妊婦健診と帰省の日。
25週目からは、4週間に一回だった健診が2週間に一回になるのでわりかし面倒くさい

しかも今日は中間検査。
前回の糖負荷検査では、うっかり直前にガッツリ中華を食べてしまい見事に引っかかって再検査になった。

幸い再検査で異常ナシだったけど、今日また引っかかると面倒なので、朝食はキャベツと野菜スープのみに留める。
今から1時間、病院内で大人しく待たねばならんのだが、家から歩いて20分ほどのこのクリニックはいつも綺麗で、受付の方や助産師さん、検査技師さんたちも皆さん感じが良く、先生はまぁなんていうかふつうなんだけど嫌いじゃない。
昨年の5月に流産した時もこの病院にかかってたのだけど、不思議なことにその頃から、お腹の大きな自分がもう一度このクリニックに通うイメージが明確に見えていた。
その後とりわけ熱心に子づくりに励んだわけでも、めちゃくちゃ子どもが欲しかったわけでもないのに。
わたしは元々母性の総量が少ないタイプの女で、外で稼いで締める時は締める良き父親になる自信こそあれど、良き母親になれる素養は1ミリもない。
そんなわたしが子どもを授かるというのは、ひとえにこれ宇宙から、
妊娠、出産、育児を経験して、せめて母性っつーものの片鱗を学べ
と言われてるのだろうと思う。
世の中には、子どもを望みながらなかなか出来ない人もいるが、自分の周りを見る限り、そういう女性たちには不思議と、
・もともと母性が強い
・他者への愛が溢れてる
・女から見てもイイ女
・モテる
・思いやり深く心遣いがずば抜けてる
などの共通点があり、偶然かもしれないが、全員美人だ。
思うに、彼女たちには我が子のみならず血縁のない多くの他者に向けて、その生まれ持った甚大なる愛を与えるという尊い使命があるのではないかとわたしは睨んでる。
わたしが子どもで、まだ生まれる前の雲の上から自由にお母さんを選べるとしたら、間違いなく上記の友人や知人、誰がどう見てもイイ女の彼女たちを選びたい。
でも彼女たちはその愛の総量ゆえに、逆に我が子一人に母性を偏らせることなく、人類規模で愛の配布に貢献する人たちなんじゃないだろうか。
そして母親としての人気っつーかあの世での倍率がものすごく高く、胎児となる魂たちが喧嘩をおっぱじめる原因になりかねないから、予め殿堂入りしてるというか、
母性溢れる聖母界のレジェンド
みたいな扱いなのだと思う。知らんけど。
もちろん実際子どもを生みながら、聖母のごとき母性や愛を持っている女性も星の数ほどいるけれど、わたしに限ってはどうしても、妊娠、出産、育児は魂レベル向上の為の義務及び実地研修としか思えないので、要するに子を持つかどうかという点においても例外はなく、その人それぞれに魂の成長に最もふさわしい流れになっているのだろうと思う。
だから、なかなか授からない人のことを可哀想とも思わないし、子どもが出来たからラッキーで幸せな人生だとも思わない。
自然妊娠で授かることも、
不妊治療で授かることも、
不妊治療を辞めて二人で人生を築くことも、
養子縁組という選択をすることも、
どれもその人にとって最良で最適で、最終的に「これで良かったんだな」と思える結果になっているのだと、なぜか漠然とだけれど確信してる。
もちろんその過程において、その都度その道でそれぞれが、悩んだり苦しんだり悲しんだり落ち込んだり不安になったりはするのだけど、それさえ決して無駄なこと、悪いことではなくて、やっぱり最後に「幸せだったな」としみじみ感じるための、彩りみたいなものなのだと思う。
感情のすべては人生の彩りだ。たとえネガティヴなものであったとしても、心が揺れず何も感じずにいるよりは、最終的にずっとずっと人生を豊かに鮮やかにしてくれる。
悲しい時は泣けばいいし、行けるところまで地の底に潜ってスネたらいい。そういう行為を自分にも他人にも思う存分許せる人間でありたいな、とは、母性少なめながら常に思う。
相変わらずシャイな我が子はガンとして下を向いていてエコーでは全く顔を見せてくれなかったが、経過は順調とのことでひと安心。
こうも頑なに顔を隠し続けるところを見ると、ブサイクだな、こりゃ。ちっ。