漫画喫茶に行って来たのでちょっと書く。
割と長時間に渡って滞在したので、書こうと思えばいろいろ書けるのだが、気になったことを。

新刊で出ていた『フルーツバスケット』について。
気になったのは、漫画のギミック部分に意味はあったのかという点だ。
この漫画では、主人公の少女は12支に変身する人々に囲まれる。
最後のほうではそれらの人々はそれぞれその制約から解放され、ラストはつまはじきの猫と少女がくっつく。

この作者の結論部分は、恋愛ものによくあるパターンで、誰か他人に受け入れられることによる自己確認、
「こんな俺を好きになってくれてありがとうパターン」なのだが、そこに持って行くのであれば、
12支がどうのこうのは枝葉、と言う気がする。
多分この話は12支どうこうで変身するとかを省いてしまえば、かなりすっきりとまとまったのではないかと思う。

コメディとしてあえて非現実な設定をするならば、それもありかと思う。
しかしこの場合、結論部は結構重いことなので、かなり設定が中途半端な印象を受ける。
というか、この作者はそういうところがある。確か以前の作も最後で同様の印象を持った。
非現実的な設定は非現実的な解決方法に結びつく。
この作の結論はそういうこともないので、じゃあ、あの設定は何だったの、となる。

厨くさい設定で軽く始めて、最終的に重いテーマを扱おうとしてぐだぐだの展開であった。
23巻まで引っ張ったからその過程でいろいろあったのかもしれないが。
どこかでチラッと読んでしまい、一応最後が気になったので読んだのだが、かなり恥ずかしかった。
とりあえず、この人は厨好みの設定作りは才能があるのかもしれない。それが逆に邪魔になっている気がした。

今回読んだ中では『チェーザレ』はかなりよかった。
ルネッサンスの異端児、チェーザレ・ボルジアの生涯を追ったものだが、
かなり細かいところまで考証がなされていることが、巻末の参考文献を見るとわかる。
これについては、出色の出来なので、あまり語りたくない。

そういえば、知人の勧めで、『ワンピース』も読んだのだが、些細なとこが気になってしまった。
「海賊」という言葉である。
こういう意見は大人気ないということは重々承知しているのだが、
海賊というと、どうもマラッカ海峡でタンカーでも襲っているイメージしかなくて、
「海賊王に俺はなる!」という主人公に、「船乗りにしといたほうがいいんじゃないの?」という意識がどうしても抜けなかった。
やはり読むべき時期というのはあるものだ。

男性の場合、ジャンプ少年誌的な展開は、10代半ば辺りまでに耐性がついてしまうので、
どうしても新鮮さが消えてしまう。まあよほどそういう展開が好きな人は別だと思うのだが。
『D・B』『幽白』『S・D』『JOJO』、ちょっと遅れて『るろ剣』の世代にとってはちょっと中毒性が低い気がした。
まあ、今後もう少し読み進めてみるつもりなので、あくまで第一印象だが。
いずれまた発見があれば書くことにする。

1971,土居健郎,『甘えの構造』が読みたくなったので家を探したのだが、どうも見当たらないので困った。
AMAZONでレビューを見てみると結構批判(中傷ではなくて学術的な意味合いで。)があるようだ。
とは言え、日本文化論としてひとつの優れた視点を提供してくれる点に変わりはない。

記憶によれば、内容は、「甘え」に相当する言葉が諸外国では見当たらない点に着目し、
対人、対社会等の関係を、幼少時の親との関係に見られる「甘え」に着目することで
読み解いていく、ということだったように思う。

大雑把に言えば、日本人は母親との間の「甘え」の関係を全社会に対しても持ち込み、
その結果として密な距離の集団、つまりまあ世間というやつだと思うのだが、を成立させている。
(あるいはさせてきた。)そのため、日本人は恋人などに対しても「甘え」を中心とした関係を
築く、というのである。

批判にもあるように、論者自身が「甘え」というキーワードを明確に規定することなく、
いろんなものに適用してしまっているので、不明瞭な部分がある上に、30年以上前の
本なので、その間の日本の変化というものは考慮されていないわけだが。

多分、「甘え」というのは、一種の依存関係である。
さらに噛み砕けば、なあなあの関係、言わなくてもわかるでしょ、ということだと思う。
これは「暗黙の了解」とは少し違う。四文字熟語の「以心伝心」だ。
日本で以心伝心が美徳であったということは否定できないことである。

というか、今も美徳なんだろうな。
多分、「甘え」も程度問題で、同様の行為がまったくないということもないのだと思う。
ただ、それを前提にして事態が成立されるのは困ってしまう。
精神的に依存したりされたりするのはきついと思うのだがどうなのだろうか。
そういうコミュニティが成立し、その内部に組み込まれてしまえばまったく気にならないものなのだろうか。

と、ここまで書いて自分にもそういう一面があることを反省。
私も日本人ということか。
小1でゲームと出会って以来、ずっとやり続けてはいるのだが、
今はすでに当時のテンションはなくなってしまった。
どのくらいの落差があるかというと、小学3年生(15)と会社相談役(76)のクリスマスくらいに
違うと思う。過ぎ去った日々はもはや帰ってはこないのだ。
もはや、「明治は遠くなりにけり」の心持である。

そんな場合、思い出すのはやはりファミコン~スーファミの時期なのは世代のせいか。
私も年をとったということなのか。
きっと今の子らはポケモンですらやや古く感じるのであろう。
こちとらドラクエの3あたりがジャストで、Ⅰからやっているからなあ。

もはや、「古典」となったゲームというものがあるのではないかと思う。
言い換えると、ビデオゲームにおける「クラシック期」はあの時期だったのではないだろうか。
今見て、足さない、引かない、しかしこれはこれで楽しく遊べる=完成している、という作品がいくつもある気がする。
一例を挙げるなら、ドラクエ3なぞはそうであろう。

ゲームについてはもすこし考えたいので、これについては以後継続してやっていく。