平治の乱の原因として小学校では義朝が清盛のライバルで、保元の乱の恩賞に不満があったとか習います。

 

 本当にそうか?

 

 義朝は親が色々問題を起こしていたのでそもそも生まれた時から清盛とは差があると思う。父親の平忠盛が正四位上まで進んでいる。その当時の源氏の極位は正四位下である。源頼義とか義家とかである。そもそも格が上だったのだよね、この時代には平氏の方が。

 

 保元の乱の前に義朝は従五位下、清盛は正四位下。この間には従五位上、正五位下、正五位上、従四位下、従四位上と5位あるのである。こう考えるとそもそも差があります。だからライバルになり得ないと思うのである。

 

 平治の乱で一時的に位が上がっているが、それでも従四位(上下どっちか知らない)だから清盛よりもしたなんだよな。

 

 ということでライバルというより眼中になかったのだろうな?

 

 この時代は位とはかなり重要だったはずだからどうしようもなかったのだろう。

 

 平治の乱のどさくさに息子の源頼朝に与えた従五位下右兵衛権佐という位とか官職は坂東侍には手が届かないようなくらいでピカピカに光り輝くのが面白いところである。さんなんだけど、にいちゃんより高い位であるから嫡男扱いだったのだろうな。歴史は面白い。