石橋山の合戦は大庭景親が三浦一族が到着する前に叩いてしまおうと早く仕掛けたと言われている。

 

 大庭景親が集めた軍勢は三浦一族より多いけどやはり相模国一の豪族と言われたから恐れたのかな?あるいは義朝に関連する豪族が集まるのを恐れたから念のために先に叩いたのか。

 

 雨で川が(酒匂川??相模川???)氾濫していて間に合わなかったとか。ちなみに当時の海岸線は中に入っていると言われているのでかなりの迂回で手間取ってしまったのかもしれない。

 

 こう言う観点で考えると歴史は面白いと思うな。

 

 相模国は関東平野の一部であるが、石高はさほど高くない。やはり海岸線が今よりは内陸寄りだった証拠なのか。

 

 国土地理院の地図で海抜4mまで最初の色を指定するとかなり相模川沿いに中に入

ることがわかります。当時は今より数メートルは海面が高かったと言われているので結構いい線行っているのではと思うけど。

 

 

鎌倉も多少狭くなりそうです。

 

新田義貞が潮の引きを利用して海岸沿いから攻め込んだのもなんとなくわかる気分。

 

いや〜、歴史って本当に面白いもんですね。

(水野晴郎風に)