1-① キザキ


  その日は朝から、どんよりとした雲が低く垂れこめていた。大きな窓から遠慮がちに入り込む白々とした朝の気配に起こされて、キザキはアラームが鳴る前にうっすらと目を開いた。寝覚めの良いキザキにしては珍しく、体のあちこちが軋むように重く、だるい。ベッドの左側に手を伸ばしたが、そこにノハナの温もりはない。

 

タコのようにしなやかな軟体を備えるノハナに先導され、このベッドの上でアクロバティックな営みを繰り広げたのは、確か二日ほど前のことだ。サーカス団にいたのではないかと思うほど体の柔らかいノハナは時折、人間業とは思えない奇妙奇天烈な体位でキザキに挑んでくる。できる限り応えたいとは思うもののやはりその能力差は大きく、先天的なものだという彼女の、尋常じゃない身体のバネと柔軟さを、コトの最中でもどこかショーを見るように俯瞰して眺める自分がいた。

 

ゆっくりと身を起こし、二重ガラスになった窓の外に目をやる。眼下には、空との境界線が曖昧なグレーのビル群が、所有者のいない墓石のようにひっそりと並んでいる。

 

 

三区の一等地に天高くそびえる地上60階建てのこの塔は、イシュアが抱える政府機関の高官や、関係施設で働く優秀なキャリアのみに住むことが許された、マンションタイプの居住棟である。地上700メートルの高さに張り巡らされたUVバリアよりはずっと低いが、それでも居住棟としてはかなりの高さを誇っており、土壌汚染を危惧して上へ上へと安息の地を求めるエリートたちの危機意識の高さが窺えた。キザキの部屋は、その55階にある。

 

無論、有害物質が縦横無尽に飛散する外気に近いバリア付近ほど、汚れた大気の影響を受けやすくはなるのだが、それでも今や土壌汚染の方がずっと深刻だった。

エリート層の暮らす特区では、土から染み出す汚染物質を中和する特殊な薬品が定期的に撒かれてはいたが、それも結局は一時しのぎでしかない。イシュアを組織する最高峰の頭脳を結集させたとしても、刻一刻と深刻さを増す地上の汚染に抗う術はないのが現状だった。

 

 

 

 

「天罰ね、きっと」

 

汚染による毒気で肺を患い、長期療養の果てに亡くなったかつての同僚が、いつか病室のベッドでそう呟いたのをキザキはふと思い出した。どういう意図で彼女がそう口にしたのかは解らないが、このところキザキには、ぼんやりとその意味が解りかけている。

本当は、解りたくはない。その意味を認めることは、これまでの自分の人生、そして代々続いてきたキザキ一族の所業を否定することになりかねないからだ。

 

 

名字を持つことを許された特権階級の一族は代々、その姓と大企業名が直結している。例に漏れずキザキもまた、大手製薬会社を経営するキザキグループの令嬢として生まれた。


エリートと庶民を明確に区別する社会では、特区に生まれるか一般区に生まれるかで、その人生は大きく変わる。一般区に生まれた庶民は、どんなに優秀であっても大学に合格し、「G」(genious=秀才の頭文字を取ってそう呼ばれる)という狭き門を突破しない限り特区に上がることは出来ない。

 

一方、血筋やDNAを重要視するエリートの一族は、自社組織や親戚関係を結んだ親族企業に続々と子孫たちを送り込み、方々で冨を蓄えることに余念がない。その為、庶民の生活を支える大企業の殆どが、事実上、何世代にもわたる一族支配を続けているのだった。キザキグループに生まれたキザキの境遇はその最たる例であり、生まれた時から、最高の環境で最高の教育を受けてきた。

 

キザキのファーストネームは、遥か昔この地に群生していたという花の名前を元に、グループの会長を務める曾祖父によって付けられたらしいが、見たこともない植物になぞらえた自分の名が好きになれず、キザキは職場でも自分を名字で呼ぶように、と周囲に指示していた。当然、キザキグループの血を引く者という認識は持たれているだろうが、わざわざそこに切り込む者はいない。医療省の要とも言える研究施設・エリア40には、キザキ同様、優れた血脈を受け継ぐ者たちが他にも多くいたからだ。

 

 

経済的な苦労や差別を経験することなく、何の疑いや疑問も持たずにストレートでイシュアの庇護の下に置かれるエリート一族の血統者たちは、皆どこかドライで、必要以上に人と関わろうとしない。時折一般区で見かける、他人同士が交わし合う親密そうな笑顔や、嬌声をあげてはしゃぐ様子には驚くばかりだが、感情の起伏が少ないと自覚するキザキにとって、個人的な苦楽を悪戯に他者と共有せずに済む、職場での割り切った人付き合いは心地良かった。

 

 

 

 

ふと、サイドテーブルで点滅する呼び出しベルに気付き液晶画面にタッチすると、ノハナからメッセージが入っていた。

 

『コーヒーとラテ、どっちの気分?』

 

枕元のデジタル時計を確認すると、送信時間はわずか5分ほど前だ。出社までにはまだあと一時間はある。恐らく、最近職場近くにできたというお気に入りのコーヒーショップにでも立ち寄るつもりなのだろう。ベッドに腰掛けたまま少し考えて、

『ラテで』

と短く返信する。大きく伸びをしようと立ち上がった瞬間、間髪入れずにベルが振動した。

 

『了解!筋肉

 

エクスクラメーションマークの後にくっつけられた力こぶの絵文字に、女性らしい外見からは想像しにくい、ノハナのアスリートな一面が滲んでいて、キザキは小さく笑った。

 

手にしたベルをサイドテーブルに戻し、着替える為にクローゼットに手を伸ばした瞬間、耳慣れた振動音が再びキザキの鼓膜を捉えた。ノハナからの追伸か…と思いしばらく放置していたが、やはり気になってベッドサイドに戻り、ベルの画面をタッチする。文字を読む前から、なぜか鼓動が速まっていた。まるで、これから降りかかる緊急事態を体が先にキャッチし、怯えて震えているかのように。


自分のものであって自分のものではないこの心臓は、キザキの体にやってきたあの日から、いつもある種の警鐘的な役割を果たしている。そしてその不吉なほどに正確な予知能力は、殆ど外れたことがなかった。


キザキは、一度大きく深呼吸をしてから、覚悟を決めて画面に目を落とした。

 

メッセージは上司の三島からで、そこにはエリア40の収監施設から、コピーが一体逃げ出したと書かれていた。         

 

<つづく>