3月12日(土) | のだま(野球)カンタービレ

3月12日(土)

クリニックの向かいの実家に戻り、真っ暗な中手探りでベッドに潜り込む。

寒い。

氷のようなシーツに身を潜め、想うのは仙台に残した私の家族。

仙台も手酷い損害を受けた模様。

連絡なぞつく訳もなく

「無事に決まっている」

無理にそう信じた。

幸いにも母は無事。

弟夫婦と共に避難をしている。

真っ暗な家の中で靴を足元に置き、余震に耐えながら1時間程ウトウトする。

部屋が少し明るくなり、外をそっと見ると市内は水が引いておらず、方々から煙が上がっている。

まとめておいた薬を往診車に積み込みK小学校へと向かう。

幹線道路は瓦礫の山。
裏道を使い何とか到着。

避難所のテーブルを使わせてもらい、簡単な診察をしながら薬を処方。

薬を無くした方がずらりと並び、次々と泥水にまみれ、膨れあがったお薬手帳が差し出される。

こんな時なのに皆、整然と並んでいる。

横入りする者もおらずお年寄りを優先させている。

メモ帳に名前、生年月日、住所を書いて頂き、処方した薬物名と力価を記録する。

誰が、誰に、何の薬を、どのくらい処方したか、記録しておく必要がある。

お薬手帳から命に関わる薬をピックアップし、同程度のウチのクリニックの薬と置き換えていく。

お薬手帳すら持ち出せなかった方も多数。


慎重に3日分の処方を重ねる。

もし、処方ミスをしたら?

薬の副作用が出たらどうする?

躊躇する時間はありませんでした。

考えろ!集中しろ!せっかく津波をかい潜ってきた命!

薬が無いために命が失われてはならない!

処方終了後、市役所の災害対策本部へ。

情報は断片的。

他の医師の安否すらはっきりしない。

その後の会議で私の診療担当避難所が決まった。

クリニックから道路が確保されている3ケ所。

合計収容人数…

1800人って…

県外からの災害医療派遣チーム(DMAT)が避難所に着くまで支えるにはあまりにも多い…
時間的にDMATはもう到着しているだろう。

重傷者の応急手当をしながらヘリや救急車で県の中央の病院に搬送している筈。

それが一段落すれば避難所への巡回診療が始まる。

それまで何とか繋ごう。

実をいうとその後の事はよく覚えていません。

いつ食事を摂ったのか、いつ寝たのか、とにかく必死の診察と処方が続き、DMATに引き継ぎの握手をしたのは覚えていますが…

自分の行動を記録する暇もありませんでした。

気がつくとあれだけ沢山あったクリニックの薬も底をついてしまいました。

これで役目が終わったわけではない。

まだ市職員やDMATが入っていない避難所が沢山ある。

依然、連絡が全くとれないO地区、R地区に狙いを定めて災害対策本部に医療チーム編成を依頼。

チームは私、保健師、市職員の3人。

衛生材料、救急セット、なけなしの薬を車に積み込み、割れたアスファルトに気をつけながら急ぐ。

この時点で津波から3日を経過していました。