こんにちは。
神経科学者のDr.Yoshiです。
今日は少しだけ、
個人的なお話を書こうと思います。
9月21日。
2回目となる
ホ・オポノポノ瞑想会を開催しました。
そして、その日のあと。
日本時間の22日、
父が亡くなりました。
急遽、日本へ帰国し、
27日に父を棺に納め、
28日に家族葬を終えました。
父の顔を見ながら、
いろいろなことを考えました。
その中で、
とてもシンプルなことを
あらためて感じました。
それは、
命とは、「時間」なんだ
ということです。
私たちはよく、
「命を大切にしよう」
と言います。
もちろん、その通りです。
でも、
「命」
という言葉は、
少し大きすぎて、
どこか抽象的にも感じます。
けれど、
命=自分に与えられている時間
と考えてみると、
少し見え方が変わります。
今、
あなたがこの文章を読んでいる間にも、
あなたの時間は流れています。
私の時間も流れています。
1分。
10分。
1時間。
1日。
気づかないうちに、
少しずつ、
人生という時間を使っています。
もちろん、
誰にも、
自分にあとどれくらいの時間があるのかは
分かりません。
何十年あるかもしれない。
もっと短いかもしれない。
でも、
だからといって、
焦って生きなければいけない、
ということではないと思っています。
むしろ、
時々立ち止まって、
自分に問いかける。
「私は、この時間を何に使いたいんだろう?」
そんな時間があってもいい。
今回、
父を見送りながら、
もう一つ考えたことがあります。
人は、
人生の最後に、
何を持っていけるのだろう。
肩書き。
仕事。
お金。
家。
実績。
もちろん、
どれも人生を豊かにしてくれる
大切なものです。
でも、
旅立つときには、
すべてここに置いていきます。
もし、
人生最後の旅立ちに、
一つだけ持って還れるものがあるとしたら。
私は、
それは
「思い出」
なのかもしれないと思いました。
誰かと笑ったこと。
家族と過ごした時間。
友人と話したこと。
旅をしたこと。
好きなことに夢中になったこと。
誰かを愛したこと。
誰かに愛されたこと。
そんな、
一見すると何でもないような
時間の積み重ねが、
最後には、
「自分の人生だった」
というものになっていくのかもしれません。
静かな家族葬の中で、
父を見送りながら、
ふと、
こんなことを思いました。
「父は、自分の人生をどう感じていたんだろう」
幸せだったのかな。
やりたかったことはできたのかな。
後悔はあったのかな。
もちろん、
今となっては、
父にその答えを聞くことはできません。
でも、
その問いは、
不思議なくらいそのまま、
私自身に返ってきました。
私は、
なぜ生きているんだろう。
この人生で、
何を大切にしたいんだろう。
そして、
いつか人生を振り返ったとき、
「私は、私の人生を生きた」
と、
自分に言えるだろうか。
これには、
正解はないと思います。
そして、
今すぐ答えを出す必要もありません。
ただ、
今日、
ほんの少しだけ時間があったら、
自分にこんな問いを投げかけてみてください。
「今の私は、本心ど真ん中を生きているだろうか?」
誰かが決めた正解。
世間から期待されている自分。
「こうしなければならない」
「こうあるべき」
そんなものではなくて。
自分の心の、
一番真ん中。
そこから、
今の人生を生きているだろうか。
もし、
「まだそうではないかもしれない」
と思ったとしても、
私はそれでいいと思います。
なぜなら、
気づくということは、
人生の舵を切り直せる場所に
戻ってきたということだからです。
人生は、
一度方向を決めたら
ずっとそのまま進まなければならない船ではありません。
少し違うと思ったら、
舵を切り直していい。
立ち止まってもいい。
進む方向を変えてもいい。
父を見送った今、
私自身も、
あらためて自分に問いかけています。
この命という時間を、私は何に使いたいのか。
そして、
最後にどんな思い出を持って、
この人生を終えたいのか。
答えは、
まだ一つではありません。
きっと、
これからも変わっていくと思います。
でも、
だからこそ、
今日を少しだけ丁寧に生きてみよう。
今は、
そんなふうに思っています。
あなたは、
この命という時間を、
何に使いたいですか?
Dr.Yoshi