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Drunk on Speech

このサイトは慶應義塾大学英語会Chief of Speechだった作者が、今まで学んできたこと・感じてきたことを公開しているものです。

大学生向けのエッセイを次々と公開していく予定です。どうかみなさんのSpeech作りの参考にしていただければと思います。




前項で「Judgeの寡占化を防ぐために」という話をしましたが、Judgeの寡占化が招く潜在的な危険性は他にも色々とあります。先日、Speech界の大先輩と、つい最近まで大会の運営の中枢に関わっていた若手社会人と、それぞれ別の機会に色々と話をしたのですが、両者ともJudgeの寡占化が引き起こす最大の問題点は、「情による審査のぶれ」と評していました。これは私が普段から思っていたことでもあり、他の人の関心事も同じだったのだなと改めて思いました。

Judgeも人間ですので、長く一人のSpeakerと関わってくると多かれ少なかれ情が入ります。特に、頑張っているのに成績が上がらなくて苦労しているSpeakerを見れば、何とかしてやりたいと思うのが人情でしょう。

例えば、そのSpeakerが自分が現役時代に苦労していたのと同じ原因で悩んでいたり、下級生や同級生が破竹の勢いで勝ち進んでいるのにその人だけの成績が伸び悩んでいたりするのを目の当たりにすると、ついついそちらに情が移ってしまうこともあるでしょう。また、自分が前の大会でコメントした事をしっかり原稿に活かして一生懸命Deliveryをしているのを見て、その努力を認めてあげたいという気持ちになっても不思議ではありません。もっと泥臭い話、自分のコメントを活かしてもらったのに優勝できなかったら、自分の教育能力に疑問をもたれてしまうという余計な不安を持つJudgeもいるかもしれません。さらに酷い例だと、大会関係者が自校からの出場者の苦労話をたくさんして、Judgeの同情を得ようと仕向ける例もあるかもしれません。

これは公平な審査という観点から見て健全とは程遠い状態です。
「そろそろ勝たせてやらないと」とか「応援してあげたい」という気持ちが少しでも審査に入ってしまったら、大会の正当性に大きな傷がついてしまいます。

例えばこんな例があります。これまでずっと優勝できなかったSpeakerに、いくつもの大会で審査をしてきたあるJudgeが、「最後に優勝できてよかったね。ずっと応援していたんだよ」などという不用意なねぎらいの言葉をかけたのです。運悪く、その横で準優勝の辛酸を舐めた人が険しい顔をしてその発言を聞いていて、やりきれない怒りを胸に会場を後にしてしまいました。その時私は、自らの審査の正当性に疑念を抱かれるような事を平気で口にするJudgeもいるのだなとあきれ返ってしまったのですが、そういう発言はこれまで何回もそのJudgeとSpeakerが大会で顔をあわせていたからこそ出てきてしまったのだと思います。仮に、そういう状況を放置してしまったために、聴衆の誰もが予想だにしない人が優勝に選抜してしまったりしたら、大会の評判は一気に崩れ去ってしまうのです。

重要なのは、少数のJudgeが一人のSpeakerのシーズンに長く関わりすぎるような状況を作り出すのは危険だということです。当然のことながら、全てのJudgeは正当な審査を心がけるでしょう。しかし、人間、苦労している人を長く見れば、「無意識のうち」に情が入ってしまう可能性は小さくありません。だったら大会の公平性を期すために、過去の経緯に関わっておらず、まっさらな気持ちで審査に望めるような人をJudgeとして確保しておくことは大切なことだと思います。ちょうど、官僚がある役職に一定以上留まると癒着を生む可能性があるので配置換えをするのと同じことです。癒着があった、無いに関わらず、そうした可能性を排除するということが重要なのです。




ここ数年、有名なOpen大会の本選Judge陣の顔ぶれを見ていると、よくもまあここまでJudgeの寡占化が進んだものだと正直興ざめしてしまいます。最近では3大大会すべてに登場するJudgeもいるようで、後期のシーズンなどは毎週同じ本選Judgeに別々の大会で顔を合わすという笑うに笑えない状況が続く学生も多いそうです。そんなことで、大会独自のOriginalityを本当に出すことができるのか、疑問に思ってしまいます。

Judgeの寡占化が進むと、既発表可の大会の審査が非常につまらなくなってしまいます。
前の大会である一人のJudgeに潰されたSpeechは、同じ審査員ばかりがいる次の大会に出たときに、もうほとんど結果は見えています。そのSpeechを違った角度から見直せば、もっと素晴らしい側面が現れるかもしれないという可能性はほとんどなくなってしまうのです。

そもそも各大会は、招待した各本選Judgeにどんな役割を期待しているのでしょうか。より分かりやすく言えば、それぞれのJudgeにはどんな素晴らしい点があるから大会に呼んでいるのでしょうか。自分達が苦労して作り上げている大会なのですから、
招待しているJudgeの良い点を少なくとも5つくらいは具体的に考えてからJudgeを招待した方が良いと思います。

そういう風に問うと、多くの現役生は、「○○さんは有名Judgeだから」という全く理由になっていない答弁を行います。
それでは一体、「有名Judge」とは何なのでしょうか。有名だから自分達の大会にとって何が良いのでしょうか。何が良いかも分からずに、有名だからという理由だけでJudgeを招待しているとしたら、これほど頭を使っていない大会は他にはありません。そんな理由しか述べられないようでは、呼んでいるJudgeに対しても失礼です。

「そうは言っても、Judgeをやってくれる人がいない」、という声が必ず挙がることでしょう。
そういう大会関係者は、10~5年位前は大会によく出ていたけれども、最近はめっきり音沙汰がない人たちのリストをもう一度洗いなおしてみる事をお勧めします。

自分の能力に自信をもてない現役のSpeech Chiefが、OB・OGに協力してもらうと下級生に対する自分の地位がかすんでしまうと、自校のESSの卒業生達と現役生のアクセスを一気に切ってしまうということがよくあります。その結果、次の代のメンバーにもなんとなく後ろめたい気持ちが残り、代が変わっても有能な卒業生との連絡ができなくなってしまうという悲劇が結構あるのです。ですから、
もう一度自分のESSの卒業名簿を引っ張り出してみて、かつて御世話になっていた卒業生がいたら久しぶりに声をかけてみると良いと思います。

また、そういう輩は自分のSpeechが評価されなかったという身勝手な被害者意識から、一部の外国人Judgeを出入り禁止にしてしまう例も多々あるため、
昔活躍していた外国人Judgeをもう一度洗い出すというのも名案だと思います。

また、Judgeとして脂が乗ってきた頃に数年間海外転勤になってしまい、日本帰国後には誰からも声がかからなくなってしまったというJudgeも結構な数がいるものです。そういうJudgeは、海外に飛び立つことで様々な分野でさらに視野が広がっているはずですから、活かさなくては損です。

また、現役生は、これからの世代を担う若手Judgeを自分達の活動の中で育てていくのだという気概を持たなくてはなりません。
高い能力を持って、大きな大会で優勝したような先輩が身近にいれば、卒業後もJoint大会やOpen大会の予選審査員として招待し、数年後にはOpen大会の本選Judgeが務まるくらいの審査員に育て上げるべきです。Joint大会では、気軽に頼める未熟な4年生にばかりにJudgeのお誘いをして、「卒業したらさようなら」というような状態を蔓延させたままではいけません。卒業しても、若手社会人がSpeech界にある程度関わっていくような雰囲気を作り、Judgeの極端な高齢化を食い止めることが大事なのです。

こうした地道な活動を各ESSが継続していくことで、Judgeとして招待できる人材バンクをSpeech界の共有財産として築いていくことができます。
少数の有名Judgeにのみ寡占化されたような状態からは、多様な価値観が生まれなくなる可能性があります。もっと多数のJudgeバンクを作り、Judgeの個々の能力を幅広く検証し、自分達の大会の審査に真にふさわしいJudgeを、数多くの選択肢の中から決定できるようにすることが必要だと思います。




ここのところ大会の内外に足を運ぶと、奇妙な発言を耳にすることが非常に多くなりました。あろうことか、「あのSpeechは私が見ているのだから予想通りランクインした」などという暴言を吐いている人達がいるのです。これは一体どういうことなのでしょうか。

Speechというものは、最後は独力で壇上に立ち上がり聴衆に披露するものですが、それを作り上げる場面場面において多くの人の助けを必要とするものです。Topicの選定、ブレインストーミング、フローバッシング、リライトのアドバイス、English Check等、色々な人の意見を聞き、納得したものがあればそれを取り入れて自分のSpeechを磨いていきます。

しかし、当然のことながらSpeechを作る主体はSpeaker自身でなくてはなりません。
多種多様なアドバイスをもらったとしても、それをSpeechに取り入れるかどうかは自分自身が決め、どのような形でSpeechを改良していくかは、各Speakerが独力で行わなくてはならないものです。

にもかかわらず、なぜ「あのSpeechは私が見ているのだから予想通りランクインした」という言葉が出てくるのでしょうか。それはきっと、
Speaker以外の第三者が、元々のSpeechとはまったく独立したSpeechをゴーストライトしていることなのではないでしょうか。

私にも多くの経験があります。アドバイスを頼まれたSpeakerの本当に伝えたいことは何なのかを一緒に考え、それをどのように効果的に伝えていくかをアドバイスし、だいぶSpeechがこなれてきた頃に、突然そのSpeakerから連絡が来なくなるのです。私はアドバイスを強制することは一切しないので、そういう場合はそのまま放っておきます。しかし、シーズンが終わった頃に大会の結果と本選の原稿が送られてきます。

そこで、驚愕の事実を目の当たりにします。その人が本選に出場した原稿は、これまでその人自身が一生懸命考えてきた原稿とはまるっきり違っているのです。
その原稿は、しっかりとしたSpeaker自身の土台があって、それをうまく肉付けしたという類のものではなく、非常に短期間のうちに根底から全てが書き換えられているのです。

確かに内容は非常に良くなっています。しかしそこからは当初Speakerが持っていた考えや思いはほとんど全て捨象され、第3者によって作られた美しい仮面だけが横たわっているのです。
こんな仮面を被って大会に出場して、一体何の意味があるのでしょうか。

今までの経験から言うと、他人によって作られた仮面を被って大会に出場しても、ほとんどの人が優勝できません。自分のSpeechでなければ愛着も湧かないし、熱い思いも伝えることができないのだから当然のことです。ところが、英語が堪能なSpeakerのごく一部は、他人によって作られた原稿を見事に演じきって優勝カップをかっさらっていくことがあります。

しかし、それで終わりかというとそうではありません。そこから彼らの受難が始まるのです。
他人のSpeechをゴーストライトするような人に限って、「あのSpeechは私が見ていた」とか、「あのSpeechは私がプロデュースした」ということを大声で周囲にふれまわるのです。言い換えると、「あのSpeechが優勝できたのは彼/彼女の力ではなくて、私の力なのだ」という事を言いたいのでしょう。

これまで一緒にSpeechを作ってきたESSの同級生達は、本選直前にそのSpeechが短期間に信じられないくらい大変貌を遂げているのを見て、「あれは独力で仕上げたものではないな」ということに前々から勘付いているものです。そして、前から怪しいと思っていたところに、そういう発言を耳にすると、「なんだ、やっぱりそういうことだったのか」ということが改めてわかり、一気に白け切った空気が辺りを覆いだします。

こうしたゴーストライトを審査員自身が行っているケースがあるとしたら、それは倫理の欠如以外の何物でもありません。そういう審査員は審査員たる資格がないのですから、能力以前の問題として大会に招待してはいけないのです。ですから、大会運営委員はおかしな発言を行っている審査員がいないか厳しくチェックしなくてはなりません。変な審査員を呼んでしまったおかげで、「あの大会は出来レースだった」などという評価がなされてしまったら、今まで一生懸命大会を作り上げてきた努力がすべて水泡に帰してしまうのですから。




Speech大会の審査基準の全ては各出場者のSpeechの良し悪しにあるべきで、その他の要因が順位に影響を与えるべきではないというのが私のポリーシーです。ところが最近のESSには、Speech以外の要素が順位に影響を与えているのではないかと疑われる、もしくはそうした外観を醸し出している場面が少なからず見受けられます。

一番分かりやすい例が「セクハラジャッジ」です。ESS界には、Speechを審査するという高度で文化的な判断が要求されるにもかかわらず、
「男よりも女のほうが点数が良くなるのは当たり前。美人ほど点数が追加される」ということを人目もはばからず公言する人たちが複数います。これは一体どういうことなのでしょうか。

顔や形は両親からの授かり物ですから変えようがありません。ましてや性別などいくら努力しても変えることはできないのですから、そうした点に着目されてプラスαの点数が加算されたり減算されたりしたのではたまったものではありません。仮に一般のまともな企業で上述のような発言を行おうものなら、「セクハラ発言だ」と糾弾されて、厳しい企業ならばワンストライクアウトで退場になることも珍しいことではないのです。

傍で見ていて最も不思議なのは、そうしたセクハラジャッジ達を「素敵なジャッジ」として持ち上げて、色目を使いながら「きゃーきゃー」もて囃したてている女子大生の集団がいるということです。本来ならばセクハラジャッジを真っ先に糾弾するのは女性であると思うのですが、彼女たちは自分達の覚えをよくしてもらって、本選で優位な審査をしてもらいたいのでしょうか。
そういう光景は、他の学生から顰蹙を買っているということを、そろそろ省みた方が良いのではないかと思います。

「そうではない。その人が生まれ持ってきた性別・顔・形の全てがDeliveryの要素になるのだ」という人もいるでしょう。ここでポイントとなるのは、そうした意見の是非ではなくて、各大学が主催している大会はこの点に関してどういうポリシーを持っているのかということです。中には、「人を惹きつける美男・美女ほど有利になるのは当たり前」という大会もあるでしょう。そういう大会は堂々とセクハラジャッジを呼べばいいのです。しかし、

「そういう観点でSpeechを審査して欲しくは無い」という大会は、セクハラジャッジを呼ぶべきではありません。


少なくとも私は、性別や顔・形で審査がぶれるべきではないし、ぶれて当然だと思っている大会のジャッジは一切引き受けたくないと思っています。




Open大会を主催しているほとんどのESSは、自校からの出場者1名と、予選審査を通過した全国のESSからの出場者9名の合計10名で本選を行い、各々のSpeakerは優勝カップ目指して熱い戦いを繰り広げます。

ここで私が毎年疑問に思っていることが一つあります。
それは、「自校の出場者は本選への出場権を獲得しているので、予選審査を受ける必要がないとしている大会が少なからずある」ということです。つまり、自校の出場者のSpeechは予選審査員の目に触れることがないのです。

私はどうしてこのようなことが行われるのだろうと、常日頃から強い違和感を持っていました。
予選審査というものは、応募されてきたSpeechにけちをつける場所ではなくて、強いところはさらに強くするためのアイデアを提供し、弱いところはいかにして強くするかをアドバイスしてあげる場だと思います。ですから、自校の出場者を予選審査の過程に上げないと、その出場者は自分のSpeechの何が強くて何が弱いのかを指摘されることのないまま本選の日を迎えることになり、大会の壇上でいきなり本選審査員からの厳しい判定を受けることになるのです。

自校の出場者を予選審査に上げないのは、単純にランキングを集計したら、自校の出場者が当選のボーダーに引っかからなかったら洒落にならないという意識があるからだと思います。しかし、これほど本末転倒なことはありません。皆さんご承知の通り、大会までの時間がたくさんあれば、いくらでもリライトをしてSpeechに磨きをかけることができます。仮に予選審査で落選という厳しい判定がなされたとしても、そこでもらったコメントが納得のいくものであれば、それを手がかりにしていくらでもSpeechを改良することができるのです。他校のSpeakerにはそうしたチャンスが与えられているにもかかわらず、自校のSpeakerに恥をかかせてはいけないと、予選審査員のコメントを与えるきっかけを奪っているのだとしたら、お節介にもほどがあります。

自校の出場者に優勝してもらいたいと願うのであれば、そのSpeechにも予選審査を受けさせましょう。そして他の出場者と同じく、結果が出たらコメントシートを渡し、当選していたか落選していたかを伝えることが大事です。時には厳しい判定が下されることもあるかもしれません。
しかし、判定を隠すことが愛情ではありません。そんな時は、どうすれば優勝できるようになるのか、一緒に考えてあげることが本当の愛情なのです。