今日の(今日からの)ニーチェ(6) | DrOgriのブログ

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ニーチェの愛と友情(2)

 

 ルー・ザロメのこと

 

 

 

 ニーチェが最も愛した女性を挙げるなら、それは2人いる。ひとりは妹のエリーザベトで、もうひとりはルー・ザロメ(1861-1937、後にルー・アンドレアス・ザロメ)である。


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 ルーは、ロシアの軍人貴族の娘に生まれ、末子でしかも唯一の女子だった。兄たちに囲まれて何不自由のない幼年期を過ごした。幼い頃から気性が激しく、かつ夢想的な少女だったようである。母親は信仰心の篤いプロテスタントだったが、ルーはむしろ身近な親しい存在として神を求めていた。

 

 牧師のヘンドリク・ギロートと出会い、傾倒し、自立心を養ったルーは、チューリッヒ大学へと進む。ギロートの求愛を振り切って、新しい天地を求めた。母親の猛反対も押し切った。19歳のときだった。

 

 大学の教師たちから高い評価を得たルーだったが、健康を害し、ローマの女権運動家マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク女史のもとに身を寄せる。ここで、後に同棲するパウル・レーと知り合った。レーを通じて、ルーはニーチェの存在を知る。知り合った当初(1882年)の彼らの年齢は、ルーが21歳、レーが33歳、そしてニーチェは38歳だった。ニーチェとルーの年齢差は17年である。

 

 しかし、ニーチェはルーの聡明さと豊かな才能に夢中になる。当時のニーチェは、リヒャルト・ワーグナーと決別したあと、ちょうど「永遠回帰」の思想がひらめいた直後だった。

 

 私のような凡人の目にはまったくの「三角関係」に映るのだが、ニーチェは3人での「精神的」な共同生活を企てる。ニーチェと(ライバル)レーとは、知的な傾向が正反対だったようだ。ルーは2人を鋭く観察し、その違いを文章に残している。ニーチェは「認識の衝動」が「全人格をつかみ」、ほかのすべての衝動を支配している。それは「宗教的」とも言える「激情的融合」だった。他方、レーは「論理的なものが肉体的なものの影響を断固拒否する」という意味では強靱な冷静さを持っている。それは、科学的な怜悧さでもあった。ニーチェの求愛は退けられる。表面上、ニーチェの敗北、レーの勝利といった結果になった。

 

 しかし結局、このレーも、ルーとフリートリヒ・カール・アンドレアスとの結婚によってルーの前から去ることになる。このアンドレアスという男は、ペルシアの王族の血をひくという触れ込みでルーに近づいた。東洋の神秘を身にまとった独特の空気を持つ男だったようである。しかし、何といっても決定的だったのは、彼が上記2人の「学者先生」にはない行動力を持っていたことである。ルー自身の回想によれば、求愛を拒否されたアンドレアス氏は突然持っていたナイフで自らの胸を突き刺した。驚いたルーは医者を呼び、警察沙汰にもなった。

 事の真実はともかく、結果としてルーはこのペルシア人の末裔と結婚した。ただ、ルーにとって「結婚」が何ほどの意味を持ったのだろうか。彼女は夫アンドレアスにレーとの(もちろん知的な)交際を続けることを結婚の条件にしたようであるが、レーの方が遠ざかってしまった。とっくの昔に振られたニーチェの方は、失恋の痛手をエネルギーに替えたかのように、孤独な中、猛烈なスピードで『ツァラトゥストラ』を書き上げる。ルーは、その後、フロイトに師事して精神分析学の使徒となり、若き詩人ライナー・マリア・リルケと交際を深める。

 ルーの物語を読む限り、彼女はいかにも自由である。それはおそらく、当時の女性たちのなかで例外的な存在だったからだろう。彼女に比べれば、歴史に名を遺した思想家たちの方がいかにも不自由に見える。ルーは自分の名が世に知られることに関心がなかったようである。

 はたから見ている限り、ニーチェは失恋の現実を乗り越えて、ニーチェ流の言い方を借りれば「自分の運命を愛する」ようになっていった。人間の幸福は、いかに「自分自身から自由」であるかにかかっているように思われる。どうも、男というのはかなり「痛い目」をみないと自由にはなれないようだ。


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 以上の恋愛劇のおかげで、ニーチェ先生もかなり身近に感じられた。だからといって、私ごとき、振られて却ってよかったなどと言えるにはまだかなりの修行が必要である。

 凡人としては、できれば思いがかなう方の運命を愛したいと思う。ニーチェの境地には、はるかに遠い。