雨の宮城県・名取市に行ったのは、第59回日本社会学史学会の大会があったからです。
報告は土曜日に終わり、日曜日はシンポジウム。
いつも思うのですが、学史学会のシンポジウムって、けっこう本格的で、登壇者の人数も多い方です。
報告者が3人、討論者が2人。司会が2人。
テーマは「グローバル化と各国社会学理論の新潮流––ヨーロッパの社会学––」
ドイツとフランスとイギリス、それぞれの社会学理論の新しい事情について話がありました。
①「マルチパラダイムの終焉? 2018年ドイツ社会学会ゲッティンゲン大会短報」(森川剛光先生:慶應義塾大学)
②「社会的行為者と社会的世界––ブルデュー社会学との距離をめぐって––」(村井重樹先生:島根県立大学)
③「グローバリゼーションと再帰的近代化––ギデンズからラッシュへ––」(中西眞知子先生:中京大学)
討論者
①三上剛史先生(追手門大学)
②白鳥義彦先生(神戸大学)
各先生がたのお話を聴くと、表題にある「グローバル化」と「各国社会学」のうち、前者よりも後者に重点が置かれていたように思われました。
森川先生からは、ドイツ社会学会(DGS)がドイツ連邦共和国で博士号のある社会学者の8割が所属し、ドイツの社会学全体を代表する団体だという紹介がありました。そして、その巨大学会からAS(Akademie fur Soziologie)という団体が分離・独立したという新しい動きも話されました。これは、主に数理的・計量的な志向を持った社会学者の集まりだそうです。
報告の表題にある「マルチパラダイム」は、ドイツの社会学の「伝統的」なあり方を示す言葉でもあります。何か単独の理論志向や方法論にあえて統一せず、多様な領域とパラダイムに開かれているのが、これまでの(マックス・ヴェーバー、フェルディナント・テニエス以来の)ドイツ社会学だったというわけです。社会学には「人間学」「文化学(Kulturwissenschaft)」の伝統が生きているのです。しかし、そうした伝統に敢然と挑んだのがASでした。
森川先生によれば、AS側の意見では「社会学者の間でしか通用しないような用語は不要。政策に役立つ科学でなくてはならない」とのことです。ASの人数は今現在200人くらいだそうです。ちなみに、DGSは会員が12万人います。ASは微々たる勢力に見えますが、多様な社会学の研究会や学会がある日本とは違ってDGSというマンモス学会が全てを仕切っていたドイツではAS登場のインパクトは相当に強かったようです。
ただ、森川先生のAS評価は高くありません。むしろ、不毛な論争に陥っているとのことです。かつての「実証主義論争」(1960年代)もまた、森川先生によれば不毛なもので、かなりの程度「学問外」の面が強いというお話でした。
村井先生からは、ピエール・ブルデュー(1930-2002)以後のフランス社会学について興味深いお話が聴けました。ブルデューのハビトゥス概念は個人には意識されない認識・行動の傾向ですが、社会文化的な構造と行為者の表象とを繋ぐものです。村井先生は主にハビトゥスをめぐるフランスの理論家(ルナール・ライール、ブリュノ・ラトゥールなど)による批判を紹介しました。村井先生によれば、ブルデューへの批判議論の共通点は2つあります。
①行為者あるいはハビトゥスの統一性・単一性・均質性(への批判)
②行為者自身の反省性/批判能力の欠如(への批判)
(なにやら、1960年代のパーソンズ派機能主義に対する批判に似てますね)
中西眞知子先生は、イギリスの現状について、特にアンソニー・ギデンズ以後のグローバル化(再帰的近代化)論についてお話がありました。その中心は、スコット・ラッシュという理論家です。
ギデンズは西欧近代の成功と普及が、却って西欧近代そのものに反省を迫っていることを指摘しました。ただ、ギデンズ自身は楽観的で、西欧近代は西欧近代によって反省され、乗り越えられるものと捉えられていました(高度近代:High-Modenityなんて呼ばれます)。しかし、西欧近代の原理が地球的に拡大した結果、西欧そのものは衰退します。再帰的近代化も高度近代もグローバルには通用しなくなります。
ラッシュは、再帰性の中身を問題にします。ギデンズやウルリヒ・ベックらの再帰性はあまりに啓蒙的で認知的なものでした。暗黙の文化的な領域や高度な情報化社会には通用しないのではないか? ラッシュはグローバル資本主義が内面的・精神的な領域に影響するようになってきたと述べます。GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)は、ラッシュが「プラットフォーム」と呼ぶグローバル無意識の場を構成しています。それは、我々の五感、本能、感性、消費と労働、思考にまで深く入り込みます。ラッシュは、こうしたGAFAなどのプラットフォームに対抗するには、美的で解釈的な再帰性によって共同体を回復させる必要があると述べます。GAFAに回収されない感性が要請されるわけです。
討論者の三上剛史先生からは、GAFAの問題がすべての問題を象徴しているというコメントが出ました。三上先生は、内閣府が提唱する「Society 5.0」を例に挙げ、情報化社会の次の段階がいかに問題に満ちているかを示しました。「ビッグデータ」が社会理論を変えるかもしれません。個人個人から「ビッグデータ」をクラウドへと自動的に吸い上げることで、もはや社会理論はいかなる「視点」や「パラダイム」なしに直接に社会を分析できる時代がくるかもしれないとのことでした。「データと情報の勝利」は話して到来するのだろうか?
フロアからは、佐藤成基先生から、今や国ごと社会学を論じる意味があるのかという疑問が出されました。
同じくフロアから、新睦人先生から、グローバル化にもかかわらず、国ごとの違いこそが大切だという趣旨の発言がありました。
(どなただったか、森川先生だったか、国よりの「言語圏」が重要との回答があったように記憶しています。)
私は、お二人の一見対照的なご意見を受けて、「森川先生の報告のように<ビッグネーム>ではない社会学の動向も重要。確かに経済学などは英語という共通語で国際的なコミュニケーションが行われているが、<社会学の社会学>という観点からは、各国の<社会学者事情>は大切な分野ではないか」という趣旨で発言しました。
また、「ビッグデータによるパラダイム不要論には疑問がある。同じ数字でも社会や文化によって意味が異なる。社会学は、全数調査データでも、誰が使用するかによるのではないか」という趣旨の発言もしました。(三上先生がよく引用されるルーマンの「機能分化」論との整合性を訊いてみたかったですが、それは遠慮しました。)
早川洋行先生からは、「グローバル化の意味がそれぞれの報告で異なっているのでは?」という発言がありました。「日本では、以前から<アメリカ化>というイメージで語られてきた。報告で聴く限り、ドイツではまさにアメリカ化(定量化)、フランスでは<脱フランス化>、イギリスでは<西欧的価値の普遍化>といった印象になる。」 さすがに、鋭い指摘ですね。
霧雨が降って、この日も肌寒かったのですが、重厚な議論が聴けて、幸せな日でした。
大学ブランドのクッキー。
早割の指定があるので、新幹線まで時間がそうとうにあります。
仙台駅でようやくありつけた牛タン定食(テールスープも)。






