■「安心があるから調子というリズムに乗れる」 | マウントされる女やめる大学

マウントされる女やめる大学

どんなに自己肯定感が低くても
熱量集中心理カウンセラー☆マリチャンヌ学長が
あなたの人生を文明開化!
人生の照明を当ててみせます!

『熱量高めで

あなたを真反対の世界へお連れする』

お手伝い心理カウンセラー*

マリチャンヌです。

 

 

 

わたしは現在

心のボタンの掛け違いをゆるめてほぐし

 

 

心理カウンセリングを通して

あなたの人生の照明を

当て直すお手伝いという

お仕事をさせていただいています。

 

 

 

 

わたしは4年前、

 

その頃は心理の勉強というより

生きづらさの荷下ろしがしたい、と

 

半年間毎月、埼玉から福岡まで

心理講座に通っていました。

 

 

そこで「よきところがあれば誉めあう」という

ワークがありました。

 

 

「いやいやいやいや・・わたしなんて・・」

 

とっさの反応というのは

その人の日常が現れることがあります。

 

 

そこで出会った人たちに

口々に言われました。

 

 

「まりちゃんは誉めても受け取らないよねぇ」

 

それを口にする人たちは、皆

澄んだ目で嘆いていたので

余計どうしてよいのかがわかりませんでした。

 

 

 

「自覚の無いものを誉められても・・・・・」

 

 

わからない、ということを

嫌っていた時期でした。

 

 

そして、優しさというものを

よくわかっていない時期でもありました。

 

 

 

 

そこで今日は

「安心があるから調子というリズムに乗れる」

について書きます。

 

少しの間お付き合いくださいね。

 

 

 

 

年末年始の帰省時のことです。

 

昼12時前まで寝ていても

ガミガミ言われることは

以前に比べれば少なくなっていました。

 

 

それでも、目に入るとイラっとはするそうで

 

 

今年から

「おまえは、二階の部屋を使いなさい」と

こたつから、座椅子、テレビと

全て準備されていました。

 

 

お姫様のよう・・**

 

 

母は母なりに

わたしと暮らす、ということを通して

妥協点を探してくれていたのです。

 

 

話を聞くといろいろ揃えるのも

結構楽しんでいたよう。

 

 

 

母もストレスが減ったせいなのか

 

うちにいてもほとんど怒られません。

 

 

わたしは相変わらず

「自分は今どうしたいのか?」で暮らしているのに

尊重してくれてもいます。

 

 

そして、うちに帰れば

番茶をいれてくれるひとがいる

 

 

当たり前はどこにもない

 

なんだかうれしくて

ありがたくてのみました。

 

 

わたしはしあわせでした。

 

 

ふしぎな気付きが内側から流れてきました。

 

 

”安心”

 

この安心は

 

おかあさんがふわっと広げてくれたじゅうたん

そのうえにわたしはいる

 

 

おかしいな?

わたし、苦しくないぞ???

苦しいどころか自由がある。

 

 

してくれることにはいつも

コントロールを感じていたので驚いたのです。

 

 

 

 

わたしはわたしのなかにちゃんといて

だけど、とても自由なのです。

 

 

この現実はどこを見渡しても

ここにひとつだけしかない

 

 

替えがきかない

 

当たり前はない・・・

 

奇跡の真ん中にいる。

感謝だけがそこにありました。

 

 

自立した赤ちゃんの気持ちというのでしょうか?

 

 

そういえば、わたしも母もこの瞬間

他人の人生の、幸も不幸も含めて

責任など取ろうとしてないなあ。

 

 

もしかしたらそれが

すぅーーっと

目の前の「ありがとう」を受け取れる

秘訣だったのかもしれません。

 

 

以前は、焼き魚がとてもおいしいので

 

わたし)

「これおいしいなあ、ありがとう」

というと

 

母)

「それ、自分の食べたやつの残り(=半身を焼いた)。

もっと欲しけりゃ

まるごとのがもう一匹あるから焼くよ」

 

ある時は・・

 

わたし)

「これおいしいね、今度これにごぼうを入れたら

また別のバリエーションになっておいしそう」

 

母)

「今、ごぼうなんかないわね!

おまえは無いもんばっかり言ってくる!」

 

感謝を口にしたり

浮かんだイメージを口にしただけなのに

 

 

『供給できないことを責められている』

という解釈をされることが多く、

その上でなぜか責められるという理不尽が日常でした。

 

 

 

そのうち素朴な喜びを伝える、ということが

むなしく、悲しく思えてきて

気がつけば、親の背中をそっくりモデリング。

 

 

誰かのいいとこを見つけるのは得意らしく

口からポロポロ言葉はこぼれていくのに

 

わたくしごとになるとさっぱり受け取れない。

 

 

母と同じように

わたしが誉められる=わたし無理です。

期待に応えられなくてごめんなさい。

 

そんな自動解釈が常となっていました。

 

 

 

そしていつの間にか「受けとる」ということが

「しなくていいこと」・・と同じ意味になり

 

わたし自身、悲しい思いを遠ざけようと

無意識に自分へ刷り込んでいっていたようでした。

 

 

 

 

全てのことに気づいた時

 

 

ありがとう、と、ごめんね・・が

いつかの誰かのねぎらいや、受け取れなかった自分に対し

たくさん満ちていました。

 

 

そんな一連にも気づかせてくれた親の愛。

 

 

とてもらくちんで心地がよい。

 

 

わたしを大きく包み込んでくれたその毛布こそが

 

わたしが自分として行きたい場所に

連れていってくれる

まほうの絨毯の原型だったのかもしれません。

 

 

このいい気分をしっかり堪能して

 

「いい気分のままずっと生きていたっていい」

「調子に乗りっぱなしでもいいんだよ」って

 

 

わたしも誰かに伝えたくなりました。

 

 

 

 

暮らしの中で気づいた

ゆるゆる情報など

 

メルマガに書いていますので

よかったらご登録くださいね*

↓ ↓ ↓

メルマガ登録はこちらへ