そんなときこそ晴々した顔が見たいのだから、わるい天気にはいい顔をするものだ
と説いてます。
それに対して、寺山は以下のように書いてます。(9ページ 文庫版初版)。
「アランの幸福論は、ベトナム戦争だろうと、李珍宇の女子高校生殺しだろうと、
すべて幸福に化してしまうきわめてユニークなものである。だが
アランの「幸福論」などくそくらえ!
幸福であることが他人に対しても義務であることはもちろんだが、
自らの毒気を消化し、言いたりない怒りをさえ浄化してしまうような
「幸福論」は、ほんの気紛れにしかならないだろう。
「わるい天気にはいい顔をするものだ」とばかり、ほほえみをたたえていたとしても、
その幸福は他人に対しての義務を果たしたことにはならない。
ときには、自分が不幸であることで、
他人への誠実を約束する場合だってあるものである。」
さて、「幸福であることは他人に対しても義務である」というのは、
実はアランの幸福論からの引用です。
自分が幸福でないと、不機嫌になって、それが(家族や職場の)周りに伝わり
不幸が連鎖してしまうので、幸福であることは
他人への誠実であり、義務だということです。
この点については、寺山もアランに同意しており、
「幸福であることは他人に対しても義務」というのは真実と言ってよいでしょう。
ただ、寺山は「「わるい天気にはいい顔をする」のではなく、
自らの毒気や怒りを消し去らずに、それを表現することが大事だと言っているのです。
寺山は、障害者に対して見て見ぬフリをする社会に反発し、
彼らを俳優として採用して、芝居の舞台にあげ、
「障害者であることを表現せよ」と言いました。
乙武洋匡氏も、「究極のバリアフリーは障害をネタに笑える社会」
と言っていますが、
ハンディをハンディと後ろ向きにとらえるのではなく、
それを生かしていくことこそが、幸福論なのでしょう。
ただ、今の日本は、「幸福であることが他人に対しても義務」
ということさえ、忘れられている気もします。
なお、余談ですが、Wikipediaによれば、
見世物小屋は、社会福祉が未発達の頃は、身体障害者が金銭を得る為の仕事でしたが、
昭和50年以降、身障者を舞台に出演させて見世物とする事は取締られるようになった、
とのことです。
ただ、私は昭和50年代後半に、青森の野辺地と茨城の水戸で見たことがあります。
