1-② ノハナ
埃っぽく乾き切った空気が、喉の奥までキリキリと差し込んでくる。色のないレンガ造りの建物が両脇に立ち並ぶ、車一台がやっと通れるほどの狭い道路のあちこちに、紙屑や砂塵、人工資源のゴミなどが転がり、誰かの吐いた痰や吐瀉物がペタリと貼り付いたシミのように点在しては、煤けた街を更に薄汚く見せていた。
日頃殆ど足を踏み入れることのない一般区のそのうらぶれた光景は、潔癖に近いノハナの神経を、ものの二秒で激しく掻き乱した。
一般区の中でも、11区と12区は低所得者の多い貧民街として知られており、治安も悪い。ここら辺りはまだマシだから、と三島に捜索を命じられたのだが、それでも常に清掃の行き届いた特区とは比べものにならない街全体の澱んだ空気に、ノハナは一刻も早くここから逃げ出したい衝動に駆られていた。
そんな本心をおくびにも出さぬよう気を付けながら、一般区の住人たちを相手に聞き込み調査を行うことが、今日の主な仕事だった。
本来ならば、セントラルエリアからこの極東エリアへ、定例学会のゲストスピーカーとしてやって来ているJ.Wザッカーノ博士の講演会に参加し、『地上汚染がもたらす遺伝子プールへの影響』についての有益な学びを得るはずだったのに、新人研究員が犯した致命的なミスにより、その夢のような機会は永久に失われた。
「まさか契約品を逃がすとはね…」
研究員たちが緊急召集された今朝、椅子の背にもたれそう呟いた三島の青白い顔をノハナは思い出していた。
生体管理局に勤めて12年になるが、ここまで憔悴した三島を見るのは初めてだった。ノハナ自身、事の重大さについては今一つピンと来ていないが、普段どこまでも冷静な三島が血相を変えるほど、事態は切迫しているのだろう。
コピーと呼ばれるクローンたちは、通常エリア40内の収監施設に収容されている。厳しい労働や虐待に耐えかね、これまでも脱走を図った個体はいたが、どれもすぐさま見付かって連れ戻されるか、イシュアの諜報部によって射殺された。純粋な労働員として育成された個体であれば、最悪の場合デリート(※1)もさして問題はないのだが、今回が異例なのは、逃げ出したコピーが契約品であるということだ。契約品とは、臓器移植の為のドナーなど、依頼主からの要望があって培養・育成されるクローンのことである。
エリア40の最高責任者であり、ノハナ達の直属の上司にあたる三島は、二十年前に依頼者と契約を交わした張本人ということもあり、この件について殊更ナーバスになっているようだった。勿論、エリア40の内情を知る、mb(※2)と同等の知性を持つ個体が逃げ出したことは間違いなく緊急事態なのだが。
契約品の脱走は前代未聞であり、この件がイシュアに発覚した場合、間違いなく医療省全体の信用が損なわれる。コピー達の直接管理を任されていたエリア40は勿論、母体である生体管理局が全面的に非難を浴びることになり、そうなれば現場責任者として三島の辞任は避けられない。新入りが犯したミスひとつで、人生を捧げ尽くして来た職場にいられなくなるのは、三島にとって耐え難い屈辱、且つ悲劇に違いない。
「何としても、自分たちの手で回収するのよ」
いつになく切羽詰まった三島の通告に従うべく、ノハナやキザキのような幹部研究者たちまでもが、こうして捜索に駆り出されているというわけだ。今頃、黒服に身を包んだ優秀な研究者たちが、逃げたコピーの写真を手に同じように聞き込みに回っているはずだ。とはいえ、脱走が発覚してからまだそう時間は経っていないため、捜索区域はエリア40にほど近い10区以降に絞られていた。
急遽、通常よりも早い出社を命じられ、朝から不機嫌そうなキザキと共に、ノハナは11区の一角を歩いていた。完璧主義で仕事に抜かりの無いキザキには、コピーたちの嘘に騙されるという新人の過失が信じられないらしかった。
言葉にこそしないが、普段以上に口数が減り、無表情で黙々と歩を進める様子から、苛立っていることは容易に伝わってくる。だが、元々鷹揚な性格のノハナには、恋人であるキザキの不機嫌ささえ大して気にはならない。ポーカーフェイスの得意な彼女が自分の前で感情を隠さずにいることは、心を許してくれているようでうれしかった。
しばらく行ったところで、11区の住人と思しき四人の庶民たちがたむろしているのが見えた。大きなタンクを傍らに置いて立ち話をしていた彼らに、ノハナ達は背後から近付き、声をかけた。
「あなたたち、11区の住人?」
振り向きざまに二人の姿を確認した彼らの間に、サッと緊張が走るのが分かった。イシュアの紋章を付けた見慣れない黒服たちに、明らかに警戒心を抱いているようだ。
色のない平民服に身を包んだ、ぼんやりした顔の女が二人と、その亭主らしい白髪交じりの男。そしてもう一人は、これまでに遭遇したどんな庶民とも似つかない、不思議な生物としてノハナの目に映った。その生物は全身グレー一色で、角のような突起物を頭から生やしている(ように見えた)。性別はもちろん、パッと見人間であるかどうかもよく判らない。遺伝子研究を生業とするノハナにとって、とてつもなく興味深い研究対象である。高まる好奇心をキザキに悟られないよう注意を払いながら、その生物に声をかけてみる。
「あなた、新種のサイ?」
すると意外にも、サイに見えた彼女は、4区にあるマコモ大学の学生だと名乗った。
マコモ大学と言えば、極東エリアで1、2位を争う超難関校である。学力という点ではかなり狭き門だが、経済力の乏しい庶民でもなるべく平等に能力精査のチャンスを得られるように、上位の大学ほど学費の大半が免除されるシステムになっている。度重なる試験での振り落しも厳しいとは聞くが、少なくとも入学試験にパスしているという時点で、彼女もかなり優秀には違いなかった。
地下水の配給日で汲み上げ場へ行っていたという他の三人と合わせ、ノハナは彼らの前に逃げ出したコピーの写真を掲げて見せた。例のサイに似た女学生が咄嗟に「あっ」と声をあげたが、すぐに別の女がしゃしゃり出て「知らない」と口にした。が、サイに似た女学生の一瞬の表情の変化を、ノハナ同様、後ろで見ていた筈のキザキも見逃さなかった。
「あなた、何か知ってるの?」
今にも取って食いそうな顔で、彼らに近づいてくる。
こんな時、ノハナなら努めてソフトな対応を心がけ、警戒心を解かせてから核心に迫るのだが、キザキはむしろ黒服の特権階級という風体をむき出しにして、ストレートに威圧する作戦のようだ。
その迫力に気圧され、少しだけ友達に似ていたが人違いだった、と、サイに似た女学生は口ごもった。
見かけたらとにかく知らせるように、と固まっている彼らを睨みつけると、キザキはノハナを置いてさっさと歩き出した。倒置法が多くなっていたのは無意識だろう。キザキは虫の居所が悪い時、話し言葉に倒置法が多くなる。
怪訝そうな庶民たちの視線を背中に感じながら、ノハナは慌ててキザキの後を追った。
※1 デリート…抹殺すること
※2 mb…main bodyの略。「本体(生身の人間)」の意味。
<つづく>



