世の中には、一見順風満帆で幸せそうに見える人と、一見不幸せな出来事を抱えていて大変そうに見える人がいる。
かつてわたしは、一見不幸せな出来事を抱えて大変そうに見えるひとたちのことが気になる余り、
自分が幸せになっていいのはわたしより不幸で大変そうなひとたちがとりあえずプラマイゼロで満たされてから
だと本気で信じていた。
食べるものがないひとたちや、戦火に怯えて眠れない子どもたちがいる世界で、自分だけがお腹いっぱい食べて温かい布団で眠ることは罪とさえ思っていた。(食べてたし寝てたけど)
端的に言えば若気の至りというかガキの勘違いなんだが、こういう思想で上下や優劣をジャッジして、「自分より下」の人たちに同情したり哀れみの気持ちを持つというのは、いわゆる善意と紙一重で修正が難しいな、と思う。
かつての自分含め、ごくごく良心的な善意で持って「かわいそう」「大変そう」と他人を見ている人がまだまだ多いように感じるので。
わたしの周りにも、一見不幸そうに見える出来事を抱えて、大変そうに見える人は多くいる。
が、今となっては、どんなに大変そうだろうとそこに同情する気持ちは微塵も湧いてこない。
それぞれが選んだ人生の道や、勇敢な選択にエールを贈りたくはなれど、不幸そうには見えないし、ましてや自分が、そのひとより先に幸せでいちゃいけないんだ、なんて発想はもはや死に絶えた。
大変は大変かもしれないが、今その道でそのひとが得ているものの大きさ、今後彼らを支えていくであろう肥やしとなる時間の濃さを想ったら、同情や哀れみなどというおこがましい発想は入り込む余地もない。
ひたすらアッパレで凄いなとは思うから、エールも拍手も贈りたいし、自分に何か出来ることがあって、「助けてほしい」と言われたらいつでも飛んでいけるくらい、まずは自分が満ち足りて心にも物理的にも余裕を持っていたいと思っている。
思うに、人を幸せにしたり不幸にしたりするのは出来事そのものではない。
同じ出来事が起きたとして、それをどう捉えてそこから何を拾うか、という本人の意識次第ですべては決まってくる。
病気、ケガ、事故、死別、その他諸々、不幸そうに見えるネタなどいくらでもぶち当たるが、問題はそこじゃない。シンプル過ぎて言葉にするとアホくさくもなるが、
自分が幸せか不幸かを決めるのは、出来事じゃなくて自分自身の心の在り方
に尽きる。
本当は、不幸な人などいないのだ。不幸を感じたい、味わいたい人がいるだけで。
不幸を感じたい人の邪魔もしたくないので、酔っていたいんだろうなぁと思う人のことはそっとしておく。
飽きたら多分、自分で止めるだろうから。笑
だからと言って、
いつも笑顔で、常に前向きで、明るく朗らかに、なんていう不健全なポジティブ主義は反吐が出る。
幸不幸に関係なく、湧き出る感情は大事にして、とことん味わい尽くすに限る。泣いて迷って落ち込んで、不安になって喚いて怒って相手を責めてケンカしたっていいんだ。
というかむしろ、それをやらなきゃいけない。
どうせね、不幸になんてなりようがないんだから。どう転んだって本当は幸せなんだから。
湧いて来る感情がネガティブに思えても、味わって堪能しないと損だよ。それを感じたくて、多分みんな生まれてきてるしね。
IPPONグランプリ見よう。体調最悪だけど、あー幸せ。