レクチャーと銘打ったものならばどんなものでも何かしら意味のあるものがあるはずだと考えている学生が多い。しかし、そんなことはない。
間違った概念を刷り込まされ、Speech作りに向けた意識を甘えさせて堕落させるようなレクチャーも巷には多いだろう。そして、馬鹿の一つ覚えのようにそれを盲目的に信じるようなら、そのレクチャーは有益とは正反対の有害なものとなる。
例えば、いつの時代にもあるのが、「PHCSにも一理ある」という有害なレクチャーだ。この手のレクチャーは、PHCSから抜け出すことができずに、結局大会でろくな成績を残せなかったような人から伝授される。
特徴的なのは、「PHCSにも一理ある」と銘打っているにもかかわらず、そのレクチャーのほぼ全てがPHCSの枠組み(もしくはその亜種)に沿った内容でしかないということだ。そしてそれを正当化する。
こうなるのは当たり前だ。レクチャーをやっている人間がPHCSの呪縛を振り払い、そこから抜け出して大会で優勝したような実績を持っていないのだから。50Waysでも述べたが、人間は自分で経験して達成したこと以外は人に語ることなどできないのだ。
不思議なのは、こうした人を講師としてレクチャーに呼んでしまう現役生のメンタリティだ。大会で優勝したことも無く、社会人として他人に秀でた経験を長きに渡って経験してきたわけでもない人に、一体何を期待してレクチャーを受けるのだろう。
例えば、私が現役生だったころのKESSでは、現役の3年生はレクチャーをしてくれる人間を非常に厳選していた。部内に実績を残した有能な上級生がいればレクチャーをお願いしたが、そういう人がいない年は、他大学でしっかりとした実績を残した人に講演をお願いしていた。
そういう人が関西にいる場合などは、教育の責任者であるチーフが電子メールや電話を使って色々と質問をして、そのエッセンスをまとめて勉強会で使っていた。
実績を残していない人をレクチャーに呼ぶなどということは考えもしなかったし、実績を残していないにもかかわらずレクチャーをやるような人がいる集団の行事には、「間違った概念を植えつけられると困る」として一切参加しなかった。こうした行動は私の代だけではなく、私以前の代は皆そうだったと聞いている。
この人に講師をお願いしたらどんなレクチャーになるだろうかということを吟味するのは頭を使う作業だ。その人の過去のSpeechを研究し、何かしらの教育資料を公開している場合はその内容を詳しく調べてみる。そして、その人はSpeechについてどのような意見を持っているのかを調査しなくてはならない。その上で、自分達のESSに今足りないものは何であり、その人ならばそれを埋めてくれることができるかどうかをしっかり検討すべきだ。
ところが、毎年お願いしているからとか、部内の先輩だから呼ばなくてはならない慣例があるとかいう理由で、何も考えずにレクチャーを企画してしまう。なぜなら、そういう企画方法は馬鹿でもできる頭を使わないからやり方だからだ。
しかし、はたしてそれで効果のあるものが得られるのだろうか?効果があるどころではなく、聴講生にマイナスの影響を与えてしまう可能性は無いのだろうか?頭を使って考えることができない企画者は、そうしたことなど気に留めたことも無いだろう。
そうしたレクチャーが企画されると、とにかく現役生は何でも参加してしまう。少しは何か得られるものがあるかもしれないとしか考えられないからだ。
ちょうど、絶対に自分にとってマイナスでしかない飲み会の2次会に、何も考えず、断ることができずにとりあえず行ってしまうタイプの人間と似ている。最後には酷い二日酔いと追加の出費でしぼんだ財布が残され、何より貴重な翌日一日の時間が無駄になるのである。
そういう人は、他の人間がそのレクチャーに参加している時間、どうやらこのレクチャーは無駄なものになりそうだと判断して、自分は単独行動でフィールドワークを行った方が有益ではないかという比較検討ができない。Speech作りでは比較して考えることが重要なのだから、こういうメンタリティを持った人はその時点で優勝できない組に入ってしまっている可能性が高い。
そして、いざ参加してしまうと、馬鹿の一つ覚えのように全てを鵜呑みする。その内容のどこが賛成でどこが賛成しかねるのかを判断することをしない。何よりも、本当は今までのやり方を変えなくてはならないと思っていた意識を、「そのままで良いんだよ」という有害なレクチャーを聞くことによってかなぐり捨ててしまう人が多くいる。その方が自分にとって改革の棘の道を進むよりも楽だからだ。
私がこれまで書いてきたことは、まともな社会人の間では極めて常識的なことばかりだと思うが、なぜかESSの学生の多くからは反発を受ける。
それは前にも書いたが、苦労して大会で優勝して勝利を掴み取った人間よりも、どこかで楽して優勝を取り逃がした人間の方が圧倒的に多いからだ。
そして、楽して成果をあげなかった人間の、「そこまでやる必要はない」とか「今までどおりやることにも意味がある」という甘い囁きの方が、弱い現役生に受け入れられやすいのだ。
これから新しいことを実践していかなくてはならないという重圧は、そうした有害なレクチャーを受けることで一気に解き放たれる。しかし、当然のことながらそうした態度では結果を出すことはできない。
そうした大多数の人間が、最後まで必死で頭を使って考えて努力して優勝を勝ち取った少数の人間の言葉をかき消していく。その大半は、「勝った者が語っている傲慢な意見だ」とか「勝つことだけがSpeechではない」というSpeechの本質とはかけ離れたものでしかない。
レクチャーを企画する方も受講する方も頭を使わなくては意味が無い。このレクチャーは何のために開催するのか、効果はあるのか、下手したら有害なものになるということぐらい考えたらどうだろうか。
また、受講する側は、レクチャーと名のつくものには何も考えずに全て出席するという態度を改めなくてはならないのではないか。いざ受講することを決めた後も、自分の耳にとって聞き心地の良いものだけを受け入れるというという態度を改めるべきではないだろうか。きついけれども価値がありそうだというものを無視し続けて本当に良いのだろうか。
レクチャーでは必死にメモを取って、その中身を吟味することなく全部吸収するのが美徳とされているならば、そうした集団は決して傑出した人物を輩出することなく終わるだろう。自分でしっかり考えて、自分に必要なことであれば逃げることなくそれを実践する。そういう苦労を重ねた人だけが、優勝カップを手にすることができるのではないだろうか。