感情解放のワークショップを2クラス分、計4コマ終えて、抱いた感想は二つ。



人間的に見た時、迷いながらももがいている若い人の姿は美しく、愛しい。


表現者として見た時、演技をコミュニケーションだと認識していない人が多く、その大半は表現できる段階にすらいなくて、ただ承認欲求や自己顕示欲を満たしたいという独りよがりな願望に縛られて、自らがんじがらめになっている。



人としては文句なく愛しいが、表現者としてはクソ温い。



我ながら極端だが、ほんとこの二つだった。



「全力でやれ」っつってんのに「全力」の定義が甘いし、
変に周りを読んで出力指数を合わせて飛び出ないようにしてるし、
平均値を突破して限界見せていくヤツはいないし、
自分の中でぐるぐるしてるエネルギーをちゃんと人に伝えられなさ過ぎだし、

なんだろ。なんだろうね。端的に言って





お前らの何に「この人の演技が見たい(声で聴きたい)」って感じて金を払えばいいわけ?





って甚だ疑問だった。



素人と何が違うのか?
どのあたりをプロとして信頼すりゃいいのか?
そもそもプロ意識あるのか?
あってその程度の出力具合なのか?


もう色んなことがよくわからなくなって、自分が何のためにこの場にいて大声出してナビゲートしてるのかもわからなくなったけど、たぶん現場で出会うこともないだろうからまぁいいや、と半分自分のために諦めたというか見切りをつけてみた。

(そうしなきゃわたしの出力の方が遥かにフルスロットルで馬鹿馬鹿しかったので。)









勿論個人差はあるし、中には自分なりに壁を越えようとしてるなと感じた子もいたが、それでもこっちがのけぞるような圧を放つほどの人はいなくて、なんか寂しい気持ちになったというのが本音。


わたしが言ってる「全力・本気・全開」と、君たちが捉えてるそれに、こんなにも開きがあるのはなぜなんだい?


と不思議だった。



これらはすべて、「表現者として」見た場合ね。





一方、「人間として」見た時。

涙ながらに、
過呼吸気味に、
ヘロヘロになって立つことさえ出来ずに、
声を枯らして、

これまで心のうちに抱えていた傷や痛み、外に出すことをタブーと信じていたであろう恥や秘密の類を、なんとか吐き出そうとして必死に身をよじる彼らの剥き出しの叫びが愛しくて眩しくて、「人間として」の視点にフォーカスした場合、秒で涙が吹き出す程には感動していた。


人間として見たら、みんな美しくて愛しい。


でも表現者としては、


くそ温くてイライラしかしない。



わたし自身のフォーカスポイント、視座の高低を激しく試されているような時間だった。



心穏やかでいられるのは当然「人間として」みんなを見ている時だが、わたしは自己啓発セミナーの講師や宗教団体の教祖としてここに居るわけじゃなく、表現者を目指す子たちに舞台表現及び感情解放を教えるために呼ばれている立場だ。

「表現者として」の目線を打ち捨てて、手放しでみんなを褒めちぎることに恐らく意味はない。


この両方の視点を行きつ戻りつしながら、その時々で感じたことを正直に伝えたつもりではある。


誰にどこまで届いたかはわからないが、人間としての自分をきちんと肯定して自己愛を育みつつ、表現者としての己の甘さと温さを自覚していま一度気を引き締めてリスタートして欲しい、と思った四日間だった。



せめて、全力と本気と全開の定義が一致する人たちにこちらもフルスロットルで向き合いたいなと腹の底から願ってる。



本気の人に本気で伝える機会を作るしかないな。