サン・ジェルマンで、昼食。クルミパン(手前)は日曜日の定番です。
ジョン・スチュアート・ミルの名著『自由論』(On Liberty)を、今回も漫画で読んじゃいます。
例によって、物語仕立てで話が進みます。
若き熱血弁護士ケビンとリベラルな国会議員レナードが活躍します。
ケビンは無神論者に対する差別に挑みます。当時(19世紀)の英国では、「神を信じる」と法廷で宣誓しない者は証言を許可されなかったのです。内心では神を信じていなくても、信じていると表明すれば証言台に立てますが、正直に無神論を表明した者は証言できない。ケビンは、矛盾を鋭くつきます。
内心の問題で差別されてはならない。信教の自由というケビンの(そしてミルの)思想は、今や多くの国では当たり前になっていますが、そうなるには多くの人の苦闘があったのです。
レナードは、普通教育法案を提出し、実現に努めます。子供は親の「持ち物」ではありません。「親の自由」を制限し、政府の補助を給付する目的はどこにあるのか。それは、子供に「機会の平等」を与えることによって人生を生きる自由を得させることであり、また個性と能力を将来の世代が持つことで国家の反映に資することです。
自由を意味する英語は2つあります。
freedomとlibertyと。
強制「から」自由であること(freedom)と、何かを「する」自由(liberty)は、一体です。その根本は、「個人の無前提な自由」という信念です。近代の社会哲学の基本理念でもあります。
もちろん、各人が自分だけの自由を追求すれば衝突が起こります。互いに他者に対する規制は必要です。ただ、いわゆる自由主義では、個人への規制を最低限度に抑えるのが原則です。
規制の原則はたったひとつ、「自分の自由を守るためにしか、他人の自由を制限してはならない」というものです。
ですから、本人が「愚かなこと」をしても、それは本人の問題だから、他人や社会に悪影響がない限り、原則的に「干渉」してはいけないということになります。「愚行権」などという言葉もあるくらいです。ただ、それは判断力のある大人の話です。子供には保護と指導が必要です。
自由は「実現」するもの、能動的に「守る」ものです。野放図のことではありません。人間が本当に自由であるには、本人が「強く」「賢明」でなければいけないでしょうし、社会にもまた一定の「制度」が必要です。
人間は不完全な存在です。「自由」であるためには、互いの「謙虚さ」もまた必要かもしれませんね。
月曜日は、代休でした。渋谷の名曲喫茶ライオンから吉祥寺へと移動。
やはり、一日の締めは、スィーツかな。
ルノアールでクリームあんみつ。
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