彼の良いところは、リアリストであること。
しかも素朴な意味で。
素朴でなければいけません。
間違っても、ヒュームとかフッサールとか、ヴィトゲンシュタインとかではいけません。
ましてや、構築主義なんてとんでもないです。
「恋愛」なんて言葉・言説がなくたって、そんな熟語が存在しなくたって、恋愛は「あった」のだと言い切らないと、リアリストではありません。
「江戸学」だの「江戸しぐさ」だのを信じてはいけません。
江戸?
いつの江戸?
江戸のどこ?
江戸の誰のこと?
「日本」?
いつの・・・?
(以下、同文)
私の頭にある(つまり勝手に想定している)歴史的理性とは、そうしたリアリズムのことなのです。それは、近代以前にも存在したのです。中華帝国の歴史家たちは権力と歴史的理性との狭間で苦悩したのでしょう。全員が全員そうではないでしょうが、苦悩した人がいたことが資料に見えます。
『春秋左氏伝』(襄公二十五年)にある「齊崔杼弑其君光」(齊という国の崔杼という者は、自分の主君だった光公子を殺害した)という簡潔な記述について、権力と歴史家との葛藤がありました。後の『史記』にこうあります。「齊太史書曰「崔杼弑莊公」,崔杼殺之。其弟復書,崔杼復殺之。少弟復書,崔杼乃捨之。」
「大史(という役職の者)がこう書いた。齊の崔杼は、莊公を殺害した。」「其君を弑(しい)す」と書いたこの歴史家は殺されました。権力者は事実を隠し、葬り去ろうとしたのです。それでも、その弟は、再び同じことを記録しました。彼も殺されました。しかし、そのまた弟も同じことを記録します。ついに権力者も諦めて、その記録が残りました。
これは本当に史実なのか? 崔杼に殺されたとされる主君(光=荘公)はどんな人格でどんな行動をしていたのか? そんなふうに批判的に読むこともできます。ただ、それもこれも、記録が残っているからこそできることです。
古谷さんの博覧強記ぶりには感心したのですが、どの人物も記述が短すぎて消化不良を起こしそうです。相手によって厚薄・濃淡の差があります。
ドストエフスキーについて『罪と罰』も『カラマーゾフの兄弟』も触れないで論じるなんてできるのでしょうか。トルストイは作品を挙げています。キリスト教の好き嫌い以前に、とりあえず内容を批判すべきでしょう。
リヒャルト・エンデに関しては思わず笑ってしまった展開がありました。
「エンデは、娯楽的なオカルト作家」という「結論」(?)になるのですが、根拠が不明(というかむちゃくちゃ)です。「・・・エンデもオカルトではないかとされている」・・・(誰が言ってるの?)。」
文脈的に、子安美智子さんという「熱心な推薦者」がスタイナー(だかホーリスティック)という「オカルト」に傾倒しているから? 『ユリイカ』のエンデ特集で「オカルト」に言及されたのを彼女が喜んだから? どんな理屈でエンデを「オカルト」にしたのか私の頭では少しも理解できません。小谷野さんは子安さんとは面識もないそうです。
何か、ツイッターか素人のブログのまとめのようですね。
(アマゾンのコメントでも同様の言及がありました。)
小谷野さんの場合(小谷野さんだけではないか・・・)、批判よりも褒めている方が参考になります。批判といっても、「面白くない」「たいしたものとは思えない」という体の話ではそれこそ「面白くない」です。小谷野さんは、たとえば、曲亭馬琴をかなり評価していて、私もちゃんと読んでみたいと思ったりしました。
権威を疑うと同時に、自分の感性・理解力をたまには疑った方がいいです。「自分は読めていないかもしれない・・・」という構えです。実際、小谷野さんには「読めていない」風の言説も多いです。まあ、他人のことはとやかく言えませんがね。ただ、私だって専門とか一応ありますので。
天邪鬼は、天邪鬼に対しても天邪鬼であるべきです。
もちろん、小谷野さんは魅力的です。
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小谷野さんについては、けっこうブログにしてますね。
読み歩き、食べ歩き、一人歩き(77) 科学と哲学
http://ameblo.jp/drogri/entry-11076687260.html
読み歩き、食べ歩き、一人歩き(309) 日本論の反面教師たち?
http://ameblo.jp/drogri/entry-11382191538.html
読み歩き、食べ歩き、一人歩き(337) もてない男の恋は哀しい?
http://ameblo.jp/drogri/entry-11473907345.html







