ドイツの哲学者R.D.プレヒトの本を4冊借りていましたが、期間がきたので返却しました。全て流し読みですが、例によって印象に残った部分を書き留めます。


人間の意識は、「真理とは何か?」というような切迫した問いによって形づくられたのではない。もっと重要なのは、おそらく次のような問いであった。私が生きのびて、前進するためには、何が最善のことなのか?そのために役に立たないようなものは、人間の進化において重要な役割を演じるチャンスなど、おそらくあまりなかっただろう。もしかしたら、まさにこのような自己認識こそが人間をより賢くし、場合によっては、人間の認識感覚を実際に拡大させるような「超人」を可能にするかもしれない。 


霊長類の脳は他者の立場に立って考える可能性を備え持っており、しかも「善い」行為には(神経化学的な)報酬が与えられる。倫理的な行動は複雑な利他主義である。そのような行動は、感情ならびに慎重な検討(理性)から成り立っている。人に善良であることを義務づける、カントの言うような「道徳法則」は、人間には存在しない。しかし道徳的な行為がなされるのは、それがたいてい個人にとっても、その個人が属する集団にとっても有益だからである。個人がどれほど多くそれを用いるかは、自尊心の問題がきわめて大きく、そしてこれはまた教育の問題でもある。


愛とは、「相手の幸福の中に自分自身の幸福を見つける」こと=他者の目に映る自己を確認したい(自己確認!)


もとより哲学は素人の学問であるといわれる。哲学は本来、知恵を愛し求める"行為"であり、大学で学問として行なわれているような出来合いの知識としての"教科"ではない。哲学者とは「智恵のある者」(ソフィスト)ではなく、ソクラテスのような智恵のない者であり、「無知の知」によっておのれの智恵のなさを自覚しているからこそ、「智恵を希求する者」(フィロソフォス)となるのである。そのような意味でも、何らかの分野の専門家ではなく、つねに疑問を発する素人こそがおよそ真の哲学者にふさわしいといえよう。その哲学的姿勢とは、表面的な思いこみや思惑にとらわれず、いっさいの先入観や偏見を持たずに、絶えず疑問を発して根本的に問題を見すえ、問題意識を深めていく知的営為である。(訳者あとがき)


次に著者の立場で重要な点は、この技術に反対しているわけでないということだ。彼が納得できないのは、デジタル技術でどのような社会になるのかを、多くの人々が想像しようともしない点にある。結局のところ、私たちは技術的に可能だとして提供されているものを、便利なものとして受け入れてしまっているだけだという。私たちの未来が問題になっている以上、どのようなデジタル化を望むのかを考えるべきだと提案する。ところが、国民の大多数は、デジタル化されても未来は良くならないと漫然と思っているようで、政治家もその事情を考慮して厄介な問題にふれないようにしている。(略)未来への行く末を問題視しないこうした事態にこそ、ビジョンを描くことを一切慎むというドイツ世論の現状がある。これではだめで、今こそ、後ろ向きの過去への憧憬(レトロピア)でもなく、それにまた破滅的な未来像(ディストピア)にも怖じけず、長いあいだ忘れられていたユートピアという言葉を思い出して、元気に前進すべきだと著者は主張する。(解説より)


愛は情動(知覚の重点は体。餓え、寒さ、性欲などの即自)ではなく、何かもっとはるかに複雑なもの、すなわち感情(知覚の重点は精神)だ! 感情は、情動が表象(現在の瞬間に知覚してはいない事物や現象について、心に描く像。イメージ)を引き起こすときに生じる。情動→感情→(相手の身になった)行動の三つが揃って、愛が成り立つ。


私たちの愛の表象は生化学的なものではなくて社会的なものだ。同じ興奮であっても、社会がさまざまに異なれば、自分自身に起きている事柄についても異なった解釈がなされる。私たちの今日の男女間の愛の表象を支配する「ロマンチックな愛」は、数々の愛のモデルのうちのひとつだ。その最も重要な特徴はセックスと愛の融合という理念だが、これが実際に経験されることはまずなかった。誰も恋したりしないだろう、恋について知らなかったなら。―ラ・ロシュフコー