某NPO主催のツアーに先週末、参加してきた。
丁度3/1に常磐自動車道が全面復旧したところで、被災地に近い区域は真新しい路面だ。
途中他の地域では見かけない立て看板を見つけた。放射線の線量計である。
一定間隔で置かれていて、最初は1マイクロシーベルト/h以下の数値がずっと続いていたが、ある地域だけ5マイクロシーベルト/hを超える値を示していた。双葉町・・・福島第一原発五号機・六号機がある町。
後から言われて気付いたが、その付近は田んぼの草が生え放題。そして瓦屋根の家々には白いシート。帰宅困難区域のこの付近。瓦屋根が落ちても直せないが、雨漏りを放置すると内装が腐ってしまうのでシートを被せるとのこと。。。
到着後は非常食バイキングをしたり、津波で流された地区を視察したり、被災者・被災地支援に携わった方々・被災地の医師達の話を聴いた。
テレビで見聞きするのと少し違ったように思えたのは、現地の方々が口を揃えて言っていたのは行政への批判ではなく、「自分の身は自分で守るしかない」ということ。
どんなに消防団が避難せよと叫んでも、最終的に個々人が避難しようとしなければ被害は防げない。実際に現場にいたからこそ、行政等の力の限界を目の当たりにしているのだろう。
またもう1つ意外だったのは、放射線そのものより、それを恐れ過ぎるがあまり、外に出なかったり身体を動かさなかったり、避難によって知人と離れたりすることによる、身体的・精神的負担が問題だという、、、放射線による発癌の可能性よりもっと目の前にあるリスクと向き合うべきだというのは医師団の言葉。
少なくともいわき・南相馬・相馬を訪れた印象では、「今でも気にかけているよ」と被災者に伝えること、事実を知ろうとする姿勢を示すこと、そして現地に訪れてお土産をたくさん買っていくことが支援の一つなのかなと感じた。
実際に津波で流されながらも生き残った語り部の方は「東京に戻られたら是非この話を皆さんに伝えてほしいんです」と言っていたのが印象的だった。
「地震から4年経ってもう忘れられているんじゃないかと思うとつらい」「このまま風化させてはいけない」「このことを後世にまで伝えなければならない」そう口々に語っていた。
歴史の教科書には「2011年 東日本大震災」と書かれるのかも知れない。地震や原発事故は確かに2011年だったかも知れないが、震災は今も続いている。
ただ自力で立ち上がりかけている方々が多いのも、また事実なようです。