このところ我が家に大きな変革の波が起きていて、そのあまりの流れの速さに、全然気持ちが付いていかない自分がいた。


本当の望みは解ってるのに、
目指す世界も行きたい場所も見えているのに、


それでもあまりに長いこと、慣れ親しんで骨の髄まで染み込み切った概念や価値観に足を取られ、ココを離れて一歩を踏み出す勇気が持てずにいた。


こういう時、目先の利益や数字、世間的にいう成功や幸せというものを追いかけて強引に進むと間違いなく破綻する。

何が起きても、どんな現実でも、



わたしがいちばんに注視すべきはわたしの心の中。無意識領域に隠れてる本当の声、本心からの叫び。



意識が現実を創っている、というのが真理である以上、まず丁寧に探るべきはここで、ここをクリアにしないことには何ひとつ進まない。



大きな変革のチャンスに直面した時、そのチャンスを無にしてしまおうとジタバタ悪あがきをしてくるのは、他の誰でもなく、新たなる境地へ踏み出すことを恐れおののく過去の自分自身なのだと痛感している。(まだ完全には脱してないから現在進行形)



更に、世界情勢に関心があるわたしとしては、個人的にアメリカ大統領選挙のそれとシンクロしていて笑えてくる程だ。


入念な偏向報道によりすっかり「悪者」のイメージが定着したトランプ大統領の再選を阻むべく、何としてもバイデン氏を推したいあっち側は、史上空前の悪あがきとも言える不正選挙を繰り出してなんとか「世界がひっくり返ること」を阻止しようとしている。

投票率が200%超えてるとか、開票されたすべての票がバイデンとか、やり方が雑過ぎて面白いんだけど、この現象もまた、慣れ切った過去にしつこくしがみついていたい者たちの絶叫なのだと思えば、その偏狭的な執着ぶりも理解は出来る。


個人単位でも、人生の岐路にこれほどの抵抗が起きるのだから、地球規模でのシフトアップに際し、長きにわたり裏で手を組んで来た者たちの集合意識から発せられる抵抗となれば、なりふり構わず暴れ狂いたくなるのも当然だろう。



話が逸れた。


迷うことなく、光の方へ。


今日、殿下を出産後初めて、区の託児サービスを利用して3時間の自由を手にした。

叔母や母に甘えたことは星の数ほどあったものの、お金を払ってプロに頼むのは初の事。


幸い、殿下はほぼ人見知りをせず、女性であれば大抵誰にでも懐くので(これはこれでどうなんだ)、わたしと離れることは心配はしていなかった。


案の定、来てくださったサポーターさんの、子ども慣れした優しげな雰囲気にすぐに好意を抱いたらしく、ソッコー一緒に遊び始めて、わたしが出かける時も手すら振ってくれなかった。笑い泣き





で。


ビックリしたのは、自分が子どもと離れることに強烈な罪悪感を持っている、と気付いたこと。


建前上は仕事ながら、まぁ初の試みだし3時間だけだし、「離れる」こと自体のお試しを兼ねての今日だ。

悩んだ挙句、夫と相談して決めた3時間。


それでも、昨夜たまたま電話した時に父に言われた、「初めてで3時間は長すぎる、せめて2時間にすべき」の声が、何度も頭をこだました。


可哀想だったかな、
離れて心細いかな、
わたしがリフレッシュするために子どもを預けるなんて許されるかな、、、


明らかにわたしの「本心」ではない、



これまで染み付いてきた概念、わたしを苦しめている思い込みや刷り込みからのエゴの叫び



が、後から後から、いかにもそれっぽいダメ出しを飛ばしてくる。



子どもではなく、自分のための自由時間を“お金で買った”わたしの身勝手さに対して。






つくづく今この時に、人の心、意識、現実創造の仕組みというものを知っている自分で良かったと心から思う。


わたしのように、どう頑張ってもこの世に馴染まない生き下手の人間は、この理を知らなければ簡単に病んで自分を責めて、暗くて深い社会の沼にズブズブと沈んでしまうだろう。


それほどこの世には、ただ自分らしく幸せに生きることがとてつもなく困難になるような、目に見えない巧みなトラップが星の数ほどある。




まずそこに気付けるか。
気付いても抜け出そうと思えるか。
抜け出したくても一歩を踏み出せるか。



自分らしく生きる人生とそれに伴う真の自由を、一部の人だけの特権ではなく、本来誰しもに平等に与えられている生まれながらの権利だと思い出せるか。



わずかな選択の差、
選び取る時の意識の明瞭さ、
目的地を見失わない覚悟の深さ。


そうしたものが、後々大きな違いを生むのだと、秒速で変化する自分自身の体感を通して改めて思い知らされている。


わずかな自由時間さえ気持ち良く自分に与えてあげられないわたしが、この先どれほどの幸福を自分に許せるだろうか?


そう考えたら絶望的だが、今のこの、自分自身の根幹からズレた「一般的な道徳観念からくる、現代を生きる母親としての当然の罪悪感」は、幸い自分の本音ではないことが判っている。


気分を良くしない感情、
幸せにならない考え方。


それらはすべてニセモノである。


そして、魂の望み、進むべき道から外れているから今すぐ修正しなさいねというお知らせでもある。


つまり、信じるに値しないのだ、そんなものは。


さぁ、どっちへ進もうか。


家族の在り方や個性や才能の生かし方、育児の仕方を含めたライフスタイルがどんどん多様化するこの時代に、それでもわたしたちは、


男が外に働きに出て、
女は家事育児をして家を守り、
稼いだお金は計画的に貯蓄しつつ、
日々節約してつましく暮らすのが良、


というザ・昭和の一般家庭的な価値観の洗礼をどっぷりと浴びまくって育った。


良い悪いではなく、それが「唯一の正解である」という思い込みが、本来多彩な個性を持つ我々の自由、ひいては選択肢を狭め、画一的な「幸せ」や「成功」に向かう事だけが、無意識にお互いを監視し合う自分たちの目線含め、社会全体から奨励されているようにも思える。


でも、それはもう過去の話だ。

過去の「幸せ」の形であって、これからを、否、いまを生きるわたしたちにハマるとは限らない。


だからこそ、そこから抜けたいと望んだなら、抜けると決めて一歩を踏み出すなら、まずは己の心の中にガツンとしっかり意識を向けて、小さな小さな、小骨レベルの違和感までをも丁寧に拾い上げて取り除く作業が重要になってくる。


このタイミングで今日を迎えたわたしもまた、自分の人生を粋に演出してて流石やな俺、と思った。笑


わたしの考えのように見えても、わたしを不快にさせたり苦しめるものは実はわたしのものではない。

他の誰かから与えられた、もしくは無意識にまで染みついた長年の習慣による思考グセでしかないのだから、ハッキリとそこに気付き、意図的に手放していく、ということを繰り返すといい。


お金を払って数時間の自由を貰ったわたしが、
フルチャージされて満たされて幸せなわたしが、
自分の為だけに好きに時間を使えたわたしが、

どれほどクリアなエネルギーで子どもに向かえるか。



そう考えたら、母親と呼ばれる人種のリフレッシュ、最低週に一度の自由時間は義務化するべきだとすら思うけどね!!いやホントに!!


なんでもかんでも子どものために、
母親は子どもを最優先すべき、
自分を後回しにするのが良い母親、


こういう偏ったイメージは間違いなく、母親のみならず子どもにとっても害でしかない。

子どもは親が思うより強いし賢いし、ママ(パパ)がいないとダメなんてこともないし、本当は新しい世界を見たいかもしれないし、離れることでグンと育つかもしれない。



子どもの可能性を潰したくなければ、親がとことん自由に生きることだ。



その背中を見て、子は育つ。言葉より態度より、子どもが見てるのはわたしたち自身の背中なのだと、改めて理解した秋晴れの1日だった。


控えめに言って、最高。