読み歩き、食べ歩き、一人歩き(123) 犠牲になるのは誰? | DrOgriのブログ

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福島へ。
常磐線の車内で、高橋哲哉さんの『犠牲のシステム 福島・沖縄』を読みました。

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毎週仕事で福島に通っている身としては、どうしても読まないわけにはいかない本です。

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高橋さんによれば、沖縄も、福島も、そして「靖国」も、日本社会に組み込まれてきた「犠牲のシステム」を体現した問題群なのです。

経済成長も安全保障も、高橋さんの言う「犠牲のシステム」に依存してきたのです。
現代日本には、「犠牲にする者」と「犠牲にされるもの」とが存在します。
そこでは、或る人々の利益が他の人々の犠牲によって生み出されています。
しかも、犠牲は隠蔽されるか、美化される傾向にあります。
利益を得ている者(犠牲にする側の者)は、責任から逃れやすくなっています。

福島の原発事故は、明白に「人災」です。
責任者がいるはずです。
「安全神話」を言い立ててきた人々が追及されるべきです。

ただ、私がこの本で注目したのは、「犠牲の美化」という問題(本書の第3章)です。
石原東京都知事の「天罰」発言も、内村鑑三の「天譴論」すらも、個人の死の意味づけを「押し付ける」ことになるのではないか。
共同体のための、また高邁な思想のための「麗しい犠牲」などという思考それ自体に対して、私自身以前から強い疑問を抱いていました。
それは、「靖国」という日本の社会に今なお大きな影を落としている問題にも通じます。
宗教としての靖国神社に対する信仰が尊重されねばならないのは言うまでもありません。
しかし、慰霊に関わる信仰の自由や宗教の持つ「政治的機能」など、様々な次元で「靖国」は大きな課題です。
高橋さんの前著『靖国問題』をもう一度読みなしたいと思いました。


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著者の高橋さんはいわきで生まれ、福島県内で成長し、東京で活躍しています。
福島をはじめとする「地方」に原発のリスクを負わせて利益を享受している東京住民の一人として、ご自分の責任についても言及しています。
哲学者らしい潔さと徹底ぶりです。


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いわき(たいら)はかつては炭鉱の町でもありました。
こんなスィーツを見つけました。
一日も早い復興を願います。

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)/高橋 哲哉

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