自分が過去、もはや趣味かと思うほどしょっちゅうネガティブ沼にハマっていたから解るんだが、もう泥水が引いてきてるのに自らネガ沼にい続けようとする時って、要するに「拗ねてる」んだよね。

何かの出来事で悲しかったり苦しかったり腹が立ったりするのは人間である以上当たり前で悪い事でも何でもない。ただ、その感情を感じている渦中と、実はもうそれが終わってるのに「拗ねてる」時は、似ているようで全く違う。


前者はみんなに起きることで、ごく自然な感情反応であり不可抗力。でも後者は、自分の決断次第で実はいつでも止められるものだ。





何かしらのネガティブ感情を感じる事は、ゆくゆく自分を強くしたり、経験値を積み人として器を広げるプラスに出来るけれど、好き好んで延々と「拗ねてる」うちは、事態も人生も好転しない。無論、進化など望めるはずもない。


だって好きでやってるんだもん。気付いてないけど「拗ねる事で得られるメリット」を自分で選んでる状態。イコールそれは、今いるところにしがみついて一歩たりとも先へなど進みたくない、というのと同義だ。


過去のわたしはしょっちゅう拗ねていた。もしかしたらこれからも、拗ねる事があるかもしれない。

でも、自分で「わ、わたし今めっちゃ拗ねてるやん!」と気付いたら、即座にこの不毛な「拗ね」を手放して、泥だらけの足でも勇気を出して一歩を踏み出す強さを持っていたい。


拗ねてるうちは進化どころか前進もしないし、面倒くさいから嫌われる。

別に無理して好かれる必要なんかないんだけど、自分で勝手に「拗ね」をこじらせてると、周囲の人たちも手は差し伸べにくい。


繰り返しになるが、ネガティブになることと拗ねることは違う。


ネガティブ感情は外的要因により立ち上がってくるもので、拗ねというのはそのネガティブを自ら発酵・腐敗させて一人遊びに興じている状態だ。
楽しいなら良いんだけど、きっと本人も楽しくはないだろうから、結果的に誰のことも幸せにしない。


そこから脱する方法は簡単で、自分次第でいつでも止められる「拗ね」を今すぐかなぐり捨てて、ただ「今この瞬間から幸せでいる」と決めればいい。


遠い未来や、歯を食いしばって何かを努力したその先に、「幸せ」という幻があるわけではない。

世の中はきっと、わたしたちが考えるよりずっとシンプルに出来ている。