Drunk on Speech

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このサイトは慶應義塾大学英語会Chief of Speechだった作者が、今まで学んできたこと・感じてきたことを公開しているものです。

大学生向けのエッセイを次々と公開していく予定です。どうかみなさんのSpeech作りの参考にしていただければと思います。

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【更新情報】

■何人かの現役生の皆様からのご要望にお答えし、少しブログの中身を変更しました(2011/4/5)

■こちらも現役生の方からご連絡頂き、ジェネラルコメントと中桐さんのエッセイでリンク切れになっていたものを修正しました(2011/4/10)


【お知らせ】

5月に3つのOpen大会から審査依頼を受けました。しかし、今年は既に数人の現役生に対してコメント提供を行っており、「審査と教育の分離」の大原則を遵守するため、2010年度はOpen大会での審査活動は一切行いませんのでご承知置きいただければ幸いです。


なお、レクチャーや個別コメントのご依頼は随時受け付けておりますのでお気軽にご相談下さい。受付条件については、「こちらのガイドライン 」をご参照下さい。



Last Update : 2011/4/10
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Drunk on Speech-Win


Q&Aセッションのときに、自分の意見をサポートしてくれているサポーティングマテリアル(具体例・引用・データなど)にけちがつくことがある。例えば、「そんなに急激に患者の数が増えているとは思えない。そのデータはおかしいのではないか」などといったものがそうだ。


すると多くの学生は壇上でしどろもどろになって何も答えられなくなってしまう。しかし、何度も言っているとおり、「サポーティングマテリアル=自分の意見を形を変えて繰り返すもの」という原則になぞらえてみれば、そうなってしまうのは自分の意見に自信がないということなのだ。よって、このようなそぶりを見せてしまった出場者に対して、私が本選審査員だったら大幅な減点を行う。


それではサポーティングマテリアルにけちがついたときに、どういう点に留意して答弁を行わなくてはならないのだろうか。以下に主たる戦術を記載しておく。


1)まず第一に、そのサポーティングマテリアルが中立的な立場の人間から述べられたものであることを言わなくてはならない。これが信頼性を勝ち取る上で何より重要だ。


例えば、「原子力発電所は安全である」という意見に対するサポーティングマテリアルを用意するとしよう。この出典が「東京電力科学研究所」であったりしたら最悪だ。現実に原子力発電所を操業している東京電力が、「原子力発電所は安全です」と言っても全く信頼できない。


自分が引用しているマテリアルは中立的な主体によって述べられたものである点をまず強調しよう。逆に中立ではない主体によるサポーティングマテリアルは自分のSpeechの中に絶対に入れてはいけない。Q&Aで格好の餌食にされて、その時点でもう優勝は無いだろう。


2)次に、そのマテリアルの生みの親はその問題に対して非常に精通していて、その世界ではとても権威のある人だということも述べておくと良いだろう。過去の論文がよく引用されるとか、その問題に関しては国内だけでなく海外でも注目されていることなどを答弁できれば効果的だ。


図書館の中で適当に書物をぱくってSpeechを作ることしか能の無い人には想像もつかないだろうが、まともなSpeechを作って優勝している人は、サポーティングマテリアルの主体の経歴やその他の著作物なども調査している。さらに、少しでも必要があればコンタクトを取って彼らとディスカッションを重ねている。そのため、彼らのこの問題に対する精通度や周りからの評価などに対しても、具体的な話を持ってそれを論じることができる。


これらのことは社会に出たら当然のことだ。出典先についてはダイレクトな情報以外にも様々な周辺情報もキャッチするように努めるし、相手が許してくれるのであればアポを取って直接会いに行く。だから私はSpeechのアドバイスを学生に送る際は、こうした調査活動も積極的に行うようにと言う。いい加減、「図書館でぱくって→形だけSpeechにして→馬脚を現して→優勝できない」というESS Speech的欺瞞の世界から抜け出さなくてはならない。そんな中身の無いことを重ねて一体何になるというのだ?


ちなみに、私がこうしたアドバイスを行った後、真面目な学生はきちんと実行して優勝するし、不真面目な学生は何だかんだ言ってうやむやにして優勝カップを取り逃がす。きっと社会に出ても同じ事を繰り返すのだろう。


3)そして、その権威ある主体が行った調査方法は万全なものであることをアピールする。サンプル数・対象年齢・対象地域・対象期間などが必要かつ十分である点を主張するのだ。


そのためには、自分が使用したサポーティングマテリアルがどのように形作られたのかを事前にきちんと調査しなくてはならない。マテリアルの字面だけぱくってSpeechに引用している限り、こうした答弁は行えないだろう。


4)さらに、前回のエッセイで述べたとおり、「最後は自分の意見を形を繰り返して」答弁を終わる。サポーティングマテリアルにけちがついたから、その潔白だけ示して「ハイ終わり」とやるのは出来の悪いSpeakerのやることである。そうではなくて、自分の意見を形を変えて繰り返して終わることで、Speechを聞いている全員が君の意見に納得感を持つだろう。


この場合なら、


「以上より、サポーティングマテリアルは必要十分で全くけちのつくようなものではなかった」


とだけ言って終わるのではダメだ。そうではなくて、さらに、


「サポーティングマテリアルは必要十分で全くけちのつくようなものではなかった。それなのに通常の感覚と照らし合わせてみて自分の意見が異常に見えてしまうのは、事態が質問者の想像以上に急速に悪化しているからだ


ということを述べてることができる。


そして、


それゆえに自分の提案していることを今すぐ実行しなくてはならない


と結べば、ケチをつけようと試みたQが出たことで、却って自分の意見の頑強さを示すことができるのだ。


例えば、「いじめの件数がこんなに多いはずが無い」とか、「自殺者がこんなにいるはずが無い」とか、「こんなにお金の無駄遣いが行われているわけが無い」とか、Qのバリエーションを挙げればきりが無い。


一見すると、サポーティングマテリアルにけちがつくQは恐ろしいものだ。しかし、マテリアル自体に関する重点的な調査を重ねることで、自分の意見に自信を持つにまで至っている人にとっては、こうしたQは自分の主張の正当性を再度アピールすることが出来るのでかえってありがたいのだ。


その境地に至ることが出来るかどうかは、真面目にSpeechを作ってきたかどうかにかかっている。何度も言うが、「図書館だけ→PHCSのお手盛り」という馬鹿げた手順でSpeechを作っている限り、そのゴールまでたどり着くことは絶対に不可能だろう。


Drunk on Speech


各ESSは5~7年の周期で栄枯盛衰を繰り返している。ある年にとんでもなくハイレベルなスターが生まれ、大会で勝ちまくる。しかし、スターは自分の成績が素晴らしいだけでなく、何らかの形で新たな教育活動を実践する仕組みを築き上げていく。大会で勝ちまくっている割には、その能力を教育という形で外に還元することをしない人間は尊敬の念を勝ち取ることができない。スターは自分が素晴らしいSpeechを披露して優勝することで下級生をSpeechの世界に惹きつけ、自分のESSが今抱えている個別的な問題を肌で感じ取り、自分がレベルアップして行く過程で得てきたものを新たな教育体制に生かすことでそうした問題を解決していく。


すると、そうしたスターのSpeechをする姿に憧れて元々の能力がある程度高い新入生が続々と入ってくる。また、スターが考えた新たな教育体制が実践されていくことで優秀な新入生が更に鍛えられていく。その結果、そのESSはスターが現れてから少なくとも1~2年は優秀な人材を次々と輩出し、ESS全体のSpeechレベルを上げていくことに貢献する。Speech界全体のレベルを上げていくには、スターが現れることが最も重要なのだ。


ただし、長い間Speechに関わってきた私の経験からすると、スターは突如現れるもので、集団的な教育活動の中などが作り出せるものではない。かつて私がアドバイスする機会に恵まれたKさん、Mさん、Sさんなどはほとんど突然変異的に現れたと言って良いだろう。各ESSや学生団体の集団活動が彼ら・彼女らを出現させたとは決していえない。たまたま潜在能力が非常に高い新入生が突然現れてそこそこの大会でデビューするのだ。


その証拠に、KさんやMさんが現れる前の在籍ESSは決してレベルが高いESSとは言えなかった。そのESSではほぼすべての学生の間で怠惰な雰囲気が蔓延していて、ろくなSpeechが発表されることはなかった。レベルが高くないどころか、レベルは低かったと言った方が正確だろう。Sさんが現れる前の在籍ESSもそうだ。彼らは頭が良い割りにESS界ではほとんどダメという屈辱の評価に長年さらされていた。


また、KUELなどの学生団体も昔から何も変わらない「楽しい」集団であったので、団体の取り組みがスターを生んだわけではない。つまり、スターは突然やってくるのであって、何かの活動で作り出そうとしても無理があるのだ。


しかし、そうした才能豊かなスターに全く教育活動が不要かといえばそうではない。彼らだって最初は荒削りだ。しかも鼻っ柱が強いことが多いので、放っておくと怠惰になることが多い。中堅の大会で優勝したことに満足し、そこから更に踏み込んでSpeechを改良していくこともやらなくなるケースもある。彼らを最後の大舞台で輝かせるためには、極めて実践的で中身のある高度な教育技術が必要になる。


私が大きな大会(≒2大大会)で優勝した人こそ教育活動を行うべきだと考えているのはそうした理由からだ。誕生したての将来の逸材を優勝未経験者の手で間違った方向に導くべきではない。色々な人がちょっとずつ中身の無い教育をするのではなくて、優勝経験者が鋭角的に深く教育することが必要だ。


そして、そういう教育は非常に厳しいものになる。だから、教える側が優勝を経験していないと、教わる側もついてきてくれない。優勝未経験者に厳しいことなど言われても、自分のほうが能力が高いと薄々感じている人は、その教育内容自体にそもそも疑念を持っていて、最終的には聞く耳を持たないからだ。


しかし、やや逆説的だが本当にまともな逸材は非常に素直である。指摘されたSpeechの改良点がもっともだと思えばすぐさま行動にうつす。ESSや図書館内に留まることはなく、必ずSpeechの現場いに足を運んで、そこで様々な人と討論を行う。改良に向けた必要条件が非常に困難なものであっても、果敢にチャレンジしていくのだ。そして、これでもかというくらい何度も何度もSpeechを「抜本的」に練り直していく。


さらに、そのたびごとに信頼できる人に改良の評価を求めるので、優勝への軌道から大きくそれることが無い。スターの逸材が集団活動への参加に使った時間は非常に少なく、逆に独自に動き回ってSpeechを磨き上げていった時間は常人の比ではない。


そこが「元々は逸材だと思われていたが、結局は全然ダメだった人」と全く違うところだ。偽者の逸材というものは、「このままではあなたのSpeechはダメだ」というアドバイスに本心では納得していても、中堅大会で優勝したという無駄なプライドが改良への棘の道から自らを逃避させてしまう。そして最後には、「僕はあの人のアドバイスは聞かなかったが、●●大会で優勝できた」という負け惜しみを言う。その●●大会が2大大会ならともかく、関東や関西のそこそこの大会止まりなのが悲しいところだ。


このようにスターを育てると言うのは並大抵の努力ではできない。成長していく彼ら自身も大変な努力を行うが、アドバイスして育てていく側にも大きな負荷がかかる。「みんなで仲良く均質基準でSpeechをレベルアップしよう」などという聞こえの良い集団活動とは全く異質で高度な教育が必要になる。


だから、ぬるい講師陣が幅を利かせているような集団活動ではスターは生み出せないだろう。こうした集団活動は優れた経営者を育てるようなものではなく、そうした活動がなければSpeechの土台すら作れないというニート並の学生をいかにして救うかという類の政府の雇用対策のようなものになりがちだ。


しかし、いくばくかのニートなんか救ったところで社会的厚生はほとんど上がらない。そうではなくて、優秀な経営者を生み出し、彼らが会社の企業価値を上げて莫大な雇用を生んだ方がよほど社会のためになる。この場合で言えば、スター(あなた)が大きな大会で優勝する姿を見て、それに自発されて次世代のスター予備軍が一気に醸成されるということだ。スターの出現無しに一度に多くの現役生のレベルアップを図ることは難しいだろう。


但し、素晴らしいSpeechを独自に練り上げていって大会で優勝することよりも、上述のような集団活動を主催したり参加する方が圧倒的に楽しいし、圧倒的に楽なのだ。「2大大会で優勝した●●さん」という評価より、「●●活動をやりはじめた人」という称号の方が比較にならないくらい簡単に手に入る。カッコばかりつけて努力をせず、手ごろなところで自分の威信を高めようとする人がよくそういうことを行う。国内の難しい経済問題を放置し、北朝鮮に妥協して何とか形だけでも朝鮮戦争を終結させて名を残そうとしたブッシュ元大統領のようなものだ。ちなみにブッシュは北朝鮮戦争終結すらできずに引退してしまっている。


しかし本当にSpeech界をレベルアップしたいのであれば、真っ先にやらなくてはならないのは自分のSpeechを徹底的に磨き上げていくことだ。そして、最終的には聴衆に感動を与えられるようなSpeechを披露し、自分が優勝カップをその手に掲げる。あなた自身がスターにならなくてはならない。あなたが壇上で輝くことこそが未来のスターを生み出す大きな原動力となる。そして、それこそがESS界全体のSpeechのレベルアップにつながる。自分を独力で鍛えることから逃げて、楽しい活動に参加してばかりいても良い結果が実ることは稀だろう。自分が最も優先してやら無くてはならないことは何か、もう少し冷静に見つめる必要があるのではないか。



Drunk on Speech


このエッセイで一つの大きな誤解を解きたいと思っている。私は色々な人に、特に大会で優勝することができなかった人から、「勝つための方法論だけを強調して提唱している勝利至上主義者」という捉えられ方がされているようである。もちろん、私は競技Speechをやるからには優勝を目指すべきであるし、そのためには他の誰もが語ったことのないどのような具体的な実行策があるのかということについてこれまで一貫して述べてきたつもりだ。その点は間違いが無い。


私が気になるのは、「勝つための方法論だけを強調して提唱している勝利至上主義者」という捉えられ方の奥には、「勝つためだけがSpeechではない」という彼らなりの批判が見え隠れしているということだ。そして、そういう言い方をする人の多くは、「私はそうではない」ということを暗に喧伝しようとしているような気がしてならない。


ここで問題になるのは、「それでは、そうではない君達は一体どんなSpeechを目指しているのか。またどんなSpeechを作ってきたのか」ということである。勝利を目指すという物事のある一面だけを捉えて批判することは簡単でも、「私が考えているSpeech像はこうあるべき」という理想像を構築することは難しい。幼稚な批判者達が、頭を使って自分達が目指すべき理想を考えたかどうかは極めて怪しい。そして、自らが素晴らしいSpeechを披露して、その理想に少しでもたどり着けたかはもっと怪しい。


何度も繰り返し言うが、「伝えるべき価値のあることをきちんと伝えること」は、「優勝すること」などに比べれば比較にならないほど難しいことである。私は様々なエッセイを通して「伝える価値のあるものとは何か」、「それをどのように伝えれば聴衆に納得してもらえるのか」ということを具体的な方法論として提示してきたつもりだ。そして、これらの活動を通じてこそ、「自分の信念を確立し、自分のSpeechに自信をもつことができる」と考えている。


そうなって初めて、「普段は大人しく見える人でも壇上で勇敢な姿を見せることができ、その姿に聴衆が感動する」と信じている。つまり、私がこれまでずっと言い続けてきたことは、「自らが光り輝き、聴衆に感動を与えるようなSpeechをするにはどうしたらよいか」ということだ。「優勝することを目指す」という途中の成果を目標として設定しているのは、より具体的で現実的な目標が無くては読者は必ず怠慢になり、自らを律して真剣にSpeech作りを行うことができないと考えているからである。


重要なプロセスで怠慢を働き優勝を取り逃がしたような人から、「勝つためのSpeechを目指すならどうぞDrunk on Speechに行きなさい」などと引き合いに出されるのは本当に心外だ。そのだいぶ手前にある優勝すらできなかった人が、「勝つための方法論」以上の何かを現役生に伝えることができるかは非常に疑わしいと感じている。


「優勝できなかったSpeech、そしてそういう人の言うことの一体どこに聞くべきものがあるのか」ということを、現役世代の人間はもっと現実的に直視すべきだ。50waysのエッセイや、かつてEAST JAPANのジェネラルコメントで述べたとおり、優勝できなかったSpeechの多くがごくごく瑣末な社会問題を図書館の中から切り出して、それをPHCSというつまらない器の中に盛るだけでSpeechを作っている。そのままでは最初の3パラグラフくらいを聞いただけでSpeechの全体像は全て予想され、提案している内容も学生団体で定型として教えられているワンパターンなものばかり。論理構成に関して自分の頭を使った形跡はほとんど無い。非常に稚拙で、参考になるものはほぼゼロと言ってもよいだろう。


瑣末な問題の中にも、オリジナリティ豊かな考え方が隠されていることもあるかもしれない。しかし、そうした考え方をえぐりだすには、図書館の中でありきたりのリサーチをしているだけでは決して駄目なのである。そうではなくて、そのSpeechの中でテーマとされている問題と日々戦っている人、日々向き合っている人に直接会って話をしなくてはならない。その上で、自分の考え方をぶつけて討論してみることで、今まで自分が気づかなかったような大きな考え方が彫り出されてくるのだ。


そのようにして作り出されたSpeechには、内容と共に文体にも力がみなぎってくる。さらに、出会った人たちからパワーをもらうことで、ちんけなデリバリー練習からは決して生み出すことのできない迫力を壇上で見せつけることができる。そうなって初めて聴衆を感動させることができ、その結果が優勝トロフィーとなるのである。私が提唱している方法論はこのような考え方に基づいて展開されている。


よくよく考えてみたらこんなことは当たり前のことではないか。社会に出ればこれほど自明な理が、ESSというアカデミックなフィールドでは否定されるという矛盾を理解するのに苦しむ。自ら体当たりでSpeechに接してこなかった人間が、体当たりでSpeechを磨いていく勝つための方法論を小馬鹿にしている。馬鹿にするのは簡単なことだが、それでは彼らがそれ以上の何かを伝えることなど本当にできるのだろうか。


優勝することができなかったSpeakerが行ってきたことは非常に粗末なものでしかない。シーズン直前にTOPICが決まらなくてあくせくする。結局ろくなTOPIC候補しかでてこない。そうしたものの大半は、内容や話の展開でオリジナリティを出すことができないから、せめてSpeechで対象として上っ面のTOPICくらいは珍しいものにしようというせこい選別作業が行われる。


結果として、とても瑣末な社会問題が選ばれることになる。しかし、実は本人も「これでは勝てないな」と思っている。にもかかわらずGoサインを出してしまうのだ。この時点でもうそれは「まともなSpeechにはならない」のである。私が言っている「勝てないSpeech」というのは「まともでないSpeech」と同意語だと思ってもらえればよい。「まともなSpeech」であれば優勝することなどたやすいはずだ。50Waysは「まともなSpeech」を作って優勝しましょうといっているのであって、優勝しやすいが中身の無いSpeechを作りましょうといっているのではない。(そもそもそんなものは存在しない。もし存在するのだとしたら、その大会の全出場者のレベルが恐ろしく低くて、仕方なくそのSpeechに1位をつけたという事情があるに過ぎない)


TOPICが決まった後のリサーチ活動もきっとかなりお粗末なものだ。図書館で収集したマテリアルですら2つか3つくらいしかない人も多くいるだろう 。それを適当にぱくってPHCS風に切り貼りして、「ハイ出来上がり」。面倒なフィールドワークなど全く行われない。対象となっている人や関係者に電話やメールでアポイントをとるなんて怖くてできないというのだ。そんな人が壇上で勇ましいSpeechを披露することができるのか。


Speechを磨き上げていくプロセスも「生ぬるくて楽しいものばかり」だ。みんなと仲良くブレインストーミングする。ブレストまでのリサーチで基礎的な調査が全くできていないのだから、ブレストなどしても深みがある意見を引き出すことなどできない。そういう事前準備を怠る低レベルな集団の中からまともな意見が出てくるとは思えない。最後には、「30回以上もブレストをやった」という回数で自分の努力が正当化される。楽勝で意味がなく、その先の行動に結びつかないブレストを重ねることなどサルにでもできるはずなのだが、そういう本質論からは目が背けられている。


リライトに関しても同じである。大切なのはリライトした回数ではない。聴衆に納得してもらうために今の自分のSpeechに足りない何かを発見して、それを取りに行くという行動だ。当然大半のものは図書館などには無い。自分のSpeechがテーマとしている人たちのところに出向いて討論してはじめて有益な考え方を得ることができるのだ。


それを自分なりに考えて工夫した論理構成に落とし込んでリライトする。苦労して優勝した人は回数だけでなく、こういう苦しいリライトを重ねて自分のSpeechに磨きをかけていった。ちょこまかした表現の手直しを何回も重ねることがリライトだと思っている人には想像することもできないだろう。


ここまでやればDelivery練習にも余念がなくなってくる。みんなと仲良くDelivery練習に打ち込むのも大事だが、優勝する人はそんな練習会のとっくの前に、自分のSpeechがテーマとしている人たちからパワーをもらい、皆が驚くような迫力を醸し出す風格を既に兼ね備えているのだ。そして、ここまで磨き上げてきたSpeechだからメモライズが飛ぶなどという世紀の愚行を犯すことも無ければ、制限時間オーバーなどというお粗末な醜態をさらけ出すことも無い。


2008年は日本最高峰と言われる大会で信じられないことが起きた。なんと半分以上、いやほぼ全ての人間がメモライズを飛ばしたり大会の制限時間を守れなかったのだ。これは本当に異常な事態としか思えない。一人だけがおかしくなったのならともかく、ほぼ全ての人間がおかしくなったのである。こういうことは偶然には起きない。私がこれまで指摘してきた、不正な審査活動、寡占化する審査員、無駄に仲が良くてぬるいインターカレッジの関係、いつまで経っても変わらない学生団体のテキスト、繰り返されるPHCS、Joint大会のみで満足するメンタリティなどの弊害が2008年に一気に噴出したためだろうと思う。


こういうことを考えると、2009年に壇上に立つ諸君は悪しき2008年の習慣の大半を否定しなくてはならない。そして新たなムーブメントを実行していかなくてはならないことがわかる。何も考えずにみんながやろうとしていること、何も考えずにみんなが繰り返そうとしていること、そういうことに本能的に背を向ける資質が無ければ、まともなSpeechなどできない。


ゆとり教育の中で育ち、予定調和からはみ出すことに抵抗を感じる現役生も多いだろう。但し、大学というユートピアを卒業して一歩社会に足を踏み入れると、そこでは猛烈な嵐が吹き荒れている時代になった。これまでのように適当なESS人生を送っていては何も評価されなくなる時代が来るであろう。Speechを通して自分だけができる自己実現は何か、それを達成するにはどうしたらよいか、真剣に考えなくてはならない時が来たのだと思う。


Drunk on Speech


このエッセイでは、Speech全般に関して、「最近おかしいのではないか?」と私が疑問に思ったことに関して鋭く切り込みます。内容が過激なものはアメンバー限定で公開しますので、ご覧になりたい方はアメブロIDを取得の上、アメンバー申請してください。その際は、氏名・所属ESS名・役職・所属年度(現役生は学年)を必ず明記してください。


単刀直入な内容が増えると思います。それを受けて、「ナカオはひどい奴だ」と反応することは馬鹿でもできると思います。そうではなくて、どうすれば今の悪しき習慣を改善させることができるのか、真剣に考えることの方が大事だと思います。


第01幕:タイトルの謎

第02幕:いつまでたっても結果がわからない

第03幕:メモライズは最低限の礼儀

第04幕:制限時間くらい守りましょう

第05幕:審査と教育の分離を闇に葬った愚かさ

第06幕:審査と教育の分離をめぐる不毛なやり取り

第07幕:激動の世界経済とジャッジの職業

第08幕:敗者の自己満足の弁をどうとらえるか1

第09幕:敗者の共通点1

第10幕:優勝するまでは静かにしていろ1

第11幕:優勝するまでは静かにしていろ2

第12幕:メモを取ったら読み返せ

第13幕:学内大会優勝に目標を下げるな

第14幕:優勝経験のないインストの価値?

第15幕:こんなチーフがいたESSは要注意

第16幕:審査と教育の分離の意義がわからない無能さ

第17幕:日本の暗い将来とジャッジの高齢化

第18幕:声だけの改革で終わらせる奴とそうでない奴 (限定)

第19幕:進化する東大、劣化する慶應

第20幕:敗者のウイルスに感染するな

第21幕:前任者の妨害に屈するな

第22幕:真のインストラクターとなるために

第23幕:何もできないならば声をあげるな (限定)

第24幕:有害なレクチャーを受けさせる罪・鵜呑みする愚

第25幕:集団活動で生み出されるであろう駄作の数々

第26幕:それなら君はまともな方法論を語れるのか?

第27幕:集団活動はニート救済にしかならない


Drunk on Speech


先日エルサレムでの受賞スピーチが話題になった村上春樹の代表作であるノルウェイの森に、永沢さんという人物が登場する。


恐ろしく頭が良く、外交官試験もあっさりパスしてしまった彼は、試験結果が発表された直後にもかかわらずスペイン語の勉強を始める。


彼の言い分こうだ。


皆が試験に受かって安心しきっているところで自分はそれをよそに勉強をする。努力とはもっと主体的・目的的になされるものだ」


この考え方は色々な物事に当てはめることができるであろう。


例えばSpeech活動であれば、


皆が時間の無駄としか思えないブレスト会や勉強会に参加している。

そんなことをやってもオリジナリティのあるSpeechは到底できるはずも無い。


だったら自分は皆がやらないフィールドワークに出かけてSpeechのテーマとなっている人達に取材しよう。そういう独自の取材活動を通してこそオリジナリティのある考え方を創り出すことができるだろう。



オリジナリティとは普通の人間とは一線を画した考え方のことだ。

だからこそ普通の人間と同じことをやっていて生み出されるはずが無い。


最近は主体的に動くことのできない未熟児が多すぎる。人に勉強会をセットしてもらわなければSpeechすら作れないのか。


みんなと一緒に意味の無いブレスト会に参加して、中身の薄い勉強会に出席する。そういう一連の「ぬるい活動」に仲良くみんなと出席していれば、いつの間にかSpeechができあがると思っている。


でも、そんなやり方で作ったSpeechは99.9%駄作だろうな。


集団活動に参加しなくては自分のモチベーションを上げることができない。そんな奴が作ったSpeechが聴衆を感動させられるはずが無い。つまり面白くないSpeechだということだ。


冒頭で紹介したノルウェイの森の中の永沢さんはこうも言っている。


他人と同じものしか読まなければ、他人と同じ考えかたしかできなくなる。そんなものは田舎者。俗物の世界だ」


Speechも同じだ。他人と同じ活動を通して作ったものにはオリジナリティが現れない。


他人が下らない活動にうつつを抜かしている間に、自分は自分にしかできない密度の濃い調査や創作活動を行う。そうしなければオリジナリティのあるSpeechなどできるはずが無い。


多くの人が誤解しているかもしれないがSpeechは一人で作るものだ。


密度の濃い創作活動に取り組んでいる人からすれば、他人との共同作業の時間の割合は5%に満たないだろう。


むしろ誰かと一緒に作っている時間を如何に減らすかがポイントだ。


ピカソやゴッホが、他人と一緒に絵を描いていたなどという話は聞いたことが無いのと同じだ。


一人では何もできないようなら優勝カップを手にするチャンスも無くなるだろう。