昨日は、作・演出で関わらせてもらうダンスカンパニーUzmeのダンサーオーディションに立ち会ってきた。
選考対象者は、二次審査に残った6名の方。自分の団体ではないけれど、皆さんそれぞれの想いや熱意が伝わってきて、とにかくこちらも気づきの多い一日だった。
仕事柄、オーディションの審査員をやることが多いのだが、これ、仕事の中でぶっちぎりで疲れるやつ





大げさじゃなく、わたしたちの決定で、誰かの人生を大きく変えてしまうかもしれない。そういう可能性が、オーディションにはある。
作品そのものの結果だけでなく、その人自身がそこで得たものによって今後どういう方向へ動いていくか。そこで出来た繋がりによってどう広がっていくのかなど、隠された可能性というものを考慮すれば、そうそう簡単に結論を出せる話ではない。
だからこっちも、参加者に負けないくらいの熱量で、これまで培ったありったけの審美眼でもって、みんなのきらめきを一瞬たりとも見逃すまいとして目を光らせる。光らせてるっていうか、
終始、血眼でガン見。
故に、めちゃくちゃ疲れる。笑えないくらい、精魂尽き果てる。

でも、これまで幾多のオーディションで審査員をやってきて毎回不思議に思うのが、
合格者に対する直感は、ほぼ全員が一致している
ということ。
例えば審査員が五人いて、三人がめっちゃ押してるのに二人が反対…みたいなことがまずない。毎回どんなオーディションであれ、合格する人というのはほぼ満場一致で決まる。
技術や熱量、ポテンシャルも勿論あるのだが、それ以上に、
欠けていたピースがカチャリとハマる感覚
みたいなところで、恐らくみんなが「YES」と感じるんじゃないかという気がする。
メンバーキャストはまるでホビット族。全員150センチ代。
言い換えれば、形式上は「オーディション」という形を取っているけれど、既にそのプロジェクトを共に遂行するメンバーというのは決まっており、そしてそれを選ぶ側もどこかでキャッチしていて、ある種本能的に「仲間を嗅ぎ分けている」という感覚に近いのかもしれない。
わたしたちは個別に見えるようで、他の全員と繋がっていて、時間も過去・未来関係なく実は「今」に繋がっていると考えたら、この、思考ではなく感覚で嗅ぎ分ける、直感的な作業で合格者が決まるというのも自然な流れかなという気がする。
合格・不合格という言い方が、いかにも「不合格者=出来ない人」というイメージを持たせてしまうが、決してそうではない、ということを審査席から全力で叫ばせて欲しい。
全てが繋がっているから、という上の理屈で行くと、わたしたちはもう「決まっているものを再確認して見つけ出す」という作業をしているに過ぎない。
つまり、選ばれたとか選ばれなかったという話ではなく、既に決まっている人を「あの人だよね、そうだよね」と見つけ直しているというか。
となると、便宜上「不合格」となった人たちは、このプロジェクトに参加する必要がないから参加しなくていいよ、というだけのことなのだ。
嫌味に聞こえたら申し訳ない。が、真意としては真逆のことを伝えたい。
不合格になった人がそこに来た意味は何か?というと、
プロジェクト自体には参加せずとも、オーディションに参加し「不合格」を経験して得る感情、考えそのものが、その人にとって必要不可欠な財産、資産、血肉になる。
そのために、「不合格」となったあなたはオーディションに参加し、欲しかった「経験」を自らのメモリーに刻んだのだ。
言い切るけれど、そうなのだ。例えば、緊張、悔しさ、歯がゆさ、ジレンマ、自己嫌悪、自己否定、嫉妬、羨望…。
家でゴロゴロしているだけでは絶対に得られなかった波打つ感情の数々を、あなたはオーディション会場で手にした。
これはものすごいことだ。そしてこれこそが、オーディションの意味であり、「不合格」を得たことで得られるとてつもない財産なのだとわたしは考える。
初めはプレーヤー側だったので、わたしも数々のオーディションを受けてきた側だ。そして、受かったオーディションの方が圧倒的に少ない。
不合格になったその時は確かに落ち込むし「わたしの何がダメなんだろう」と、ついつい自分に刃を向けるような捉え方をしてしまうが、そうじゃない。あなたがダメなわけじゃない。
受かる人は、そこに参加することで得られる経験が必要な人。
落ちる人は、「落ちた」ことで得られる経験が必要な人。
両者の差は、そこしかない。これが真意だ。
技術や経験、今現在のプロ意識や熱量。現実的なところを見れば当然、合格者と不合格者の間にはそれらに関する明確な差はある。あるが、それだけというわけでもない。
大事なのは、オーディションに落ちた時に自分が何を拾い、何を目標にしてどう次に繋げていくか、という具体的な道筋を見付けることだ。
何度オーディションを受けても、拾うもの、気付くこと、次に向う具体策が甘い人は永遠に落ち続けるだろう。それもまたその人にとっての財産だから、優劣はない。
ないが、わたしだったら、不合格を「いつかネタにして笑い飛ばしてやる」というガソリンにして次に向かう。
多くの人が恐れている、失敗や過ちやミスや落第の烙印は、実はその時の対処の仕方次第で、成功体験よりもずっと強靭なパワーになり、後々自分を支える力強い支柱にもなる。
表現の世界を目指すなら、不合格なんて当たり前、朝飯前、ふつうについて来る通常オプションだ。
失敗したり、恥をかいたり、落ちたりしなかった表現者は、未だかつて一人もいないだろう。
そこを幾度も通過して、悔しさもろとも血肉に出来る前向きな感性こそが、後に多くの人に感動を与える表現者に不可欠な資質である。
だから、落ち込まなくていい。あなたがダメなわけじゃない。人格否定なんかしてない。あなたの素晴らしさと、あなたが選ばれることとは全く別の話だから。
とことん落ち込んで、地団太踏んで悔しさを感じきったら、拾えるものを根こそぎ拾って次に進んでもらいたい。
それぞれがいろんな想いで、いろんな葛藤を抱えながらいろんな準備をして挑んでくれたことは痛いほど理解しているし、感謝も尊敬もしている。
とにかく、一瞬であれ同じ空間を共有して人生を交錯させられたことだけでもすごい奇跡だと思うから、来て下さった方々すべてに、心からの感謝を捧げます。
皆さまの人生がより素晴らしく豊かでありますように。