閉鎖した公式ブログから、復活記事です。
よろしくお願いします。
「ぶれ」の歴史?
(2019年7月15日加筆修正)
実は結構フラフラしている大阪肛門科診療所 院長の佐々木巌です。
「当たり前のことを当たり前にできる医者になりたい」
と、以前から考えて来ました。
ごく普通のことを、ごく普通に満足してもらえるようにできる医者になりたい、と言う意味です。
また、本当は難しいことでも難しい顔をせずに当たり前みたいな顔でできる医者になりたい、と言う意味でもあります。
現在はそんな心境でおりますが、やはりその時その時の心境がありまして、決してずっとぶれずにやってきたわけではありません。
「こんな医者になりたい」という思いにもそれなりに歴史があります。
そういった自分自身の「ぶれ」の歴史(笑)を振り返ってみようと思います。
ちなみに、過去の「当たり前」に関する記事
https://ameblo.jp/driwao/entry-12021358077.html
医者になるまで
私が医者になった動機は家業を継ぐこと、つまり「大阪肛門病院の院長になること」でした。
大阪肛門病院とは大阪肛門科診療所の前身となった病院で、平成19年に現在の名称に変更しました。
医者を志してからその道中で全く迷いが無かったかというと、決してそうとは言い切れませんが、はじめから肛門科医を目指していました。
大阪肛門病院は、曽祖父の代から続いていて歴史は国内でも有数と聞いていました(実際その通りです)。
素人ながら一流の肛門科の病院でしたから、それに見合った「一流の肛門科医になる」ことが目標でした。
当時は「何をもって一流なのか」について考えたことはなく、「一流ってのは何でもできる」くらいに考えていたと思います。
医者になってすぐの頃
医者になってすぐ社会保険中央総合病院(現 東京山手メディカルセンター)大腸肛門病センターに勤務して修行させていただきました。
同センターは国内有数の肛門科専門施設でした(私は現在も日本一だと思っています)。
年間の肛門手術件数は1,000~1,500例で、当時では単一施設の手術件数としては驚異的な数字だったと認識しています。
患者さんが紹介されて来院することも多く、難しい症例がたくさん集まってきて、それらの手術が滞りなく行われ、術後トラブルの話もほとんど聞くことはありませんでした。
しかし医者になりたての私には、その価値が分かりません。
だって他の施設でどんな風に診療が行われているのか知りませんでしたから(実は現在も知りません)。
しかし、同センターには日本中から、場合によっては国外からも(主に韓国)見学のドクターが訪れます。
そういう見学の先生方から「スゴい手術だったね、いつもこんなに難しい症例があるの?」とか「先生は幸せだね」とか言っていただいて、「ああやっぱりそうなんだ、この施設の上司の先生たちを目指すのが一番の近道なんだ」と思いました。
「肛門科での最高難度の手術でもきっちりこなせるようになりたい」そう思っていました。
名医に憧れた時期です。
大阪肛門病院に戻ってからすぐ
さて、修行半ばで社会保険中央総合病院を辞し、大阪肛門病院に戻りました。
なぜ、修行半ばで辞したのかと言いますと、父が私が医学生の時に急逝し病院は父の親友で仕事上の相棒でもあった田井陽先生が引き継いで下さったのですが、その田井先生がご病気になったのでした。
大阪肛門病院の診療で私が出会ったのは、当然ながら前任者の評判を聞いて来院した患者さん達でした。
前任者の田井先生は、優しい先生で患者さんが痛くないようにいつも一生懸命考えて工夫を重ねておられました。
その甲斐あってか、当院は痛くない手術をする施設という評価をいただくようになっていたのです。
田井先生がご病気になり、突然後任として呼び戻された私ですが、患者さんの「痛くない」の期待をひしひしと感じながら手術をする日々でした。
複雑痔瘻などの難度の高い手術は少なく、ほとんどは痔核・裂肛・単純痔瘻などのごく一般的な病気でした。
数の多い一般的な病気の手術を痛み少なくできる方法を本気で追求することこそ自分の仕事だと考えるようになりました。
それが多くの患者さんの期待に応えることだと気付いたのです。
当時、前任者が急に診療できなくなり経営的に傾いていた関係で、経営のことを意識せざるを得ない時期だったせいもあるかも知れません。
この時期「肛門科でごく一般的で最も多数を占める病気の手術を、どこよりも痛み少なくできるようになりたい」と考えるようになりました。
大阪の師匠、増田先生と出会ってから
その後、ご縁あって増田芳夫先生の門下生となり、多くの目から鱗が落ちる経験をしましたが、衝撃的だったもののひとつが痔瘻手術の基本と言われる切開解放術や、膿瘍切開術を見せていただいたことでした。
「こんなに大きく切って良いの?!」
「こんなにキレイに治るんだ!!」
という経験でした。
私が基本を十分に習得できていないこと、そしてその基本とは何かをとても考えさせられました。
そして一般的で大多数を占めるごく普通の病気だけでなく、複雑痔瘻の手術治療(の基本)をもっと深く理解したいと思うようになりました。
基本的な手術を基本通りにできる医者になりたい、手術の基本を誰よりも深く理解したい、と思うようになりました。
この頃からハッキリと「当たり前のことを当たり前にできるようになること」が目標になります。
以前書いた記事
実は今から2年少し前に「当たり前のことを当たり前にできること」という記事を書いたことがあります。
大阪肛門科診療所 佐々木いわお院長ブログ──『過ぎたるは及ばざるにしかずだよ、佐々木君』当たり前のことを、当たり前にできること
この頃の私は、自身の肛門科診療の中心に据えているものは手術です。
文面からそれが分かります。
「避けられる手術は避ける」「手術を先送りにすることにも意義がある」という考え方を持ちつつ、「でも最後は手術」という考え方です。
手術はしたい(なぜ手術がしたいのかというと手術が最高の治療という自分のポリシー、そして手術がなければ経済的に立ちゆかないという理由です)、手術したいけれど、ガマンする自己犠牲の診療と申しましょうか。
でもこれ以降「もっともっと快適に、手術せず痔と付き合えるような技術がほしい」と考えるようになっていきます。
ポリシーと経営の板挟みですな。
辛くなかったと言えばウソになります(笑)。
現在
最近は少し肩の力が抜けました。
手術件数が経営に及ぼす影響を減らすため診療費を変更したのです。
平たく言えば値上げしました(平成28年より値上げ)。
その効果か、取りあえず、自分のポリシー通りに診療ができるようになりました。
今思い返すと、以前の私は経済的な理由から手術を否定するわけにはいかなかった、というのが本当のところなのかも知れない、と思います。
手術がなければ倒産してしまうような価格体系のままで、「本当に手術はしてもしなくても、どちらでも良い」というポリシーで診療することは、私たちのような未熟者にはできない相談です(苦笑)。
実は現在もまだ少しだけ、手術に依存しています。
今後の課題です(汗)。
今の目標は、当たり前な診療ポリシーで継続経営できる体制を実現すること、でしょうか。
医者としての目標じゃなくなってきましたが・・
そういうわけで、現在もぶれまくりです(笑)。
さいごに
以前は手術とか、診断とか、技術とか、なにかができるようになりたくて一生懸命でした。
近年は診療ポリシーなど、思いが実現できるような、体制作りで苦労しています。
・・苦労しているのはお金を払う患者さんだろう、って?
おっしゃる通りです。
でも商売をしておられる方には分かっていただけると思うのですが、「値決め」ってすごく勇気がいるんですね。
ホントに辛い、キツい、胃が痛い(笑)。
自分でやってみて、はじめて分かりました・・
私ひとりでは荷が重いので、みのり先生の行動力に頼っています(笑)。
でも値上げしたにもかかわらず現在も多くの患者さんに支持していただいています。
本当にありがたいことです。
自分の目標の変化をたどってみました。
ここらで今日の記事を終わります(笑)