いつでもハロウ!

まじかるクラウン元イラストレーター25年歴/

頑張りすぎる人間関係専門カウンセラー

もりわきまりこです

 

【自己紹介 ①】不登校になるまで

 

(続き)

  なぜか埼玉上陸!

 

求人誌に載っていた会社は続かず、3ヶ月で退職し

一人暮らしの引きこもり生活が始まります。

 

友だちはいません。

 

雑誌とテレビが友達です。

 

フリーターという言葉が出来て久しい頃でしたが、

わたしの中では

「正社員で就職が正しい道」という観念が強く、

正社員になっては辞めるを繰り返していました。

 

石の上にも三年という、ことわざをクリアすれば、

人ととしてギリギリ胸が張れると思い

 

「税理士になろう」と、

先生とわたしだけしか社員がいない会計事務所に就職します。

 

世はバブルですが、わたしにはなんの関係もありません。

 

毎日窓の外から見えるのは、同じ景色です。

 

ええわたしは、数字の計算なぞ、好きではなかったのだ!!

 

3年目を迎える頃、家でanan の「いい女特集」を読んでいたら

作家の村上龍だけが、他の人と違う見解を述べていました。

 

どの質問をされても、

「いい女は、本当にやりたい仕事で

自分の食い扶持を自分で稼げる女のことだ」という趣旨ばかり。

 

わたしの目は開きました。

 

『人生一度だ、ホントにやってみたいことをやってみよう!』

 

瞬間、わたしはやってみたいのに半分諦めていた

イラストレーターになりたいという思いがぴょんと出ました。

 

絵の経験値は、中学の美術部に籍を置いたことがあるだけです。

 

わたしは村上龍の記事を切り抜いて壁に貼り

持ち込み用のイラストサンプルを描きました。

 

世は電波少年という、アポイント無しで突撃する番組が流行っていました。

 

わたしは、書店で買ったマスコミ電話帳という

出版業界の電話帳を見て、

片っ端から電話して、アポが取れたら持ち込みに走ります。

 

そのついでに、別のフロアの編集部にも飛び込みイラストの売り込みをする。

 

怪訝な顔されるのも当たり前、生きていくためにやる。

 

10件に1件くらいずつ、仕事が取れるようになりました。

 

それでも、基本、ひとが怖いので

原稿は全部バイク便や宅急便で届けてもらっていました。

 

「ひととつながると、わたしはやがて排除されてしまう」

 

そんなセルフイメージを持ちながらのイラストレーター生活です。

 

コネもつくれません。

 

いつ、切られるか、捨てられるか?

 

同じ日に締め切りが4本重なり、指が痙攣して筆が持てなくなり、

粗い原稿を入稿することがあっても

 

わたしは新規開拓の営業をやめられませんでした。

 

 

どうしても行かないといけないときの打ち合わせの時のこと。

 

いつものように、わたしはネガティヴ感情を全て抑え込み、

時間までその場にいるという苦行の中にいました。

 

 

目の前で「ドン!」といブレーカーの落ちるような音がしました。

 

脳内でした。

 

その瞬間、抑うつになりました。

 

 

一番仕事が多かった頃です。

 

またしても、体を使った人生方向転換チャンスが来たのに、わたしは気づけません。

 

 

絵が描けなくなりました。

 

体が鉛のように重くなり動けません。

 

母に電話で泣きついたけれど、

母もまた自分の食い扶持を稼がなければ生きていけません。

 

「ひどい、でも仕方ないよね・・」

 

未来が不安でたまりません。

 

貯金をはたいて、安定剤をがぶ飲みして授業に出て

介護ヘルパーの資格を取りました。

 

(ぎっくり腰持ちのため、今でも使う事にない資格を持っているだけです)

 

 

⚪︎にたい気持ちは日に日に強まり、わたしはついに餓死しようと決めました。

 

3日布団の中にいました。

 

まあいいや、もういいや…

 

からだが衰弱していくのがわかります。

 

4日目の夕方だったかな?

 

限界が来ました。

 

「・・わたし生きたい」

 

意思ではなく、からだの方が先に声をあげたんですね。

 

意外でした。

 

まっすぐ立てぬまま折れ曲がった体制で

近くのスーパーに行き大根を一本買いました。

 

生き直そうとしていたのでしょうか?

 

 

その後、土に触れるといいと何かの本で読み

うつうつしながら家の周りの雑草を抜いてみました。

 

「土は温かいなぁ」

 

本が伝えていたことは、この感覚だったのか。

 

 

少しずつ、わたしなりに自分の生き方を変えていこうと模索し始めたはしりの頃です。

 

それまで10年以上住んでいた借家は湿地帯の上に立つ、ボロボロの平家でした。

 

建て壊してアパートを建てると大家さんに言われ

生まれて初めてマンション(集合住宅)に住むことになりました。

 

ここで、また気が狂います。

 

ひとが怖い、ひとが怖いで、そこからさらに10年経ちました。

 

  心を待つ。

 

 

ある日、なんのために生きるのだろう?

どうせ⚪︎ぬのに、

なんで服とか買うんだろう

 

遅かれ早かれどうせ⚪︎ぬのに…という疑問が出てきました。

 

自分のために、装うことに意味を感じられなくなっていました。

 

まる三年間以上毎日母に電話をかけて

答えの出ないこの繰り言を聞いてもらっていました。

 

その間、18歳から一度も会うことのなかった父が亡くなるなど

自分を含め、ひとの生死についてぐるぐるぐるぐる思い詰めまくっている

時期でもありました。

 

 

人生で一番預金額がある頃でしたが

お金は逃げることには使えても、こころに関しては、

なんの役にも立たないことを痛感しています。

 

インターネットが普及する前の時代です。

 

どうしていいのか本当にわからなかったんです。

 

その後

精神科医の泉谷閑示先生の

「普通がいい」という病に出会い

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自分の生き方のどこが狂っていたのかが

初めて客観的に理解できました。

 

 

『自分がいいと思っている自分は、ただの頭でっかちか』

 

それから、少し経って、

「なんのために生きるのか」という問いに

 

「生きてる限り生きてるんだから、それまで生きればいいじゃん」

 

という、非常にあっさりした答えが自分の内側から降ってきました。

 

わたしは久しぶりに心が晴れ、

ウキウキと自分のために服を買いに行ったのを覚えています。

 

 

  アクションスタート

 

イラスト原稿の修正のため、必要にかられ,

世に遅れましたが、この頃やっとパソコンを買いました。

 

何をするのも、新しいことに手をつけるのが怖くなっていて

何年もパソコンが買えなかったのです。

 

ネットの普及の恩恵にあやかりました。

 

心理学ブログ、識者のサイトを目を皿のようにして読み込む日々です。

 

まだまだ、この頃は頭でっかち迷走中でした。

 

泉谷先生の本きっかけで、とりあえず

日常の行動から変えていくしかないのでは?と思い、

イラストの仕事は全部断り、貯金を食いつぶしながら

派遣バイトに出ることにしました。

 

リハビリです。

 

ひとが怖かったので、最初の数年は試食販売や

デモンストレーションのアルバイト、

その後、思い切ってオペレーターのバイトに出ることにしました。

 

(歌うこと、話すことなど、声を出すことは、変わらず好きだったのです)

 

初めてのオペレーターバイトは、たった4時間

電話を待ちながら座っているだけでお金がもらえるものです。

 

恐怖で体が硬直していました。

 

まだまだ、克服がいいことだと思っていた時期ではありますが

やってよかったこともあるんですよ。

 

派遣バイトという場を借りて、

今まで自分がいいと思っていた行動癖を次のように変えていきました。

 

・面白くないなら愛想笑いしない

・場を盛り上げようと自分を下げて盛って喋らない

・場の空気が凍っていても無視する、他人同士が険悪でも無視する

・悪口でつながろうとするコミュニケーションには加わらない

・寂しくても、群れることに逃げない

・お菓子どうぞ、と言われたら、一番真ん中のいいところを頂く

・本当に思っていることしか言わない

・おもしろいことを言おうと思っていうのは全部やめる

 

これをやることで、どこに辿り着くのか?

皆目見当はつきません。

 

わかっているのは、これらをやることで

あれだけ戻りたがっていた

「みんなに受け入れられる楽しいまりちゃん」の世界を

全部捨てることにはなるのだなぁということ。

 

やる=後戻りはできない。

 

だけど、もう自分の心に嘘をついて生きることの方が嫌だったんです。

 

  お母さんに伝える

 

「こうみられたいから、こう振る舞う」

 

実は、面白いと思われたい、

目立ちたいという気持ちの大半は、

27歳の時、雑誌にイラストが載った時点でシューっと消滅しています。

 

今の人生をひっくり返したくて

イラストレーターになったけど、

わたしという人に、そもそも興味がない人は

わたしが何になろうと興味はない。

 

地元の、不仲だった同級生の反応で悟りました。

 

そこから諦めと、無自覚のスネを抱えたまま

25年惰性でイラスト業を営んでいました。

 

 

わたしの中にある、こう思われたいの奥にはいつも

「わかってほしかった」という

もやもやと蓄積された気持ちがあり、手放すもんか!と、

今思えば無意識で握りしめていました。

 

主体的に生きることを放棄しているからこそ成せる技です。

 

しかしこの頃になると、本来の自分としていきたい!という思いが強くなり

 

ある日、電話で母に、わたしが長年嫌だと思っていたことを全て伝えることにしました。

 

image

 

何かに取り掛かろうとすると、ダメ出しばかり

 

やる気をくじくことばかり言われ続けてきたこと、

理不尽さを感じたままモヤモヤしていたことかな。

 

この時も、おしっこ(心因性頻尿)のことを勇気出して話したとき

「50も近くなるもんが、まだそんな話するかねー!」と

呆れてキレられましたが

 

その返しは想定内だったので

 

わたくし、半泣きでしたが

「わたしはネチネチ言われ続けることは本当に嫌だったし

そもそも不安定な心理状態になっていたのは、

あんたたち親にも原因はあると思う」と伝えました。

 

 

話すことで、お母さんが気が狂ったり

ショックで寝込んだらどうしよう・・と

一番悪い予感までよぎりましたが

 

謝って欲しいと言う目的なぞ、もはやなく

このまま人生が終わったら自分が後悔するという気持ちが動機の「伝えてみる」でした。

 

数日後、恐る恐る家に電話してみると、

母は若干気まずそうで元気がなかったのですが、

 

意外にも「わたしなりに、考えてみた。

わたしたちが悪かった」と謝られ驚きました。

 

母は、母で、あの頃、父があの調子のため

お金がなくてギリギリの精神状態で踏ん張って

共働きで子育てをしてことなど、ポツポツと気持ちを話してくれました。

 

うちは、運よく意思疎通ができたけど、

大切なのは、拗れるまでコミュニケーションを放置せず、

もっと手前で勇気出して、本音を伝えることだったと今でも思っています。

 

「言えれば癒える」

 

のちに心理塾の塾長が伝えてくれた言葉です。

 

わたしだけでなく、母もそうだったのかな?

 

わかんないけどね。

 

(つづく)

 

 

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