パラリンピック |  就労継続支援A型事業所ドリフのブログ

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 上陸が懸念された台風は温帯低気圧に変わりましたが、それでも大雨と強風に気をつけてください。

 話は変わりますが今日はリオパラリンピックの開会式。見たいところですが、会社に行かなきゃいけないので、(休めばいいじゃん)天候と時差が憎いと思いました。(このブログを書いてる人は海外渡航暦0なので)

 気持ちを切り替えて、今日は昨日のブログでも触れたパラリンピックの歴史などを書きたいと思います。


 そもそも、障がい者スポーツはリハビリの一環として紀元前からあったのですが、(義肢は古代エジプトから存在してある程度性能が良い物)障がい者自身が活発的にスポーツを始めたのは、19世紀以降の事でした。それから障がい者スポーツの大会はいくつかありましたが、第二次世界大戦後の1948年7月28日、ロンドンオリンピックの開催に合わせて、イギリスのストーク・マンデビル病院で負傷した元兵士にアーチェリー大会が開かれたのが、パラリンピックの始まりです。「手術よりスポーツを」の理念で開催された競技大会で、提唱したのはナチスドイツから亡命したユダヤ人医師のルートヴィヒ・グットマンで、『パラリンピックの父』と言われています。障がい者もユダヤ人と同じようにナチスドイツから迫害されたことから、ルートヴィヒ・グットマンも何か感じてこの大会を開いたのではないでしょうか?

それはともかく、この大会は当初入院患者だけでしたが、毎年行われるごとに国際大会となって、1960年にはルートヴィヒ・グットマンを会長にした大会組織委員会が設立されて、ローマオリンピックの数日後に第1回パラリンピックがローマで行われました。(正式名称は第9回国際ストーク・マンデビル競技大会だが、個人的にローマパラリンピックという名称にします)その次の東京パラリンピックは昨日のブログで書いたので省略し、3回目のパラリンピックはイスラエルのテルアビブ、4回目は西ドイツのハイデルベルグ、5回目はカナダのトロント、6回目はオランダのアーネム、7回目はアメリカのニューヨークとイギリスのアイスベリーでオリンピックと違う地域で行われましたが、パラリンピックがオリンピックの後に同国同地で開催される今のようなスタイルになったのは、8回目のソウルパラリンピックからです。(ほかにもシンボルとかあるが、うるさくなるので省略)ちなみにパラリンピックの名称は脊髄不随の(Paraplegiaパラプレジア)+オリンピック(Olympic)の造語でしたが、脊髄不随者以外も参加するようになって、障がいの種類や重さに応じてクラス分けされるごとに平行(Parallelパラレル)+オリンピック(Olympic)で、『もう一つのオリンピック』として再解釈されることになりました。ですが、11回目のシドニーパラリンピックで、スペインの知的障がい者のバスケチームに12名のうちの10名が健常者だった事が発覚したため、(しかも金メダル)知的障がい者のパラリンピック出場権は前回のロンドンパラリンピックまでなかったのです。

 パラリンピックの競技数もローマオリンピックの時にはアーチェリーを入れて種目しかなかったのですが、今回のリオパラリンピックで導入されたトライアスロンとカヌーを入れて、22種目に増えました。それともに車いすや義肢などの器具の性能が上がった事が大きな要因ではないでしょうか?(東京パラリンピックの映像を見ても分かるとおり、海外の選手も車いすは垂直式で今のような競技用の車いすなんてなかった)

余談ですが、オリンピック・パラリンピックに欠かせない聖火はオリンピックの場合とは違って、パラリンピックが開催される国で採火します。同国であれば地域は関係ないようなので、長野パラリンピックは東京パラリンピックで競技会場となった東京・代々木公園陸上競技場で採火されて、前回のロンドンパラリンピックはイングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドそれぞれの最高峰の山で採火されて、パラリンピック発祥のストーク・マンデビル病院から聖火リレーがスタートしました。


 1種目の競技にも障がいの種類や重さによる数十におよぶクラス分け、貧富の差により器具の性能、最近問題になったドーピング問題などパラリンピックの運営はまだまだ課題続きだと思いますが、そういう歴史を振り返ってみると、パラリンピックはしんの平和とスポーツの祭典といえるのではないでしょうか.....