読み歩き、食べ歩き、一人歩き(777) 天邪鬼は楽しい。 | DrOgriのブログ

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おやじが暇にまかせて勝手なことを書くブログです。日々の雑記や感想にすぎません。ちらっとでものぞいてくだされば幸せです。

「読み歩き・・・」777回目。
スリーセブンの記念?
 
権威に弱い人と権威にやたらと逆らう人・・・
どちらもあまり好きになれませんが、どちらの方を参考にするかと言われれば、権威に逆らう人の言い分を私は聴きます。
権威というのはこれまで多くの人が信奉してきた人や事柄のことでしょう。
で、新しいことは反骨から来るのではと思うわけです。
 
小谷野敦さんは、アカデミズムの権威に抗してきた一人です。
ご本人はそんな気はなかったのかもしれませんが、私の眼にはそう映ってきました。
最初に読んだのは、『日本文化論のインチキ』。
次は『日本恋愛思想史』。
実に面白かったです。
自分もいわゆる「アカデミズム」に少々関わっている身としては、小谷野さんのスタンスに多少憧れもあります。権威に逆らうというよりも、権威を「疑う」という態度がそれです。それは、自分の眼や感性を信じるということでもあります。
 
 
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彼の良いところは、リアリストであること。

しかも素朴な意味で。

素朴でなければいけません。

間違っても、ヒュームとかフッサールとか、ヴィトゲンシュタインとかではいけません。

ましてや、構築主義なんてとんでもないです。

「恋愛」なんて言葉・言説がなくたって、そんな熟語が存在しなくたって、恋愛は「あった」のだと言い切らないと、リアリストではありません。

「江戸学」だの「江戸しぐさ」だのを信じてはいけません。

江戸?

いつの江戸?

江戸のどこ?

江戸の誰のこと?

「日本」?

いつの・・・?

(以下、同文)

 

私の頭にある(つまり勝手に想定している)歴史的理性とは、そうしたリアリズムのことなのです。それは、近代以前にも存在したのです。中華帝国の歴史家たちは権力と歴史的理性との狭間で苦悩したのでしょう。全員が全員そうではないでしょうが、苦悩した人がいたことが資料に見えます。

『春秋左氏伝』(襄公二十五年)にある「齊崔杼弑其君光」(齊という国の崔杼という者は、自分の主君だった光公子を殺害した)という簡潔な記述について、権力と歴史家との葛藤がありました。後の『史記』にこうあります。「齊太史書曰「崔杼弑莊公」,崔杼殺之。其弟復書,崔杼復殺之。少弟復書,崔杼乃捨之。」
「大史(という役職の者)がこう書いた。齊の崔杼は、莊公を殺害した。」「其君を弑(しい)す」と書いたこの歴史家は殺されました。権力者は事実を隠し、葬り去ろうとしたのです。それでも、その弟は、再び同じことを記録しました。彼も殺されました。しかし、そのまた弟も同じことを記録します。ついに権力者も諦めて、その記録が残りました。

これは本当に史実なのか? 崔杼に殺されたとされる主君(光=荘公)はどんな人格でどんな行動をしていたのか? そんなふうに批判的に読むこともできます。ただ、それもこれも、記録が残っているからこそできることです。

 
 
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いけない、小谷野さんから話が逸れました。
 
今回覗いてみたのは、『本当に偉いのか―あまのじゃく偉人伝』(新潮新書)。
古今東西の「偉人」を各分野取り混ぜて88人を論評の俎上に乗せています。
 
 
けっこう期待して読んだのですが(帯の文句が煽り気味?)・・・
一読しての感想は、「玉石混淆」。ただし、玉<石ですが。
例えば、ナポレオンについては、まったく同意見です。
一世は誉められ過ぎ、三世は貶され過ぎ・・・その通りです。
吉田松陰についても、共感できるところが多いです。
明治の元勲が弟子に多かったので持ち上げられたという面があるのは確かでしょう。
そもそも「攘夷」など見当違いだったわけですし。
仮に、ペリーが彼の望みをきいて渡米していたら、どう変わっていたでしょうね。
 
歴史上の「偉人」については「そういう見方もあるかなあ」って感想を持てたりします。
日本の小説家や思想家については小谷野さんの専門なのですから(私の知らない人も多いし)、これも「そうなんだ」って感想になりがちです。
しかし、外国文学や外国の思想家については、意見を異にすることが少なくありません。
ゲーテの『ファウスト』って、この人わかってない・・・
カントやヘーゲルを、この人は本気で読んだんだろうか・・・
そもそも自然科学と歴史学以外に「学問」を認めていない風ですね。
 
それはそうと、そもそも「偉い」ってどういう意味でしょうか。
私などは、そこのあたりから疑問に思ってしまいます。
 
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古谷さんの博覧強記ぶりには感心したのですが、どの人物も記述が短すぎて消化不良を起こしそうです。相手によって厚薄・濃淡の差があります。

ドストエフスキーについて『罪と罰』も『カラマーゾフの兄弟』も触れないで論じるなんてできるのでしょうか。トルストイは作品を挙げています。キリスト教の好き嫌い以前に、とりあえず内容を批判すべきでしょう。

リヒャルト・エンデに関しては思わず笑ってしまった展開がありました。

「エンデは、娯楽的なオカルト作家」という「結論」(?)になるのですが、根拠が不明(というかむちゃくちゃ)です。「・・・エンデもオカルトではないかとされている」・・・(誰が言ってるの?)。」

文脈的に、子安美智子さんという「熱心な推薦者」がスタイナー(だかホーリスティック)という「オカルト」に傾倒しているから? 『ユリイカ』のエンデ特集で「オカルト」に言及されたのを彼女が喜んだから? どんな理屈でエンデを「オカルト」にしたのか私の頭では少しも理解できません。小谷野さんは子安さんとは面識もないそうです。

 

何か、ツイッターか素人のブログのまとめのようですね。

(アマゾンのコメントでも同様の言及がありました。)

 

小谷野さんの場合(小谷野さんだけではないか・・・)、批判よりも褒めている方が参考になります。批判といっても、「面白くない」「たいしたものとは思えない」という体の話ではそれこそ「面白くない」です。小谷野さんは、たとえば、曲亭馬琴をかなり評価していて、私もちゃんと読んでみたいと思ったりしました。

 

権威を疑うと同時に、自分の感性・理解力をたまには疑った方がいいです。「自分は読めていないかもしれない・・・」という構えです。実際、小谷野さんには「読めていない」風の言説も多いです。まあ、他人のことはとやかく言えませんがね。ただ、私だって専門とか一応ありますので。

天邪鬼は、天邪鬼に対しても天邪鬼であるべきです。

もちろん、小谷野さんは魅力的です。

『日本人のための世界史入門』(新潮新書)は良い本です。
彼の「歴史」に関する理解の仕方が私の胸にすとんを落ちるのです。
「歴史は、偶然の連続」
「歴史の法則なんてない。」
カール・ポパーの好きな私は、反ヘーゲル的な志向に共感してしまいます。
「evolution」を「展開」と訳すべきだというのは概ね賛成です。
タルコット・パーソンズの専門家を自任する私ですが、社会進化だけは疑問に思っていますから。
 

 

 

 

小谷野さんについては、けっこうブログにしてますね。

 

読み歩き、食べ歩き、一人歩き(77) 科学と哲学

http://ameblo.jp/drogri/entry-11076687260.html

 

読み歩き、食べ歩き、一人歩き(309) 日本論の反面教師たち?

http://ameblo.jp/drogri/entry-11382191538.html

 

読み歩き、食べ歩き、一人歩き(337) もてない男の恋は哀しい?

http://ameblo.jp/drogri/entry-11473907345.html

 

 
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小谷野さんのマックス・ヴェーバーとかエミール・デュルケムとかへの言及について「もっと読んでから書けよ」って思ってましたが、それは小谷野さんについて私が書く場合にも当てはまることですね。
もう少し追いかけてみましょうかね。