授業などで好きなことをしゃべりちらしていると、それまで大して考えてこなかった事柄が改めて浮かび上がってくるものです。
21世紀の今日、宗教はどんな意味があるのか(ないのか)ということを話していたときに、ふと思いました。
一般論として正しいことも、都合良く利用されることもあるのかな・・・
先進国で一般的になっている「政教分離」ですが、事は単純ではなさそうです。
世俗主義(secularism)またはライシテ(laïcité)という問題が西欧諸国で論じられています。
世俗主義とは、社会の統合にもはや宗教は一切必要ないという考えだといってよいでしょう。つまり、宗教は、民主国家では公共の場から一切退却するべきであり、厳格に私的な事柄として語られるべきであるという考え方です。フランスでは、公的な場で自らの宗教的な立場を示すことは、服装も含めて「禁止」されつつあります。たとえば、ムスリムの女性のスカーフがよく問題になります。「政教分離」の厳格化と言ってもいいかもしれません。
これは、公的な場での、いわば宗教の「禁止」または「締め出し」になっています。いくらなんでもそれは行き過ぎではないかという意見も一方であります。
しかし、国家と教会とを分離して建国されたアメリカ合衆国では、一面で厳しい「政教分離」を制度化しながら、政治家であれ有権者であれ「本音」では相当にキリスト教的です。大統領の宣誓式では聖書に手を置いて宣誓します。
ドイツでもフランスでも、実は社会事業(福祉など)を教会や修道院などの宗教団体が担ってきた伝統があります。むしろ、キリスト教という多数派が少数派のアジア系・非西洋系宗教(ムスリムがその代表)を締め出そうとしているのではという推測もできそうです。多数派の宗教は、その社会の習俗として一般化してしまっているので、そうした「分離」の対象にならないのです。
何にしても、どこの世界でも、多数派や強い立場の者は少数派に対して「無神経」になりがちです。
とはいえ、多数派/少数派というのは「相対的」な事柄です。私だって、ある人たちから見れば「恵まれて」「無神経で」「いい気な」人間の部類かもしれません。
サンジェルマンのパンとキャラメルカフェ。
授業のネタです、マックス・ウェーバー。
恐れ多いですね。
古典大家は、いつも新鮮です。
iPhoneからの投稿

