読み歩き、食べ歩き、一人歩き(1074)堀部安兵衛は個人主義? | DrOgriのブログ

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今日は赤穂浪士が吉良邸に打ち入った日。
そんなタイミングで、『武士道の名著−日本人の精神史』(山本博文著、2013年、中公新書)などという本を読みました。『甲陽軍鑑』から新渡戸稲造の『武士道』まで、近世以降に書かれた12編の著作が紹介されています。

そのなかに、堀部武庸(たけつね)の残した『堀部武庸筆記』がありました。堀部武庸の通称は安兵衛。そうです、あの堀部安兵衛です。安兵衛は浪人中に叔父を助太刀して武名を上げ、その縁で播州赤穂家の家臣だった堀部金丸(あきざね、通称は弥兵衛)の養子になって赤穂藩に仕えました。江戸勤めだった安兵衛は主君長矩(ながのり)の刃傷・切腹の後、幕府の裁定に抗議して赤穂に下って籠城を主張しますが、反対されます。江戸に帰った後も、吉良上野介義央(よしひさ)への復讐を主張する急進派として活動しました。
武士の喧嘩は「両成敗」のはずです。ところが、上野介は存命でお咎めもなし。安兵衛は不満でした。赤穂藩再興の望みが絶たれたあと、結局は討ち入りとなって安兵衛は弥兵衛ともに参加します。

小説やドラマなどでよく知られた話なのですが、山本博文さんの記述で興味深いのは、安兵衛の関心が上野介個人だったという点です。大石蔵之介良雄などには隠居した義央でなくとも吉良家の当代を討てばよいという考え方もあったようですが、安兵衛は賛同しません。安兵衛にとっての武士道は、あくまで主君の鬱憤を晴らすことにありました。これは合戦ではなく、あくまで復讐・仇討ちなのです。安兵衛にとって「武士の一分」は、主君の行動の是非ではなく、あくまで主君の「気持ち」に寄り添うことにありました。筆頭家老の大石とは発想が違います。なにやら個人主義風ですね。


ただ、安兵衛はむやみに突進して犬死することは潔しとしませんでした。事は確実に運ばねなりません。その面では合理的です。だからこそ独断専行で突進せず、大石らに対して説得を試み、それが『筆記』として残されたのでしょう。
筆者の山本さんによれば、思想としての武士道について全体像を過不足なく述べた文献はないそうです。『甲陽軍鑑』のような軍略書、堀部安兵衛個人の筆記、または宮本武蔵の『五輪書』のような兵法書など多くの武士たちの行動と発想から浮かび上がり、多くの武士たちが共感し伝えてきたものが「武士道」の正体なのです。

山本さんは、最後の12冊目に新渡戸稲造の『武士道』を選びました。これは英文で書かれたものですが、山本さん自身が翻訳しています。ただ、これは他の11冊とはまったく異なって、武士や日本人に対する偏見を外国人に改めてもらうことが目的の書物のようです。そして、時代の面でも、もはや武士が階級としては消滅し、武士道もまさに廃れようとしているタイミングで書かれました。これは、いわば新渡戸自身の「理想の日本人」を描いたものだとも言えます。いささかロマンチックに過ぎる印象は残りますが。

この『武士道の名著』は、文章も平易で各「名著」の紹介文も短いです。どの紹介から読み始めても良いように書かれています。私のようなズボラな読者にありがたい限りです。

それにしても、武士や武士道ほど「ジェンダー・イメージ」が強烈なものもないですね。「男」らしさの究極の姿と言ってもよいでしょう。巴御前のような例外はあるでしょうが。この点について、誰か書いてないかなあ。探してみましょうか。
『葉隠』の「武士道と云は、死ぬ事と見付けたり」という有名な一節があります。
不謹慎の誹りは覚悟で言い換えると・・・
「武士道と云は、男の痩せ我慢と見付けたり」といったところでしょうか。もちろん、命懸けの痩せ我慢でしょうが。