時、兵士達はそこで戦い、生き抜いた証として土産物を買い求めた。

当初、現地の兵士達に”PLEIKU JACKET”と呼ばれたこの土産物は、商売気質旺盛なベトナム商人によりスカジャンをヒントに生み出された。(要はこれもスカジャンの様なものだが、スカジャン

というのは原則日本製と捉え区別すべき?)

PLEIKUというのは中部高原地にある町の地名で、ここには米軍の「CAMP・HOLLOWAY」というベトナム戦争を象徴する様な大きなヘリコプター基地があり、両軍にとって重要な拠点でもあった。

 

※1965.2/7にベトコンによる攻撃があり、これがきっかけで米軍の北爆が始まるなど歴史的にも有名で、80年代にソビエト連邦の支援で復興を遂げたが現在でも外国人の立ち入りに許可のいる地域が存在する。

 

恐らくここで最初にベトジャンが売られたので、当時そう呼ばれていたのだろう。

最初の頃はパラシュートの生地や寝袋をジャケットに仕立て直して作られていたが、そのうちに上で述べた様に黒ツイル地やポンチョライナーのカモフラージュ生地に地図・地名・年号等を手刺繍した物がポピュラーになっていった。

 

 

 

 

刺繍の意味について、右胸の「虎の顔」は吉祥の印で、左胸の「福」の字は福禄寿の頭文字からきているという。

 

機械ミシンによる刺繍ものに多く見られる「竜の頭」?
ウシがよだれを垂らしている様にしか見えないが・・

 

 

 

 

 

 

いづれも中国の縁起に起因しているものが多いが、「福」の代わりに「HAPPINESS」と英語で訳されたものも多い。

その他、「アメリカと南ベトナムの国旗のクロス」や個人の名前が刺繍された物も多く見受けられる。

 

 

 

ベトジャンの魅力の一つに、このヘタウマな手刺繍が挙げられると思うが、当時、機械ミシンで刺繍された物も人気が高かったと言う。

 

なぜか機械ミシン(チェーンステッチ)物の殆どがポンチョライナー製。

 

 

ライナーにはアオザイ(民族服)の生地が使われている事が多い。

 

 

 

両腕に刺繍されている「龍」。これが定番。

しかし手刺繍ゆえに個体差が激しく、これでも質の高い方で、

雑なものは「エビ」にしか見えなかったりする。

黄色が基調となっているものが多いが、緑・白・赤・青もある。

 

 

 

この個体の右腕には龍の代わりに国名が刺繍されている。

きっと買った兵士が事前にオーダーしたのであろう。

したがってこれは土産物の「プレイクジャケット」である一方

自分の経歴を記した「ツアージャケット」とも言う事が出来る。

※地図の色については北ベトナム:赤、南ベトナム:黄、ラオス:青

  カンボジア:緑という大変カラフルな配色が通常である。

  しかしこの個体はラオス/白、カンボジア/ピンクとなり、全体が白と

   暖色系の色で纏まっており非常にクールな印象に仕上がっている。

  これも購入者のオーダーであったのではないかと推察される。

 

以上の様に、ベトジャンには露店で売られていた多くのパターンの他

兵士が独自にオーダーした物が加わり、その種類の多さはスカジャン

と同じく、造り・素材・刺繍の柄等すべてにおいて無限で、ここで全てを

紹介する事は出来ない。

しかし代わりに、私の感覚で恐縮であるが数的な事項にしぼってその

構成比を紹介したい。

 

 

(色)

黒   65% (黒コットンツイル63%、ナイロン・別珍他2%

カモ  25% (ポンチョライナー24%、タイガーストライプ他1%

青    3%

白    2%

赤    1%

緑   0.5%

ピンク   0.5% (子供用で稀に見られる)

その他  3% (軍物直接刺繍や※民族生地 他)

 

※モンタニャール(デガ)民族の伝統生地で作られたものは特に

  希少価値が高い。

 

 

 

(造り)

腰丈、センターZIPジャケット 90%

ロング丈センターZIPジャケット  5%

その他(シャツ型、ハーフZIP、4つポケ 他) 5%

 

 

 

ライナーにパラシュート生地が使われた4つポケジャケット

 

 

少しやっつけ仕事的な刺繍。

人の手仕事によるものなので当然全て違いがある。

 

 

右端の兵士がポンチョライナーで作られた4つポケのジャケットを着用している。

実戦で使った物に後から記念に刺繍を入れてもらう事もあった様だ。

 

 

ローカルメイドのポンチョライナージャケットを羽織るジョン・ケリー(前国務長官)

彼はベトナム従軍中、数々の戦闘で勲章を授与されるも帰国後

反戦運動に転じる。(下写真は反戦運動中の1コマ)

2016.4/11 アメリカ現職閣僚として初めて広島平和記念公園を訪問。

資料館では「はらわらをえぐられる様な思い」と率直に語り、原爆

ドームの視察も急遽行うなどし、後のオバマ大統領の広島訪問に

繋がっていった事は記憶に新しい。

 

 

(フロントジッパー)

メーカーはYKKが圧倒的に多いがVKKやKKVなどいわゆる

ベトナム製?のパチモンも良く使用されており、その形・材質は

様々である。

尚、TALONやCONMARなどのアメリカ製が付いているのも時折

見かけるが、その殆どはアメリカ本国へ持ち帰られた後に修理

交換されたものである。但し、中にはオリジナルの場合もある。

 

ブラスのYKKジッパー。アルミやステンの物も良く見かける。

 

 

存在感のある回転式(リバーシブル対応型)のYKKジッパー。

なぜかポンチョライナー製のジャケットにはこのジッパーが付く事が多い。

リバーシブルでは無いのにである(笑)

 

 

(背中のメイン刺繍)

地図      90%

スコードロン  5%

その他      5%(キャラクター、スカル、パラシュート章 他)

※スカルはスカジャン同様、ベトジャンラバー垂涎の的。

 

 

(背中の地名)                     (駐留していた主な米軍組織)

SAIGON (サイゴン)    10% 南ベトナム首都/MACV、在ベトナム米陸軍

QUI  NHON (クイニョン)   8% 

PLEIKU (プレイク)      6% 第4歩兵師団

BIEN  HOA (ビエンホア)   6% 

DA  NANG (ダナン)  6% 第3海兵師団、第1海兵師団、第3水陸両用軍

AN  KHE (アンケ)       5%  第1騎兵師団

LONG  BINH (ロンビン)  5%

PHU  LOI (プーロイ)      4% 

TAY NINH(タイニン)    4%

CU CHI (クチ)             4% 第25歩兵師団

NHA  TRANG (ニャチャン/米読:ナトラン)  4% Special forces,第1野戦軍

CAM  RANH (カムラン)   4% カムラン湾には米空・海軍基地があり拠点であった。

BONG SON(ボンソン)   3%

DON  GHA(ドンハ)       3%

PHU  CAT(プーキャット)    2%

CAN  THO(カントゥ)        2%

TUY  HOA(トゥイホア)      1%

BAN ME  THUOT(バンメトート) 1%

THAILAND(タイ国)  2% UBON(ウボン)とKORAT(コラート)に米空軍基地

その他  20%   その他の地名、VIETNAMのみ、地名・国名無し等

 

 

 

(背中の年号)  駐留米軍

63-64   1%     16,263人(63.11

64-65   2%     23,300人(64末

65-66   5%   184,300人

66-67  15%  380,000人

67-68  18%  480,000人

68-69  18%  541,500人

69-70  18%  470,000

70-71  10%  330,000

71-72   5%

72-73   1%

単年表記 2% (例  1967 )

2年表記 1% (例 68・69・70 )

なし    4%

 

単年表記の例



以下、時代背景参考


1954.5/7

ディエン・ビエン・フー陥落

ベトミン(北ベ)がフランスに勝利。

アメリカはインドシナの共産化を恐れる。

「一国が共産化するとそれはドミノの様に隣接国にも及ぶ」といういわゆる「ドミノ理論」がアメリカ外交の主軸へ。

          

1954.7/7

ゴ・ジン・ジェム政権樹立→10/26ベトナム共和国樹立(通称南ベトナム)

ジュネーブ協定締結直前にアメリカ(CIA)の支援の下で誕生。 

協定の内容を有利に進めようとあの手この手で画策するアメリカの思惑と行動力が怖いです。

     

1954.7/21

ジュネーブ協定締結(インドシナ休戦協定)

フランス・北ベ・南ベ・カンボジア・ラオスの当事者5か国と

アメリカ・イギリス・ソ連・中国の9か国が参加。

しかし最終的にアメリカ・南ベは調印せず。

(協定内容) 

・ベトナム、カンボジア、ラオスの独立 

・軍事境界線設置(ベトナムを北緯17度線で南と北に分断)

・北ベの南ベからの撤退、フランス軍の北ベ・カンボジア・ラオスからの撤退

・56.7までに南北統一自由総選挙を実施。

この時、北ベは南ベの大部分を制圧していた為、境界線設定内容に難色を示したが、ソ連・中国の説得で最終日に応じた。

また、その背景には、あまりダダをこねてアメリカに本格的に軍事介入をされては困るという懸念もあった為。

しかし結果的にはアメリカの傀儡政権である南ベは統一選挙を拒否し、北ベ・ホーチミンは激怒し本格的なベトナム戦争へと発展する事となる。

大国間の利害関係を局地問題の犠牲の上で解決するという戦後処理の図式はドイツ、朝鮮と並んでベトナムにも適用された。

      

1960.12/20

NFL結成(南ベトナム解放民族戦線。いわゆるベトコン)      

南ベとアメリカ打倒を掲げゲリラ・テロ活動による宣戦布告。

ソ連・中国・北朝鮮より資金・武器・技術の援助を受ける。

 

1960

685人

 

1961.1/20  ケネディ大統領 就任

 

1961.4/17-19  ピッグス湾事件
CIAが絵を描いた、キューバ・カストロ政権転覆を狙った在米亡命キューバ人部隊を使った軍事作戦。
大失敗に終わりケネディ大統領が自分の責任を認めるが同時にCIAダレス長官の更迭及びCIA解体を宣言。

 

1961.5/1

キューバ・カストロの「社会主義革命」宣言。
これでキューバは完全に社会主義(東側)に。
アメリカあせる。

     

1961.5

ケネディ、ベトナムに軍事顧問団として特殊部隊600人の派遣決定。

 

1961.9/25
ケネディ大統領が議会で「冷戦下では秘密戦争が主で特殊部隊が必要である」と発言。これにより5th SFGがフォート・ブラッグで「特殊部隊」として正式に制定。

 

1961.10/12 フォート・ブラッグにてケネディ大統領と

会うヤーボロー准将(左)/(ウィキペディアより)

 

1961年末

(米陸軍)特殊部隊訓練グループ 創設

  

1961年末    3,164人

 

ベトナミゼーション(戦争のベトナム化) これは《ベトナム戦争をベトナム国内の問題として、できるだけ米国の介入を避けるため、現地人の手に委ねよう》という試みである。

 

 

1962.2   南ベトナム軍事援助司令部(通称MACV)発足

 

1962.2   「戦略村」政策→失敗

 

1962.10/16-10/28  キューバ危機

 

1963.6/11

僧侶ティック・クアン・ドックがサイゴン・アメリカ大使館前でジェム政権に対する

抗議の為、ガソリンをかぶって焼身自殺。

ジェムの弟で秘密警察長官のゴ・ディン・ヌーの妻、マダム・ヌーはアメリカのテレビインタビューに「あんなのは単なる人間バーベキューよ」と発言し世界中の顰蹙を買う。

又、ケネディー大統領もこの発言に激怒したと言う。

 

1963.10/31

ケネディーは「南ベから軍事顧問1,000人引揚げ」を示唆。

これは言う事を聞かなくなってきた南ベ・ジェム政権に対するブラフであり軍事介入拡大政策に変わりは無かったとキッシンジャーが証言している。

一方でケネディは統合参謀本部(アメリカ軍最高機関)よりアメリカ正規軍の援助が必要との提言を受けていたにも関わらず、特殊部隊の限定的な援助、若しくは非正規な支援に拘っていた様子も伺え、真相ははっきりしない様に思える。

      

63.11/2 南ベ クーデターによりジェム大統領殺害。

      ズオン・バン・ミン軍事政権成立。    

 

63.11/22 ケネディー大統領 暗殺

 

以下、参考画像