昨年8月7日に、

広島と長崎への原爆投下について:1 」と題して

主に日本側の当時の「裏事情」なるものを

ご紹介させて頂いた。


今回は、その続きで、

主としてアメリカ側の「裏事情」を

まとめてみることにした。


前回でも触れたことだが、

アメリカの議会で原爆開発予算が

承認されたのは、1941年12月6日で

この日は、あの「真珠湾攻撃」の前日だった!

(真珠湾攻撃は、現地で12月7日、

日本時間では12月8日の未明だった)


当初の予算は、6000ドルだったのだが、

最終的に、20億ドルもの国家予算が

投入された。

(真珠湾攻撃の直後の12月16日、

軍事予算から急遽500万ドルが

原爆開発費に回されることが決定された)


ルーズベルト大統領が

日本への原爆攻撃を指示したのは、

1945年4月初旬で、直後の4月12日に

ポリオの後遺症で63歳で亡くなっている。


実はこの頃、日本各地が

空襲で焼け野原になってしまい、

原爆投下の効果測定のため、

空襲されていない都市を目標とすることが

日ごとに難しくなっていく時期だった。

(投下目標の最終候補地は、新潟、京都、

広島、小倉、長崎だった)


結局、日本への原爆投下の命令を下したのは

後任のトルーマン大統領となった。


ジョン・F・ケネディが暗殺されて

急遽副大統領から大統領に昇格した

リンドン・B・ジョンソンのように、

亡くなった大統領が高い人気を誇っていた場合、

任期途中で後任の大統領になった人物は

相当のプレッシャーがかかる。


中でも、目に見えて国民に自分の手柄を

アピール出来ないと、次の選挙で

落選するのではという恐怖感が

在任中に常に付きまとう。


トルーマンは、そういうプレッシャーから

自分の手で日本との戦争を終結させるんだ

という気負いが強かっただけでなく、

20億ドルもの予算をつぎ込んだ

原爆を使わないまま日本が降伏しても

これまた大きな汚点になると確信していた。


多くのアメリカ人(70%強)が、

日本軍による真珠湾攻撃は卑劣な攻撃であり、

米軍による原爆投下は、

戦争を終結させるためには、やむを得なかった

と信じている。


そこで、真珠湾攻撃について

簡単に検証しておくことにする。


「日本軍がハワイの海軍基地を

奇襲攻撃したのは、

米国に宣戦布告を出す直前で、

これは明らかに卑劣なだまし討ちだ!」

真珠湾攻撃直後に

ルーズベルト大統領は、こんな趣旨の

演説を国民に向けた特別ラジオ放送で

行っている。


結局、この言葉が

アメリカ国民を洗脳してしまい、

太平洋戦争へとアメリカ国民を駆り立て

「リメンバー・パール・ハーバー」なる言葉が

一人歩きするようになり、

事実の検証がされることはなかった。


詳細は省くが、

確実に言えることは、当時の

ワシントンにいた日本大使館の外交官が

暗号無線を受け取り、

それをちゃんとした外交文章の英語に

翻訳するのに時間がかかり過ぎてしまった

という実にお粗末な理由だったのだ。


全文をきちんとタイプ打ちしてから

アメリカ政府側に届けた時は

もう真珠湾攻撃が始まった後だったのだ。


おバカなのは、当時の日本大使館の

外交官たちだ。

まさに彼らのしたことは、

「お役所仕事」だった。


暗号文の頭の部分を翻訳しただけで

「これは、宣戦布告書ではないか!」

と気づくはずだ。


となると、本来ならば「この後の文章で、

戦争に突入せざるを得なくなった理由が

いろいろと挙げられているようだが、

先ずは冒頭の宣戦布告の部分だけでも

真っ先にアメリカ政府側に届けよう。

正式な全文翻訳には、あと半日程かかると

伝えれば十分ではないか」

と考えて、即行動を起こすべきだったのだ。


決して、日本政府が「だまし討ち」しようとした

わけではなかった。


日本とアメリカの違いはそれだけではない。

日本が行った真珠湾攻撃は

アメリカの海軍基地を攻撃目標としたもので

基地内で働いていた民間人にも

犠牲者は出ただろうが、

住宅街や商店街、オフィス街を

一切爆撃しなかったことを忘れてはいけない。


ところが、二発の原爆だけでなく

東京や横浜、名古屋、大阪、神戸などでの

B29による焼夷弾とガソリンによる攻撃は

明らかに民間人を含めた皆殺し作戦であり、

ホロコースト以外の何物でもなかった!!


日本軍による真珠湾攻撃をを非難した

ルーズベルト大統領だが

アメリカ政府自体が起こしたメキシコとの戦争

でも、アメリカは宣戦布告を出さずに

攻撃を始めており、奇襲攻撃だったのだ。


少なくても宣戦布告書を相手に

届けようとしただけでも、まだ

日本の方がましだったのだ。


また、公式な記録は残されていないが、

可能性が大なのは、

アメリカ軍は英国軍との協力で

日本軍の暗号無線を既に解読しており

真珠湾攻撃があることを

ルーズベルトは事前に知っていたということだ。


スティムソン戦争長官(開戦当時は

陸軍長官)の1941年11月25日の日記には

次のように書かれていた。


その日、大統領から

「我々は、恐らく次の月曜日に

攻撃を受けるであろう」という警告があった。

問題は、こちらの危険を出来るだけ少なくして

相手から先に攻撃の矢を射かけさせるように、

どうやって仕向けるかだ。


このことからも、

ルーズベルト大統領もスティムソン長官も

11月25日の時点で

まもなく日本が攻撃を仕掛けてくることを

知っていたことになる。


さらに東海岸にいた、古い戦艦などを

わざわざ直前にハワイに移動させていた

だけでなく、当時の太平洋艦隊司令官の

キンメル中将には、この作戦のことを

スティムソン長官は意図的に

全く知らせていなかった。


また、当時のアメリカ軍の首脳部にも

核兵器を実戦で使うことに反対していた

人物が何人もいたのも事実である。

彼らは、そんな大量殺戮兵器が実戦で

使われるようになれば、

軍の首脳部や政府は、

新兵器開発に予算を回し、

最前線で戦う兵士の存在を

注目することはあっても

軽く見るようになるのではと恐れたのだ。


そして、そんな兵器を使えば

いつか同じような兵器で

自国が報復されることになると

いうことも恐れたのだ。

(人道的立場から反対してのではない)

終戦後に大統領になった

陸軍のアイゼンハワー将軍だけでなく、

同じ陸軍のマッカーサー大将、ヘール中将、

ケニー中将や、海軍のニミッツ大将などが、

原爆投下に反対の声を上げたが、

残念ながらその声は消されてしまった。

(彼らは内部での勢力争い、つまり政争に

弱かったのだ)

では、一体誰が強行に

日本への原爆投下を支持したのか?

(あるいは、日本が降伏する前に二発の

原爆を落とそうとしたのか?)

その戦犯の名前を挙げておこう。

フランクリン・ルーズベルト大統領、

ヘンリー・ルース・スティムソン戦争長官、

レスリー・リチャード・グローブス将軍(陸軍工兵隊)、

ロスアラモス研究所の

ロバート・オッペンハイマー所長&

「マンハッタン計画」に参加した学者たち、

ハリー・S・トルーマン大統領。


彼らは間違いなく日本にとっての「戦犯」だ!

20億ドルもの開発費をかけた核兵器を

親戚や友人のいるドイツやイタリヤではなく、

太平洋の向こうにいる得体の知れない

「イエロー・モンキー」になら人体実験を

してもいいんではないかと考えたのだ。

そこに、もう一人

付け加えておかなければならない

人物がいる。

東京他、日本各地の人口5万人以上

(中には3万人の郡山市も)の都市で

絨毯爆撃を行い、

多くの一般市民を1800度の高温で

焼き殺すことを命令した張本人、それが

カーティス・ルメイ将軍だ。

(彼は、太平洋の戦略爆撃部隊の司令官として

原爆投下も指揮している)

実は、東京大空襲での被害は

広島と長崎の被害に匹敵する程の

規模だったのだ。

1945年3月10日のたった1日の空襲だけで

死者8万3793人、負傷者4万9118人!

(広島の原爆で死者6万6千人、

負傷者6万9千人、

長崎の原爆で死者3万9千人、

負傷者2万5千人)

ルメイ将軍は、原爆投下間近の7月31日

まるでダメ押しのごとく、1000機のB29で

日本の都市をこれでもかと絨毯爆撃させている。


結果的に、カーティス・ルメイによって

日本の人口5万人以上の26都市全てが爆撃され、

焼夷弾で50万人以上の一般市民が

焼き殺されたのだ。

(これは、原爆10発分のホロコーストだ!)

このカーティス・ルメイに、

わざわざ勲章をあげたバカな日本人がいた!

佐藤栄作である。

カーティ・ルメイが、戦後、

日本の航空自衛隊の育成に

協力してくれたという理由で

1964年(東京オリンピック開催の年)に

「勲一等旭日大綬章」を授与したのだ。

空襲で家族を失った日本人が

この事実を知ったらどう思うだろうか?


では、なぜ広島と長崎だったのか?


(つづく)