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Drunk on Speech

このサイトは慶應義塾大学英語会Chief of Speechだった作者が、今まで学んできたこと・感じてきたことを公開しているものです。

大学生向けのエッセイを次々と公開していく予定です。どうかみなさんのSpeech作りの参考にしていただければと思います。

Drunk on Speech

来年度のSpeechチームを立ち上げるにあたって、優勝できない人にはどのような特徴があるのかという経験則を示したいと思う。


当然例外はあるが、私の経験上、今から挙げる悪しき特徴と優勝を取りこぼす確率の相関関係はかなり強い。


どれかに当てはまる人や、そういう人物が次期チーフに就任予定のESSは要注意である。


1.しょぼいSpeakerを尊敬していたり、目標としている


これは本当に最悪のケースだ。


目標とするSpeakerがしょぼいのだから、自分の成績もしょぼくなるのは当然だ。


こういう人物はしょぼいSpeakerの間違ったSpeech観に共鳴してしまうので、自分もどんどんしょぼくなっていく。


それだけならともかく、自分のESSの仲間もしょぼく染めてしまう。


しょぼいSpeakerは伝染するのだ。


それでは、しょぼいSpeakerとは何だろう?


敢えて客観的に言ってしまえば、福澤杯か大隈杯で優勝していないSpeakerは「目標とするには」しょぼいと考えてよいだろう。


目標とするくらい凄い人であれば、どちらかの大会で何らかのハプニングが起きたとしても、片方の大会では優勝しているはずだからだ。


なお、福澤杯・大隈杯で2位とか3位だったことを自慢している奴は要注意だ。


優勝と2位の間には決して簡単には越えられない深くて広い谷がある。



ちなみに、Open大会のジャッジの経歴に2位とか3位とか記載している奴ははっきりいって超しょぼい。


優勝してこそジャッジとしての資格があるのではないか。恥ずかしい。


優勝経験がないなら、今まで培ってきた経歴で審査能力をアピールすればよい。


しおらしく2位とか3位とか書く必要があるのか?


それでは、福澤杯や大隈杯以外の大会の優勝者は目標の対象となるのだろうか?


答えはNoだ。


Speakerのレベルを、


トロフィー係数×大会の難易度


として見てみよう。


トロフィー係数は、優勝=10、2位=3、3位=1


大会の難易度は、福澤と大隈=10、JUELと天野=5、それ以外全部=1


他の大会で優勝しても、福澤や大隈では入賞すらできない人が数多くいることを考えると、係数の数値はこんなもんなのだ。


つまり、福澤か大隈の優勝者=10×10=100に比べれば、その他は目標とはなりえないのだ。


僕が50waysで最初に書いたエッセイを思い出してほしい。

http://ameblo.jp/drunkonspeech/entry-10081806175.html


目指すべきは圧倒的な優勝だ。


そこを目指すのだから、最低限、福澤か大隈で優勝している人を目標にしなくては話にならない。


本当にあなたが目指すべきSpeakerであれば、必ず福澤か大隈くらいは優勝しているはずだ。


本当に凄い人間であれば福澤や大隈ごときで優勝できないはずはない。


しかも、福澤か大隈で優勝しているというのはあくまで必要条件で十分条件ではない。


自分が知っている福澤や大隈の優勝者がしょぼかったら、オバマやケネディーを目指せば良い。


自分が目標とするものがしょぼいと自分の成績もしょぼくなる。


しょぼい人間がどんなに偉そうなことを言っても常に懐疑的に接し、自分がしょぼくならないためにはどうしたらよいか考えなくてはならない。


そのような態度をもって初めて、圧倒的な優勝を目指せるようになるのではないか。



Drunk on Speech


12月も終わりが近づくと次年度に向けた役職選定やチーム構築が行われる。


その際に次期チーフとなるべき新3年生が気をつけなくてはならないことがある。


それは、


大会で優勝できなかった敗者である現3年生の言い訳・自己満足の弁を全て無視する


ということだ。


つまり、優勝できなかったにもかかわらず、


自分は皆と頑張ることができて満足しているとか、


言いたいことを聴衆に伝えられて良かったとか、


そういう自己満足や言い訳はまったくお手本にしてはならないのだ。


本当に真剣にSpeechに取り組んでいた人であれば、


満足する結果を残せなかったから、3年生で引退するのはやめて、4年生でも大会に出て優勝を目指すと気持ちを切り替えているはずだ。


こうした心構えは、今まで全く活動をしていなかったESSは、今回が第一歩であるため当てはまらない。


しかし、ここ数年、過去の絶頂期に比べて成績を落としているESSのメンバーは常に肝に銘じなくてはならない。


こういうことを書くとまた、「ナカオはひどい奴だ」という文句が出るだろう。


ただ、僕だって敢えて嫌われたくてこういうことを書いているわけではない。


敢えてこういうことを書くのは、


敗者である先輩を、「立派だ」とか「手本とすべきだ」と次期チーフが思った時点で、そのESSの来年の成績は終わった


と考えて良いからだ。


先輩はどうやら努力をしていたらしい。忙しいときに自分たちの面倒も見てくれた。


ただ、努力のベクトルを間違えたのか、優勝カップをもぎ取る戦略にミスがあったのか、とにかく何らかの原因で優勝はできなかった。


あんなに頑張っていたのに優勝できなかった。


何かがおかしかったのだ。


自分はああはなりたくない。


後輩にもあんなふうにはなってもらいたくない。


ああいう風にならないためには来年どうしたらよいだろう。


自分は何を変えなくてはならないのだろうか。


こう思わなくてはいけない。


そして、


自分は絶対に先輩のように自己満足の弁を述べて壇上から降りることは無いと決心すべきだ。


残酷なようだが長年ESSの浮き沈みを見ているとこれは事実なのだ。


次回以降数回に分けてこの点をもっと詳しく書いていくことにしよう。

Drunk on Speech



世界経済は大きく動いている。


そして、崩壊してしまうかもしれない。


まさに大激動の時代だ。


そんな中で、Speech大会に寄せられる期待は、


「近い将来、グローバルな舞台で世界各国の優秀な人物達と、


対等に渡り合い、協力しながら、あらゆる難局を乗り越えていく提言を行う、


そういう潜在的能力を持つ人物を優勝者として選出する」


ということではないだろうか。


そこで、今年のとある2つの大会の本選審査員とクエスチョナーの職業を比較してみよう。


【某A大会】

・某英語教育団体の元教師

・某大学の英語講師

・某大学の英会話教授

・某英語教育団体の教師

・某グローバル規模の製造業のビジネスマン


【某B大会】

・某国在日大使館副領事

・某国際協力団体日本所長(元某国日本大使)

・某世界的ニュースネットワーク上級特派員

・某国在日大使

・某大学教授(通訳学)、国際会議通訳者

・某欧州系資産運用会社のビジネスマン


職業に貴賎は無く、各々の方々が素晴らしい職務に就かれていることを否定するつもりは毛頭ない。


ただ、世界経済は難局にある。


ジャッジの使命は、近い将来グローバルな舞台で世界の優秀な人物と対等に渡り合えるような学生を優勝者として選出するということ。


そういうことを考えたとき、


どちらの大会のジャッジの方が、それにふさわしい審査を行う可能性が高いか考えてみよう。


片方の大会の審査員とクエスチョナーの大半は、


世界経済の荒波とは無縁の、あまりに浮世離れした世界に住む人たちではなかろうか?


さらに付言すると、


彼らはもう十年以上も相も変わらず色々な大会でお見かけする方々だ・・・。



大会の歴史と格を言えば、片方の大会はそれこそ日本最高峰と謳われる。


もう片方の大会は、歴史はまだ浅いが新進気鋭の大会との位置付けだ。


ESS的村社会では片方の大会の優勝者の方が格が上ということになるかもしれない。


ただ、歴史と伝統はそんなに大事なことか?


自分が学生だったら、どちらの大会の審査員とクエスチョナーにSpeechを見てもらいたいかは明白だ。



そしてもう一つ重要なことは、


本気になればここまで凄い人たちを審査員やクエスチョナーとして招聘できるということだ。


審査と教育の分離が叫ばれたときに、


「審査と教育の分離に反対する人を排除すると優秀なジャッジが集められない」


と嘆いて、確信犯的に審査と教育の分離に反対していた学生達のアホ面が目に浮かぶ。


そういう人達は、


上で書いたようなメンバーを招聘することに成功した人たちには一生追いつくことができないだろう。


激動の時代には、大会の歴史と伝統など風前の灯となる。


その代わりに、優れたコンセプトを持ち、優勝者を審査するにはどのような選定プロセスが必要なのかを真に考えて実現することが重要だ。


そういう常に新進気鋭の革新的行動力を持った大会の方が、最終的には名声を勝ち得ていくのではないかと思う。



Drunk on Speech



僕はこのエッセイ でも述べているように、審査と教育の分離を徹底している大会以外ではジャッジの依頼を全て断っている。


正当な出場者の正当な努力を踏みにじるような連中と同じ空気を吸いたくないのだ。


そして、そんな連中を呼ぶ大会には一切助力はしたくない。


今年も某大会からジャッジの依頼を受けた。


当然僕は聞いた、「審査と教育の分離をどうするつもりか」と。


その担当者曰く、


「公平な審査が大会運営において一番大事』なことというのはわかります。私たちは、公平な審査を確保するために色々な話し合いをしています」


僕は聞いた。


「審査と教育の分離に反対している人たちが誰かは知っているよね。彼らをジャッジかクエスチョナーで呼ぶ予定はあるの?」


「まだ未定ですので後でまた追って連絡します」


当然の事ながら追って連絡は来なかった。そこでこちらから連絡を取ってみた。


「反対派を呼ぶ予定はあるのかな?それなら僕はジャッジの依頼は断るけど」


「可能性はあります。ですがナカオ様にもジャッジを引き受けていただきたく思います。」


「なんで審査と教育の分離に反対している人を呼ぶの?」


「彼らはきっと公平な審査をしてくれると信じていますから」


「それが信じられると断言できないから世の中の競技は、審査員と選手の大会前の私的な接触を禁じているんじゃないかな。mixiでの議論を見てみなよ」


「それはそうだと思います。


でも、彼らが事前に現役生に行う教育には一定の効果もありますから」


(・・・そんなものは無いと思うが、仮にあったとしても不公平を誘発する効果は無い方がましでは・・・)


「この間あなたは、公平な審査を確保することが大会の運営上、『一番大事』なことと言ったよね。それは当然で、他の世の中の競技を見てもみんなそうだ。


でも『一番大事』と言っているのに、『副次的なものに過ぎない』教育効果があるという理由で、公平な審査の確保をあきらめるのは何故なんだろう。


小学生でもわかる簡単な日本語だけど、『一番大事』の『一番』の意味を理解しているのかな?世の中、比較検討した上でよりよい意思決定をすることが大事なんだよ。


「ですから色々と話し合っています」


(・・・おいおい、答えになってねぇよ!・・・)



「色々と何を話し合っているのかな」


「公平な審査をするための対策です」


「いや、馬鹿じゃないんだからそれくらいわかるよ。公平な審査をするためにどのような対策を練っているのかって聞いているだけ」


「色々考えて大会運営にも生かしています」


「色々じゃよくわからないな。


それじゃあ『話し合う前』と『話し合う後』で、公平な審査を行うために何が必要かがどう変わったの?


それがないなら話し合いをしていることに満足しているだけで、実は何も結果を生み出せてないから、時間の無駄なんだよ」


「後日お知らせします」



・・・・

あぁ、疲れる。


結局こいつらは何も考えていないのだ。


正当に努力してSpeechを発表した人が、裏でこそこそと審査員やクエスチョナーとつるんでいる奴らに負けて、悔し涙を流してもそれは構わないと思っているのだ。


社会常識に照らし合わせれば、審査と教育の分離が必要なことは当然だ。


そして、それを覆す理屈は構築できない。


審査と教育を分離すること無しに公平な審査を行うことなど不可能だということは、彼らもわかっているはずだ。


それでは、なぜ審査と教育の分離を徹底しないのだろう。


それは、彼らが他に公明正大で有能なジャッジを探すのが面倒くさいからだ。


そして、きっと自分達も、現在進行形だか過去だか知らないが、審査と教育の分離に抵触するようなことを行っているからなのだろう。


そうじゃなきゃ、何でこんな当たり前のことを実行できないのか理解できない。


こいつらのお陰で、自分の力で一生懸命頑張った出場者が不利に扱われるのだ。


脳みその弱い人間に限って、「長時間話し合ったこと」に満足して終わってしまう。


長時間話し合って何も具体策が出てこないのなら、


長い時間をつぶしたことの損害のほうが多いことに気づかない。


でも、長時間話し合ったのだから、自分達はやるべきことをやったと本気で信じている。


本気で信じているから質が悪い。


何も実効性のある対策は打ち出せずに、不公平な審査が行われる可能性があるのに・・・。


Speech界の未来はものすごく暗い。

dai


Drunk on Speech


昨年、勇気あるKUELの諸君が審査と教育の徹底分離を訴え、数々の改革を行った。


最終的には抵抗勢力の牛歩戦術によって完成形にまでは至らなかったが、ギリギリのラインで分離を何とか図ることができるプロセスに至ったと思う。


審査員と出場者が審査以前の私的な場で事前に接触してはならないというのは、他の世の中の競技のを多くを見れば明らかだ。


mixiでも様々な議論が行われたが、反対勢力の主張は、


「Speech大会なんて趣味の草野球と同じだから、審査の透明性は担保されなくても仕方がない」


という、学生時代にSpeechに真剣に取り組んでいた私からすると、大変腹立たしい意見に終始した。


みんな、「Speech大会=草野球程度」という認識なのか?


そこまでプライドがないのか?


審査と教育の分離に反対しているのは誰かということは、以下のmixiのコミュニティのやり取りを見ればわかる。


http://mixi.jp/view_community.pl?id=521437


そして今年KUELが主催したEAST JAPAN 2008の審査員リストを見てみよう。


http://eastjapan08.web.fc2.com/


これを比較すると明らかだが、2008年KUELは審査と教育の分離を闇に葬ったということだろう。


つまり、EAST JAPANは草野球程度の行事ということだ。


これが私が今年全ての大会のジャッジ依頼を辞退した理由だ。


審査と教育の分離について反対意見が在るなら現役生の前で公開討論をやろうじゃないか。


反対派のような感情論ではなく、


全てロジカルに、完膚なきまでに叩きのめす自信がある。