井の頭公園
昨日(日曜日)は、悠生を連れて、久しぶりに井の頭公園に行った。
悠生を連れて行くのは今回が初めてだったが、日頃、東京のど真ん中で暮らしているせいか、井の頭公園の緑や池は新鮮だったようで、キョロキョロと周囲を見渡していた。
僕らは結婚して最初の数年間は久我山に住んでいた。
久我山生活の最後の頃はとても貧乏で、時間はたっぷりあるがお金がない生活をしており、久我山から2駅ないし3駅電車に乗り、井の頭公園に行っては時間を潰すということをよくしていた。
当時は、将来に対する不安が先立ち、井の頭公園に足を運んでも、その緑や池を心から楽しむことはできず、ましてや、その何年か後に自分たちの子供を連れて散歩に来ることなど考えたこともなかった。
そんな井の頭公園を、昨日はとても幸せな気持ちで散歩をした。
今の生活は、新しい会社を立ち上げたばかりで、決して安定しているわけではなく、インタースコープの頃と比べれば、むしろ、経済的には厳しくなっているが、それでも、将来はきっと上手くいくと思えている。
きっとそれは、心の底から自分が信じていることをしているからだと思う。
話しは変わるが、今日は、ジースタイラスという会社が運営する「逆求人フェア」というイベントに参加してきた。
興味のある企業のブースに大学生が足を運んで説明を聴くというものではなく、企業側(採用担当者)が興味を持った学生のところに話しを聴きに行くというものである。
そこで出会ったある学生にアドバイスしたことは、強い自分になろうと頑張るのではなく、強い自分も弱い自分も含めて「ありのままの自分を受け入れること」ということだ。
半分ぐらいは自分に言っているようなものだった。
とても貧乏な生活を経て、億単位のお金を集めてインタースコープを立ち上げ、ある種のムーブメントを創り上げた後、再び、スクラッチから会社を立ち上げることにチャレンジしている今は、ありのままの自分を受け入れることが、だいぶできるようになった。
常に、こういう精神状態を保てるようになりたいと思う。
悠生を連れて行くのは今回が初めてだったが、日頃、東京のど真ん中で暮らしているせいか、井の頭公園の緑や池は新鮮だったようで、キョロキョロと周囲を見渡していた。
僕らは結婚して最初の数年間は久我山に住んでいた。
久我山生活の最後の頃はとても貧乏で、時間はたっぷりあるがお金がない生活をしており、久我山から2駅ないし3駅電車に乗り、井の頭公園に行っては時間を潰すということをよくしていた。
当時は、将来に対する不安が先立ち、井の頭公園に足を運んでも、その緑や池を心から楽しむことはできず、ましてや、その何年か後に自分たちの子供を連れて散歩に来ることなど考えたこともなかった。
そんな井の頭公園を、昨日はとても幸せな気持ちで散歩をした。
今の生活は、新しい会社を立ち上げたばかりで、決して安定しているわけではなく、インタースコープの頃と比べれば、むしろ、経済的には厳しくなっているが、それでも、将来はきっと上手くいくと思えている。
きっとそれは、心の底から自分が信じていることをしているからだと思う。
話しは変わるが、今日は、ジースタイラスという会社が運営する「逆求人フェア」というイベントに参加してきた。
興味のある企業のブースに大学生が足を運んで説明を聴くというものではなく、企業側(採用担当者)が興味を持った学生のところに話しを聴きに行くというものである。
そこで出会ったある学生にアドバイスしたことは、強い自分になろうと頑張るのではなく、強い自分も弱い自分も含めて「ありのままの自分を受け入れること」ということだ。
半分ぐらいは自分に言っているようなものだった。
とても貧乏な生活を経て、億単位のお金を集めてインタースコープを立ち上げ、ある種のムーブメントを創り上げた後、再び、スクラッチから会社を立ち上げることにチャレンジしている今は、ありのままの自分を受け入れることが、だいぶできるようになった。
常に、こういう精神状態を保てるようになりたいと思う。
野田秀樹と夢の遊眠社。
僕が大学生の頃、当時付き合っていた彼女に連れられて「夢の遊眠社」の芝居をよく観に行った。
映画は人並みに観ていたが、演劇というものには興味がなく、自分にとって初めて観た演劇が「野田秀樹」が率いる「夢の遊眠社」のものだった。そんなまったくの演劇素人だった僕にも、野田秀樹の天才ぶりはよく分かった。
その野田秀樹のことが、THE NIKKEI MAGAZINE という毎月第3日曜日に発行される日経新聞の別冊(今月号)に特集されていた。是非、読んでみて欲しい。
「現実は思っていたより、はるかに厳しかったよ」。という彼の言葉が紹介されていた。
野田秀樹は1980年代、彼が20代前半だった頃、常識を破る演劇で頭角をあらわし、その後、一世を風靡した。しかし、彼は「絶頂期」にあった「夢の遊眠社」をあっさりと解散してしまう。
「いつのまにか、野田秀樹という虚名に甘えはじめていたのだから。俺は名前ではないのだ。一個の人間なのだ」(『定本・野田秀樹と夢の遊眠社』)。
また、彼には兄がいるらしいが、その兄から「順風満帆だね」と言われたことに対して、「兄貴になんかわかるもんか。夜中にふっと目が覚めるんだ、こんな才能でやっていけるか、と」と言ったらしい。
その彼が「2度目の挑戦」で、演劇の本場、英国ロンドンでの公演を見事、成功させた。
1回目は「退屈」と切って捨てたプレスが、「評価を完全に回復した。まっすぐ劇場に向かうべし」と評したそうだ。
しかし、その準備に投資を惜しまなかった結果、商業的には2,000万円を優に超える赤字だという。
僕が最後に野田秀樹の演劇を観てから、20年ぐらいが経つ。「50歳」になった彼の演劇を久しぶりに観てみたい。
追伸:野田秀樹は、今回のTHE NIKKEI MAGAZINEの取材で「いつも自分は『よそ者』という感覚が離れない」と答えている。その「よそ者」の彼にとって、演劇という「社会のよそ者」との出会いは決定的だったそうである。彼と同列で語っては失礼極まりないが、僕も自分を「社会のよそ者(マイノリティ)」だと感じてきた。そんなこともあり、彼の生き方には共感を覚える。
映画は人並みに観ていたが、演劇というものには興味がなく、自分にとって初めて観た演劇が「野田秀樹」が率いる「夢の遊眠社」のものだった。そんなまったくの演劇素人だった僕にも、野田秀樹の天才ぶりはよく分かった。
その野田秀樹のことが、THE NIKKEI MAGAZINE という毎月第3日曜日に発行される日経新聞の別冊(今月号)に特集されていた。是非、読んでみて欲しい。
「現実は思っていたより、はるかに厳しかったよ」。という彼の言葉が紹介されていた。
野田秀樹は1980年代、彼が20代前半だった頃、常識を破る演劇で頭角をあらわし、その後、一世を風靡した。しかし、彼は「絶頂期」にあった「夢の遊眠社」をあっさりと解散してしまう。
「いつのまにか、野田秀樹という虚名に甘えはじめていたのだから。俺は名前ではないのだ。一個の人間なのだ」(『定本・野田秀樹と夢の遊眠社』)。
また、彼には兄がいるらしいが、その兄から「順風満帆だね」と言われたことに対して、「兄貴になんかわかるもんか。夜中にふっと目が覚めるんだ、こんな才能でやっていけるか、と」と言ったらしい。
その彼が「2度目の挑戦」で、演劇の本場、英国ロンドンでの公演を見事、成功させた。
1回目は「退屈」と切って捨てたプレスが、「評価を完全に回復した。まっすぐ劇場に向かうべし」と評したそうだ。
しかし、その準備に投資を惜しまなかった結果、商業的には2,000万円を優に超える赤字だという。
僕が最後に野田秀樹の演劇を観てから、20年ぐらいが経つ。「50歳」になった彼の演劇を久しぶりに観てみたい。
追伸:野田秀樹は、今回のTHE NIKKEI MAGAZINEの取材で「いつも自分は『よそ者』という感覚が離れない」と答えている。その「よそ者」の彼にとって、演劇という「社会のよそ者」との出会いは決定的だったそうである。彼と同列で語っては失礼極まりないが、僕も自分を「社会のよそ者(マイノリティ)」だと感じてきた。そんなこともあり、彼の生き方には共感を覚える。
低リスク&高リターン?
そんな話しがあるか?と思う方が多いと思うが、見方によっては、一定条件を満たすサラリーマンは「低リスク&高リターン」と言えるかもしれない。
ドリームビジョンでもお世話になっている清川さんというエンジニアの方のブログ で、そのことが解説されている。なるほどと思うところがある。
彼はいわゆる「帰国子女」で、イギリスの大学を卒業し、イギリスのI.T.関連企業に就職をした。
詳しくは、彼のブログ を読んで頂いた方が良いと思うが、イギリスでは、一般的に「正社員の給与は低く」、「契約社員の給与は高い」そうである。その理由は、契約社員は雇用の安定がなく、そのリスクプレミアムを対価としてもらわないと生活が成り立たないからだという。合理的な話しである。
彼は、朝日新聞の記事を引き合いに出し、日本における「正社員」は「雇用の安定度の高さ」と「賃金の高さ」が比例している点が「低リスク&高リターン」であると言っている。
「公務員や大企業等が就職ランキングでトップだったり、親が子供にこれらの職業に就くことを進める理由は、これらの場所が『おいしい(=低リスク、高リターン)』契約形態を提供しているからです」。by 清川さん
僕流に表現すると、今までの日本社会は「ナローバンドな生き方」を暗に強制してきたところがあり、そのバンドを外れた人に対しては、とても冷たい社会であると思うということを随分前のエントリーで書いたと思うが、清川さんが言いたいこともそういうことだろう。
例として、一流大学を卒業し、都市銀行や大手商社に就職する能力があり、それなりに仕事が出来る人であれば、確率論的に言えば、余程の才能や自信がない限り、わざわざリスクを取って起業をする必然性はどこにもない。
そのこと自体は極めて経済合理性のある話しであり何ら問題はない。
問題は、わざわざリスクを取って「ナローバンド」から飛び出た人が運悪く「失敗」した時のダメージである。
「成功確率」と「ダメージの大きさ(敗者復活は極めて厳しい社会である)」を天秤にかけた時、どうしても「割に合わない」と思うから、多くの人は「起業」という選択肢は取らないし、親も子供に対して、そういう生き方を望まないのだろう。
僕は、一流企業の正社員が給与が高いのは問題はないと思うし、仕事がおもしろく給与が高いから「優秀な人材」が集まると思うので、そのこと自体に異論を唱えるつもりはない。問題があるとすれば、(だいぶ変わってきているらしいが)パフォーマンスに関らず「給与に大差がつかない」ということと、滅多なことでは「減給」がないということである。
「居心地の良い村社会」が形成されるわけである。
トヨタの奥田さんだったと思うが、日本という国は「嫉妬の文化(成功者を妬む)」であり、これを「賞賛の文化」に変えていかないといけない、ということを言っていた。痛く共感する。
ドリームビジョンでもお世話になっている清川さんというエンジニアの方のブログ で、そのことが解説されている。なるほどと思うところがある。
彼はいわゆる「帰国子女」で、イギリスの大学を卒業し、イギリスのI.T.関連企業に就職をした。
詳しくは、彼のブログ を読んで頂いた方が良いと思うが、イギリスでは、一般的に「正社員の給与は低く」、「契約社員の給与は高い」そうである。その理由は、契約社員は雇用の安定がなく、そのリスクプレミアムを対価としてもらわないと生活が成り立たないからだという。合理的な話しである。
彼は、朝日新聞の記事を引き合いに出し、日本における「正社員」は「雇用の安定度の高さ」と「賃金の高さ」が比例している点が「低リスク&高リターン」であると言っている。
「公務員や大企業等が就職ランキングでトップだったり、親が子供にこれらの職業に就くことを進める理由は、これらの場所が『おいしい(=低リスク、高リターン)』契約形態を提供しているからです」。by 清川さん
僕流に表現すると、今までの日本社会は「ナローバンドな生き方」を暗に強制してきたところがあり、そのバンドを外れた人に対しては、とても冷たい社会であると思うということを随分前のエントリーで書いたと思うが、清川さんが言いたいこともそういうことだろう。
例として、一流大学を卒業し、都市銀行や大手商社に就職する能力があり、それなりに仕事が出来る人であれば、確率論的に言えば、余程の才能や自信がない限り、わざわざリスクを取って起業をする必然性はどこにもない。
そのこと自体は極めて経済合理性のある話しであり何ら問題はない。
問題は、わざわざリスクを取って「ナローバンド」から飛び出た人が運悪く「失敗」した時のダメージである。
「成功確率」と「ダメージの大きさ(敗者復活は極めて厳しい社会である)」を天秤にかけた時、どうしても「割に合わない」と思うから、多くの人は「起業」という選択肢は取らないし、親も子供に対して、そういう生き方を望まないのだろう。
僕は、一流企業の正社員が給与が高いのは問題はないと思うし、仕事がおもしろく給与が高いから「優秀な人材」が集まると思うので、そのこと自体に異論を唱えるつもりはない。問題があるとすれば、(だいぶ変わってきているらしいが)パフォーマンスに関らず「給与に大差がつかない」ということと、滅多なことでは「減給」がないということである。
「居心地の良い村社会」が形成されるわけである。
トヨタの奥田さんだったと思うが、日本という国は「嫉妬の文化(成功者を妬む)」であり、これを「賞賛の文化」に変えていかないといけない、ということを言っていた。痛く共感する。
出会いはいつも、自分から。
今日のタイトルは、僕が以前、コピーライターまがいのことをしていた頃、ある留学関係の会社の仕事で書いたものだ。
何か新しいこと、チャレンジングなことをしようと思ったら、待っていても何も起こらない。自分から動くことが大切だという想いを込めた。
もうひとつ、「Future is the result of today.(未来は今日の結果です)」というコピーを書いた。これは、かなり評判が良かった。
今にして思うと、僕の自作の座右の銘のひとつである「人生はすべて必然」ということにも繋がっている。10年以上前から、そういうことを考えていたようだ。
そんなことにも繋がることが、この夏の帰省中にあった。
実家(福島県郡山市)の方には、今も交流がある友人が何人かいる。しかし、そのいずれも最後に会ったのは、思い出せないほど前のことだ。
いつも、帰省する度に「友人の家に寄ってみよう」と思うのだが、いつも行動に移さずじまいだったので、東京に戻る日に思い切って寄ってみた。
訪ねていった友人(2人)の家は、僕の実家からは車で2~3分の距離にある。
残念ながら、ふたりとも留守にしており、会うことは出来なかったが、ひとりはお父さんとお姉さんが、もうひとりはお母さんがいらして、本当に何年ぶりかで顔をみて言葉を交わした。僕の突然の訪問を心から歓迎してくれた。行って良かったと思った。
不思議なことに、仲の良い友人にも関らず、随分とご無沙汰してしまうと、なんとなく敷居が高くなってしまい、何故か、訪問するのを躊躇ってしまっていた。その理由を真剣に考えたことはないが、友情が薄れていて、自分を受け入れてもらえなかった時のことを考えて躊躇していたのだろうと思う。要するに、傷つくのが怖いということだ。
冷静になって考えてみると馬鹿げた話しではあるが、人間というのは、ちょっとしたブランクによって相手との距離を感じてしまうのだと思う。
こんな「新しいチャレンジ」とは程遠いことであっても、時と場合によっては「勇気」が必要だということだろう。
ある結果を望むのなら、自分から行動することが大切だということを改めて感じたひと時だった。日常のちょっとしたことでも。
何か新しいこと、チャレンジングなことをしようと思ったら、待っていても何も起こらない。自分から動くことが大切だという想いを込めた。
もうひとつ、「Future is the result of today.(未来は今日の結果です)」というコピーを書いた。これは、かなり評判が良かった。
今にして思うと、僕の自作の座右の銘のひとつである「人生はすべて必然」ということにも繋がっている。10年以上前から、そういうことを考えていたようだ。
そんなことにも繋がることが、この夏の帰省中にあった。
実家(福島県郡山市)の方には、今も交流がある友人が何人かいる。しかし、そのいずれも最後に会ったのは、思い出せないほど前のことだ。
いつも、帰省する度に「友人の家に寄ってみよう」と思うのだが、いつも行動に移さずじまいだったので、東京に戻る日に思い切って寄ってみた。
訪ねていった友人(2人)の家は、僕の実家からは車で2~3分の距離にある。
残念ながら、ふたりとも留守にしており、会うことは出来なかったが、ひとりはお父さんとお姉さんが、もうひとりはお母さんがいらして、本当に何年ぶりかで顔をみて言葉を交わした。僕の突然の訪問を心から歓迎してくれた。行って良かったと思った。
不思議なことに、仲の良い友人にも関らず、随分とご無沙汰してしまうと、なんとなく敷居が高くなってしまい、何故か、訪問するのを躊躇ってしまっていた。その理由を真剣に考えたことはないが、友情が薄れていて、自分を受け入れてもらえなかった時のことを考えて躊躇していたのだろうと思う。要するに、傷つくのが怖いということだ。
冷静になって考えてみると馬鹿げた話しではあるが、人間というのは、ちょっとしたブランクによって相手との距離を感じてしまうのだと思う。
こんな「新しいチャレンジ」とは程遠いことであっても、時と場合によっては「勇気」が必要だということだろう。
ある結果を望むのなら、自分から行動することが大切だということを改めて感じたひと時だった。日常のちょっとしたことでも。
あの頃の自分。
今週の日曜日から火曜日まで、ほんの短い時間だったが、子供を連れて久しぶりに実家に行っていた。弟夫妻と彼らの子供も来ていて、とても賑やかで、楽しい夏のひと時を過ごすことができた。

帰省中、我々兄弟の産みの両親と父方の祖父母の墓参りに行った。
その途中、車の窓から見える景色に懐かしさを覚えたと共に、子供が大きくなるにつれて、自分が辿って来た道を、もう一度、疑似体験することができるような気がした。
ドブ川でザリガニを捕ったこと、家の周りを自転車で走り回ったこと、朝早くに起きてカブトムシやクワガタを捕りにいったこと等、子供が大きくなると共に、自分が幼少の頃に経験してきたことを「もう一度」、彼の行動を通じて経験できそうな気がしている。もちろん、今の子供特有の遊びは別として。
そういう意味でも、自然の豊かなところに住みたいと思うようになった。
妻には反対されているが、将来、葉山辺りに一戸建てを建てて住みたいという想いがより一層強くなった。問題は、そのお金を作ることだが・・・(笑)。
でも、「夢は実現する」という信条のとおり、本気でそのことを願い、行動に移せば、必ず実現できると思っている。
自分の子供と一緒にクワガタを捕りに行けたら、幸せだろうと思う。

帰省中、我々兄弟の産みの両親と父方の祖父母の墓参りに行った。
その途中、車の窓から見える景色に懐かしさを覚えたと共に、子供が大きくなるにつれて、自分が辿って来た道を、もう一度、疑似体験することができるような気がした。
ドブ川でザリガニを捕ったこと、家の周りを自転車で走り回ったこと、朝早くに起きてカブトムシやクワガタを捕りにいったこと等、子供が大きくなると共に、自分が幼少の頃に経験してきたことを「もう一度」、彼の行動を通じて経験できそうな気がしている。もちろん、今の子供特有の遊びは別として。
そういう意味でも、自然の豊かなところに住みたいと思うようになった。
妻には反対されているが、将来、葉山辺りに一戸建てを建てて住みたいという想いがより一層強くなった。問題は、そのお金を作ることだが・・・(笑)。
でも、「夢は実現する」という信条のとおり、本気でそのことを願い、行動に移せば、必ず実現できると思っている。
自分の子供と一緒にクワガタを捕りに行けたら、幸せだろうと思う。
終戦記念日
8月15日。
今までの僕は、この日を今日ほど意識したことは無かったと思う。逆に言えば、今日は今まで以上に意識した。その理由は、先日のエントリーにも書いたが、子供が生まれたことによる。
お恥ずかしい話しで、僕は靖国問題を議論できるほど歴史に関する知識がないが、僕の弟は日本に限らず歴史に関する知識が豊富であり、昨晩は帰省先で、小泉首相の靖国参拝に関する是非や、何故、中国と韓国が靖国参拝に対して強い非難をしているのか?等、歴史的背景を含めて説明をしてくれた。僕も日本人として、もっと歴史を勉強しなければと思った。
自分が知識を有していないことを長々と書くのは嫌なので手短かにするが、靖国問題の本質は、各国の「歴史教育」にあると思う。
自国に都合の良いようにしか「歴史」を教えないという姿勢がある限り、靖国問題に限らず、このような政治問題は無くならないだろう。
確かに「きれいごと」では国際社会で行きていけないのだろうが、「利他の精神」があれば、飢餓や戦争を無くすことに大きく近づくのではないだろうか?
我々の子供達に明るい未来を残すために、僕も今更ながらではあるが、歴史を勉強しようと思う。
今までの僕は、この日を今日ほど意識したことは無かったと思う。逆に言えば、今日は今まで以上に意識した。その理由は、先日のエントリーにも書いたが、子供が生まれたことによる。
お恥ずかしい話しで、僕は靖国問題を議論できるほど歴史に関する知識がないが、僕の弟は日本に限らず歴史に関する知識が豊富であり、昨晩は帰省先で、小泉首相の靖国参拝に関する是非や、何故、中国と韓国が靖国参拝に対して強い非難をしているのか?等、歴史的背景を含めて説明をしてくれた。僕も日本人として、もっと歴史を勉強しなければと思った。
自分が知識を有していないことを長々と書くのは嫌なので手短かにするが、靖国問題の本質は、各国の「歴史教育」にあると思う。
自国に都合の良いようにしか「歴史」を教えないという姿勢がある限り、靖国問題に限らず、このような政治問題は無くならないだろう。
確かに「きれいごと」では国際社会で行きていけないのだろうが、「利他の精神」があれば、飢餓や戦争を無くすことに大きく近づくのではないだろうか?
我々の子供達に明るい未来を残すために、僕も今更ながらではあるが、歴史を勉強しようと思う。
家族の記憶
先程のエントリーに書いた「記憶」のことが、妙に頭に残っている。
正確に言うと、「最後には白紙だけが残る」というフレーズが、とても大きな「存在感」を持って、僕の脳裏に迫っている。
昨日は、妻の伯母の一周忌だったこともあり、また、今日はこれから実家に帰省することもあり、亡くなった家族のことを考えているのかもしれない。
先程、時間の合間を縫ってメールの整理をしていたら、今年の2月27日と28日に、僕を入れて「3人兄弟」でのメールのやりとりが出て来た。
2月27日は、僕らの生みの母親の命日である。
末弟のメールに、「あの頃の平石家のメンバーは、我々3兄弟しか生きていないのだな、と改めて思い、世の儚さみたいのものを感じ、喪失感を覚えました。・・・としみったれたことを言うのではなく、前向きに生きていきたいものです」と書いてあった。
あれから27年の歳月が流れたことを思うと、無理もないことかもしれないが、世の中の高齢化を反映してか、僕ら兄弟の友人達の両親は健在の方が多く、僕らはマイノリティである事実は変わらない。
そんな僕にとって、「そうしているうちに訪問者が少しずつ減っていき、書き込む人も減り、残されたコメントは薄れていき、最後には白紙だけが残る」という一文は、とてもリアリティがあり、「生」ということの「尊さ」を改めて感じるには充分過ぎる「パワー」を持っている。
そんな「静か」ではあるが「パワー」のある生き方をしたいと思う。
追伸:一昨日のゴルフのキャディさんは、どことなく、亡くなった妻の母親に似ているところがあった。とても頭の良い方で、コースの攻略法やラインの読みについて、的確なアドバイスをくれていた。
正確に言うと、「最後には白紙だけが残る」というフレーズが、とても大きな「存在感」を持って、僕の脳裏に迫っている。
昨日は、妻の伯母の一周忌だったこともあり、また、今日はこれから実家に帰省することもあり、亡くなった家族のことを考えているのかもしれない。
先程、時間の合間を縫ってメールの整理をしていたら、今年の2月27日と28日に、僕を入れて「3人兄弟」でのメールのやりとりが出て来た。
2月27日は、僕らの生みの母親の命日である。
末弟のメールに、「あの頃の平石家のメンバーは、我々3兄弟しか生きていないのだな、と改めて思い、世の儚さみたいのものを感じ、喪失感を覚えました。・・・としみったれたことを言うのではなく、前向きに生きていきたいものです」と書いてあった。
あれから27年の歳月が流れたことを思うと、無理もないことかもしれないが、世の中の高齢化を反映してか、僕ら兄弟の友人達の両親は健在の方が多く、僕らはマイノリティである事実は変わらない。
そんな僕にとって、「そうしているうちに訪問者が少しずつ減っていき、書き込む人も減り、残されたコメントは薄れていき、最後には白紙だけが残る」という一文は、とてもリアリティがあり、「生」ということの「尊さ」を改めて感じるには充分過ぎる「パワー」を持っている。
そんな「静か」ではあるが「パワー」のある生き方をしたいと思う。
追伸:一昨日のゴルフのキャディさんは、どことなく、亡くなった妻の母親に似ているところがあった。とても頭の良い方で、コースの攻略法やラインの読みについて、的確なアドバイスをくれていた。
記録より「記憶」。
いつだったか、新庄選手がメジャーリーグで活躍していた頃、「記録はイチロー君に任せて。『記憶』は僕に任せて」という発言をしていたことがある。なかなかおもしろいことを言うなあと思った。
先程、「記録より記憶」というエントリーのブログを読んだ。http://ieiriblog.jugem.jp/?eid=925
ある少年が開発した掲示板に、時間が経つとそのコメントがどんどん薄くなっていって、最後には消えてしまう、という機能が付いていたそうである。
その少年は、不幸にして事故で亡くなってしまったらしい。
<以下、元のブログより引用>
友人、ファンなどから掲示板に寄せられる大量のお悔やみコメント。
そのコメントひとつひとつに一生懸命に付けられるお母さんのレス。
だけど、悲しい事に、少年が実装した掲示板の売りの機能によって、その書き込みは時間が経つ毎にどんどん薄くなり、消えていく。
書かれる側から消えていく。
そうしているうちに訪問者が少しずつ減っていき、書き込む人も減り、残されたコメントは薄れていき、最後には白紙だけが残る。
途中までしか僕は見ていなかったので最後は想像だけど、すごく象徴的な出来事だったので今でも強く心に残っている。
<ここまで>
ある時、インフォプラントの大谷さん(彼は以前、ジャーナリスティックな番組を製作する会社を経営していた)と話しをしていた時、こんなことを言っていた。
「強く主張したい場合は、映像ではなく、むしろ、『写真』を使う。それも、カラーではなく、モノクロ。モノクロの写真の方が、見ている人の『想像力』を喚起する」。
たしかに、そうだと思う。
何でも「コピー」できる時代になり(それこそ、戦略もコピーできる)、モノゴトの価値が希薄化されていく。
「合理は語れない。非合理はストーリーになる」。東京大学大学院の教授をされていた片平秀貴氏の言葉だ。
合理的なことは誰でもが行き着くことなので、結局は「差別化」はできない。
「非合理」なことは「感動」を呼び、人々の「記憶」に深く刻まれる。そして、強いブランドが創られる。ということを、片平氏は言っていた。
インターネットというのは、基本的に「合理的」な世界であり、それ故に、どんなジャンルにおいても必ず、「一強」が表れれる。どこでも基本的に同じなので、そこに修練するからだ。
「記録(数字)」ではなく、「記憶」に残る人間や会社やブランドでありたい。
先程、「記録より記憶」というエントリーのブログを読んだ。http://ieiriblog.jugem.jp/?eid=925
ある少年が開発した掲示板に、時間が経つとそのコメントがどんどん薄くなっていって、最後には消えてしまう、という機能が付いていたそうである。
その少年は、不幸にして事故で亡くなってしまったらしい。
<以下、元のブログより引用>
友人、ファンなどから掲示板に寄せられる大量のお悔やみコメント。
そのコメントひとつひとつに一生懸命に付けられるお母さんのレス。
だけど、悲しい事に、少年が実装した掲示板の売りの機能によって、その書き込みは時間が経つ毎にどんどん薄くなり、消えていく。
書かれる側から消えていく。
そうしているうちに訪問者が少しずつ減っていき、書き込む人も減り、残されたコメントは薄れていき、最後には白紙だけが残る。
途中までしか僕は見ていなかったので最後は想像だけど、すごく象徴的な出来事だったので今でも強く心に残っている。
<ここまで>
ある時、インフォプラントの大谷さん(彼は以前、ジャーナリスティックな番組を製作する会社を経営していた)と話しをしていた時、こんなことを言っていた。
「強く主張したい場合は、映像ではなく、むしろ、『写真』を使う。それも、カラーではなく、モノクロ。モノクロの写真の方が、見ている人の『想像力』を喚起する」。
たしかに、そうだと思う。
何でも「コピー」できる時代になり(それこそ、戦略もコピーできる)、モノゴトの価値が希薄化されていく。
「合理は語れない。非合理はストーリーになる」。東京大学大学院の教授をされていた片平秀貴氏の言葉だ。
合理的なことは誰でもが行き着くことなので、結局は「差別化」はできない。
「非合理」なことは「感動」を呼び、人々の「記憶」に深く刻まれる。そして、強いブランドが創られる。ということを、片平氏は言っていた。
インターネットというのは、基本的に「合理的」な世界であり、それ故に、どんなジャンルにおいても必ず、「一強」が表れれる。どこでも基本的に同じなので、そこに修練するからだ。
「記録(数字)」ではなく、「記憶」に残る人間や会社やブランドでありたい。
僕がドリームビジョンを通じてやりたいこと。
今朝早く、悠生に起こされてしまい、MacBook Pro を立ち上げた。ドリームビジョンSNSを開くと、木村さんという方のBlog更新が目に留まった。http://blog.kimuratadaaki.com/
彼が将来、やりたいと思っていることは、広い意味での「教育事業」であり、「自己実現」のサポートのようなものだと、ひとつ前のエントリーに書いてあった。
そのエントリーを読んで、僕がドリームビジョンとしてやろうとしていることを、改めて考えてみた。
僕がドリームビジョンを通じてやりたいことを突き詰めると、それは、より多くの人が「自分を信じ、前に進んで行く」ために必要な「夢や勇気や感動」を与えることだ。
更に言えば、「夢や勇気や感動」を与えることは「手段」あるいは「結果」であり、より多くの人が「自分を信じ、前に進んで行ける」世の中を実現することが「目的」ということになる。
僕にとっては、「果てしない夢」である。
話しは変わるが、随分前に前刀さん達とゴルフに行った際に、彼が「不完全燃焼だから、また、やりたいって思うんだよ」と言っていた。
僕がドリームビジョンを通じてやろうとしていることは、「果てしない夢」であり、常に「未完」であり「不完全燃焼」であるから、一生、やり続けることができると思っている。
一昨日、久しぶりにゴルフに行ったが、やはり、不完全燃焼だった。しかし、スウィング改造の結果がところどころに表れていて、「手応え」を感じた。
この「手応え」、つまり、不完全燃焼ではあるものの、「前に進んでいる」ということを実感できることも、何かをやり続けるためには大切な要素なのだろう。
彼が将来、やりたいと思っていることは、広い意味での「教育事業」であり、「自己実現」のサポートのようなものだと、ひとつ前のエントリーに書いてあった。
そのエントリーを読んで、僕がドリームビジョンとしてやろうとしていることを、改めて考えてみた。
僕がドリームビジョンを通じてやりたいことを突き詰めると、それは、より多くの人が「自分を信じ、前に進んで行く」ために必要な「夢や勇気や感動」を与えることだ。
更に言えば、「夢や勇気や感動」を与えることは「手段」あるいは「結果」であり、より多くの人が「自分を信じ、前に進んで行ける」世の中を実現することが「目的」ということになる。
僕にとっては、「果てしない夢」である。
話しは変わるが、随分前に前刀さん達とゴルフに行った際に、彼が「不完全燃焼だから、また、やりたいって思うんだよ」と言っていた。
僕がドリームビジョンを通じてやろうとしていることは、「果てしない夢」であり、常に「未完」であり「不完全燃焼」であるから、一生、やり続けることができると思っている。
一昨日、久しぶりにゴルフに行ったが、やはり、不完全燃焼だった。しかし、スウィング改造の結果がところどころに表れていて、「手応え」を感じた。
この「手応え」、つまり、不完全燃焼ではあるものの、「前に進んでいる」ということを実感できることも、何かをやり続けるためには大切な要素なのだろう。
マクロミルの杉本さん
昨日の市場が閉まった後、マクロミルから業績並びに代表取締役および役員の異動に関するリリースがあった。
マクロミルの創業者であり、現在、代表取締役会長CEOである杉本さんが、来月の定時株主総会および総会後の取締役会議における決議を経て、代表取締役を退任し、取締役に就任するという発表がなされた。
http://www.macromill.com/ir/pdf/release_20060811a.pdf
杉本さんとは、マクロミルおよびインタースコープの創業の年である2000年からの付き合いであり、今に至るプロセスをお互いに知る関係でもあり、また、インフォプラントの大谷さんと共に、インターネットリサーチ業界を創ってきた「業界の盟友」でもあり、僕にとっては同業他社の役員人事という出来事を超えて、とても大きなインパクトがあった。
今年の3月、僕がインタースコープを退任するに際して、同じく「業界の盟友」であるインフォプラントの大谷さんに挨拶に行った際にも同じようなことを言われたが、インターネットリサーチ業界にとって、ひとつの「時代」が終わったという気がしている。
今回の意思決定の背景には部外者には計り知れないものがあると思うが、数年後に振り返った時、今回の出来事が、マクロミルという会社に留まらず、インターネットリサーチ業界全体の分岐点になったという理解がなされるように思う。
今月30日のネットエイジの上場も、ある意味、ひとつの時代の「区切り」であり、2000年前後から始まったネットベンチャー・ムーブメントの第1章の終わりであり、第2章の幕開けでもあるような気がする。
時代は変わる。でも、「起業」という「イノベーション」は変わらない。
マクロミルの創業者であり、現在、代表取締役会長CEOである杉本さんが、来月の定時株主総会および総会後の取締役会議における決議を経て、代表取締役を退任し、取締役に就任するという発表がなされた。
http://www.macromill.com/ir/pdf/release_20060811a.pdf
杉本さんとは、マクロミルおよびインタースコープの創業の年である2000年からの付き合いであり、今に至るプロセスをお互いに知る関係でもあり、また、インフォプラントの大谷さんと共に、インターネットリサーチ業界を創ってきた「業界の盟友」でもあり、僕にとっては同業他社の役員人事という出来事を超えて、とても大きなインパクトがあった。
今年の3月、僕がインタースコープを退任するに際して、同じく「業界の盟友」であるインフォプラントの大谷さんに挨拶に行った際にも同じようなことを言われたが、インターネットリサーチ業界にとって、ひとつの「時代」が終わったという気がしている。
今回の意思決定の背景には部外者には計り知れないものがあると思うが、数年後に振り返った時、今回の出来事が、マクロミルという会社に留まらず、インターネットリサーチ業界全体の分岐点になったという理解がなされるように思う。
今月30日のネットエイジの上場も、ある意味、ひとつの時代の「区切り」であり、2000年前後から始まったネットベンチャー・ムーブメントの第1章の終わりであり、第2章の幕開けでもあるような気がする。
時代は変わる。でも、「起業」という「イノベーション」は変わらない。