天安門大虐殺を生き延び、世界から忘れ去られた人々の今 | チベットとビルマの難民支援 難民支援NGO"Dream for Children"公式ブログ

天安門大虐殺を生き延び、世界から忘れ去られた人々の今


1989年、中国北京の天安門広場に数千人が集った。胡耀邦元国家主席の死を悼むためであった。その後、数週間にわたる学生を中心とする抗議が起きた。

 
当時、Zhang Qiang 華南理工大学の学生であった。Zhang は広東省庁舎前で抗議を行う学生の先頭にいた。今、Zhang は、社会から疎外され、家族からも見捨てられ、ホームレスになっている。
 
住所も身分証明書もない。著名な抗議活動参加者はよく知られていても、Zhang のことを知る人は少ないだろう。
 
しかし、Zhang のような境遇に置かれている人は、数百人、いや、数千人いる。数週間抗議活動に参加した結末がこれなのだ。
 
1989年5月19日、鄧小平は戒厳令を出した。Zhang とクラスメートは怒りを覚えた。
 
「憲法違反だと思いました。この国に禍が降りかかると思いました。」

Zhang は学生集団の先頭に立った。Zhang は抗議活動の首謀者と当局に見なされた。これがその後の彼の人生に影響を及ぼすこととなった。
 
 
[退学命令]
「1989年10月10日、大学は、私を退学させる決定をしました。」
 
「学長も、副学長も、教育責任者も個人としては、私の退学にはサインしていません。ただ私の退学を決める文書に公式スタンプが押されたのです。」
 
大学の教師が間に割って入ってくれたおかげで、Zhang は1990年に大学を卒業することができ、就職もできた。しかし、大学との諍いは続き、Zhang の戸籍の問題は解決しなかった。そして、1996年、身分証明書がはく奪された。
 
これが意味するのは、Zhang はそれ以降、わずかな例外を除いて、就業が認められないということだった。
 
「荷物運びの求人が工場であります。そこでよく働いています。工場では、身分を確認されないのです。」
 
結婚をし、子供に教育を受けさせるには戸籍が必要だ。
 
戸籍のない Zhang は息子に身分を持たせることができなかった。そして、ガールフレンドと息子は、2010年に去っていった。
 
Zhang はその後も頻繁に大学、警察、裁判所を訪ね、問題を解決しようとしたが、たらい回しにされるだけだった。
 
現在、Zhang は友人のアパートを間借りしている。公式な居住許可はない。
 
「現在の政権が続けば、私には、食べる権利も寝る権利もありません。恐ろしいことです。」
 
 
[有罪となった人のリスト]
Li Hai は1989年、北京大学の大学院生であった。天安門大虐殺の際、抗議する学生の中心にいた。

Li は4年がかりで、天安門での「暴動剤」で裁かれた522人のリストをつくりあげた。
 
「全員が若い人たちでした。ほとんどの人に家族がいました。」
 
その後、当局は、Li が作成したリストに目を付け、「国家機密漏洩罪」で Li に懲役9年の判決を下した。
 
また、天安門で戦車の前に立ちはだかった Wang Lianxi は、精神的に障がいをかかえていたという。Wang は自らの行動を説明できないまま死刑判決を受けた。
 
その後、精神障がいを考慮され、Wang の刑は懲役20年に減刑された。そして、2007年まで投獄されていた。
 
Wang は回復することなく、2008年に病院で息を引き取った。
 
 
「悲劇的な不幸」
 
現在オランダ在住の Jiang Fuzhen は、1989年当時、青島で暮らしていた。
 
Jiang は李鵬首相を批判する文書を貼った。これにより、「反革命的プロパガンダを流布し、扇動を行った」として懲役8年の判決を受けた。
 
Jiang は釈放後、自分よりもひどい扱いを受けた人がたくさんいることを知った。
「正直なところ、彼らは政治的な目的は持っていませんでした。悲劇的な不幸です。」
 
天安門事件に関係していたとして懲役13年の判決を受けた Wang Juntao は次のように語った。
「当局からひどい扱いをされた人を見付けることができたとしても、彼らは自身の経験を語りたがらないかもしれません。彼らは刑務所で拷問を受けました。釈放後も恐怖は消えないのです。」
 
「彼らは、もし罪を認めなかったら、殺されていたかもしれません。」
 
 
[失踪の恐怖]
 
Li Hai は、2004年の釈放後、職に就くことはできてない。
 
「絶えず警察が私のところに来て嫌がらせをします。ある年には、自宅に16回来ました。」
 
Li は当局により、「失踪者扱い」にされる恐怖を感じている。
 
「通常の暮らしには戻れません。」
 
また、抗議活動に参加し懲役6年の判決を受けた Liu Jiwei は次のように語った。
「私は、食肉解体業者の前にいる羊のようです。ベンチに縛られて、ナイフを突きつけられています。いつナイフで襲われるかわかりません。どうすることもできません。」
 
Zhu Liquan は、1989年当時、南京大学の大学院生であった。
 
刑期を終えて釈放されると、すべてが変わっていた。もう通常の暮らしには戻れなかった。
 
「世界のことを気にする人はいるかもしれません。しかし、私のことを心配する人はいません。私のことが海外に知られないように中国政府はするでしょう。」
 
「私は友人に、同じ鼓動が胸に鳴っていると言います。その鼓動は、1989年当時と同じ鼓動です。」
 
【亀田浩史訳】
 
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