レッド・ツェッペリン「LED ZEPPELIN Ⅰ」(1969年)という作品。
ツェッペリンのデヴューアルバムであり、今のツェッペリンを取り巻く高い評価の中では余り考えられないことだが、ウィキペディアの記述によれば、当時の音楽評論家たちのこの作品「Ⅰ」に対する評価は、概ね厳しいものだった。
中でも、ローリング・ストーン誌なんかは「ジェフ・ベックが表現していることと似ていて、しかもジェフ・ベックよりも上手くない」としてツェッペリンをこき下ろしたらしい。
しかし、この後の大成功と年月が経つことで、このアルバム「Ⅰ」に対しての評価も自然と上昇してゆく。
音楽に限らず、いろいろな専門家や評論家の評価なんぞ、時と場合によってはコロコロと変化するということか。
彼らも、自分の都合に合わせるばかりのいわば風見鶏。余り当てには出来ないものだ。
全9曲収録。
あらゆる分野の「専門家」というのは、社会的にかなり良い位置にあるとされる、世間的にも権威ある職業である。
しかし、自分の専門以外のことについて何も分からない、知ろうとしない、興味関心もない、という専門家の存在は如何なものだろう? と思うことが、最近私にとってやたら多い気がしている。
人間というのは結局、知識や理解がバランス悪く偏っているよりかは、あらゆる分野に通じる総合力の方が必要ではないだろうか。専門分野以外の、他分野への理解や関心が全くないという人間は、何か重大な欠陥がある。
決して権威なんかでもないのだ。
総じて物事というのは、自分の得意分野からだけではなく、他の分野から学べることも非常に多い。普遍的でとても重要なことというのは、どれも共通し合っていることに気付ける。
専門分野という閉じた鎖国社会の中では、一切の批判がなければ、新しい考え方も何も生まれない。実に狭い世界である。外部からの情報も積極的に取り入れるべきである。
このように偏っている専門家ばかりが増えると、比例するように広く社会問題も増えるように感じる。専門家が部外者と情報交換や批判し合えないからである。
……とでも、私のような者が言うとすると、「偉そうに言うが、お前は専門家なのか?」と、人によっては反射的に返してくるだろう。いや、まさに私の言いたいのはそのことであるのだ。
専門家以外の部外者がいろいろと語って何が悪い。寧ろ、専門家以外の者が語ることに大いに意味があるというもの。
今回のコロナ・パンデミックは、感染症専門家がミスリードしてきた大事件とも言える。
医師や医療専門家以外の庶民も誰も、この悪政に対して口出し出来ず、或いは批判してみても全くの無力だった。馬鹿な陰謀論とばかり言われた。
それによって、薬害は拡大し続けてしまった。
こういった良くない社会状況を、事細かく創り上げてきたのは、間違いなくディープステートやその一部の悪い専門家たちであり、彼らは長い年月を掛け、入念に画策してきたのだろう。実に巧妙で悪徳な方法である。
もしかすると、今述べてきたことの全てにおいての理解が十分に有りながらも、それでも悪事を起こすという、救いようのない専門家、とんでもない輩も居るのかもしれない。
しかし、結局のところ画策は失敗し、彼らは敗北を喫する。基本的には悪行をしてきた専門家たちは、今後、徐々に表舞台から居なくなるのだろう。
今回のとんでもない事件を契機とし、また、いろいろと深く掘り考えて頭の中を整理してみたいと思った。