「塞翁が馬(さいおうがうま)」は知っていた。しかし読み方は知らなかった。「そく、おう?」と、読めなかったからだ。ただそのストーリーは少し前から聞いていた。遠い国の話として。今ならググったりChatGPTに聞いたりできる。その内容は要するに目の前で怒ることの良し悪しは必ずしも将来の運不運には結びつかないということの喩えである。

 

 人生の私なりの法則性はなんとなく若い頃から感じてきたことがある。それはどんな立場、状態になっても顔を上げて自分を向上させようとすること。どんなにひどい目にあっても被害者の立場に甘んじて、卑屈になればせっかくの解決の糸口も見えなくなってしまう。それが大分後に分かった「塞翁の馬」の逸話で間違いでは無かったと気づけた。

 

 実はあるとき人生のどん底、最高に打ちのめされたことがある。その時私は明らかな被害者であった。思いあまった自◯は一旦未遂に終わった。ならばこうなった張本人たちを◯◯しそのあと◯害しようとしたことがあった。しかし結局いずれもしなかった。

 

 今思えば当時の思考はちゃんちゃらおかしい。まったくもって間違いであった。でも強く追い込まれていた。だから思考回路がズタズタになってしまっていた。当時の状況をいつかKindleなどで告白しようと思う。長い話になるからだ。それはともかく、同じ立場の人に出会ったら、心から同情し、思いとどまらせ、解決策を時間を惜しまず一緒に考えたいと思う。

 

 引用元は大分前に読んだので失念してしまったが、人は放っておくと、自分はちゃんとしているのに理不尽なめにあって被害者だ、それでも負けないで頑張る、そんな自分かっこいい。そんな発想をしてしまいがちだという。誰でもそうかというと、そこは分からないけど自分の周囲をみると確かにそうかもしれない。まあ確かにドラマの筋書きもそこから勝ち上がっていくストーリーが好まれるようだ。娯楽なら良いが、現実世界ならば必ずしも良い方向には向かわないだろう。

 

 一方当時の私は、幾分被害者的な発想を残していた。しかし本物の被害者になったとき、その思考回路は消し飛んだ。そうは言っても今でもまたそういった被害者的な発想になりかけていることに気付くことがある。しかしそんなときは、アホか、あの時と比べたら1億分の1にもならんわと笑い飛ばせるようになった。

 そして今は一切を満足した毎日を送ることができて心から充実している。ただ塞翁に言わせればそんな良いことも、ずっと続くわけではないことになる。それも分かっている。ただ私はこの瞬間をぎゅうっと感謝している。後年も今この時を支えてくれた人たちを感謝しながら思い出すだろう。

 昨日は秋田へちょっとドライブした。写真は森の駅にて絶品長四郎セット。

 塞翁が自分の息子が馬から落ちて足を骨折した時、どんなに打ちひしがれただろう。周囲の人も気の毒にと同情して、普段の安定した心の有り様も揺れたかもしれない。しかしそこで腐らず一貫と自分を被害者にしない心の安寧こそより良く生きる姿勢なのだろう。