自己犠牲を選ぶ日本人女性が多い理由
1970年代後半、私が生まれ育った所は、封建的な家父長制が未だに少し残っている土地で、小学生の頃から親戚の本家の法事の度に従姉妹(従兄弟ではない!)たちと一緒に手伝いをやらされていました。
法事の御膳の配置(汁物、香の物、ご飯等の配置)を覚えさせられ、お客に御膳を出したり、下げたり、洗い物をさせられていました。 仏壇だけの部屋などもあって、掃除も手伝わされました。
台所には、所狭しと業務用の炊飯器や大鍋が置かれ、親戚の大人の女性達が野菜や肉魚を切ったり茹でたり炒めたり、宛らお盆や正月のような賑わいでワイワイしていました。
従姉妹たちと雑談しながら洗い物をしたりお膳のセッティングをするのは嫌いではありませんでしたが、ふと畳の間の上座を見ると、同級生や上級生の従兄弟達が遊んでいたり、パクパクお膳を食べているのに気が付きました。
どうしてあの子たちは、何もしないであそこで寛いでるの?と親戚のおばちゃんに聞きました。 すると、
「男の子だからね」
と当たり前のように返されました。
その口調から、こんな質問するなと言われている空気を察し、今度は隣で洗い物をしている3つ年上の中学生の従姉妹に同じ質問をすると
「女の子は家の手伝いをするものよ。 男の子はやらなくていいの、男だから」
と、またまた意味不明の答え。でも、反対側で別の同級生の子が
「いいよね、男子は。何もしないでご飯やお菓子食べ放題だもんね」
と不満顔で答え、そうだよねーと皆で文句を言いながらそのまま洗い物をしていたと記憶しています。
思い出すと、その本家には4人の子どもがいて、一番上の長男(高校生)には大きな個室が与えられ、下の3人には2段ベッド付のそれより狭い部屋があてがわれていました。
明らかに嫡子(長男)とそれ以外の待遇を分けて接していました。
伯父母にしてみれば、将来自分たちの老後を見てくれる(であろう)長男を大事にするという風習を、そのまま戦前から引き継いでいただけなのでしょう。
後日談として、その兄弟は親亡き後、遺産分割協議で揉め裁判をすることになります。
それはさておき、当時は専業主婦率が9割以上の家族構成が殆どでしたから、そういう法事の場は、女性達の活躍の場だったのだと推察されます。
不公平だな……と思いつつも前述の通り私は”良い子ちゃん”だったので、学校での掃除当番の公平性(実際はサボりがちな男子に、注意するしっかり女子という構図でしたが)を考えながら、自分の属する社会のダブルスタンダードに気付き始めていました。
小中生の男子は、学校では男女平等のルールに従い、家では家父長制のルールに従う…。
おじさん達はずるいし、オバさん達は変だ。大きくなったら、ここでは暮らしたくない。
と、小学校高学年の段階で密かに考えていました。
私が郷里の男性ではなく、東京出身の不貞男と結婚したのはそういう理由があります。
今考えれば、それは自我の目覚めだったのでしょう。
しかし、その自我を打ち砕くような発言をまわりの大人の女性達はしていました。
「やっぱり、本気になると男子の方が成績も伸びるの早いのよね。」
「態度は控えめ、男を立てる献身的な女が最後は選ばれるの」
「女の子は勉強なんかできなくてもいいの。愛嬌と気配りが大切よ」
「下手に勉強ができすぎたら、男の子に敬遠されてお嫁に行き遅れるわよ」
なんたる女性蔑視発言のオンパレードでしょう‼️
しかも、女性自身がそれらを自分の娘や姪っ子等に刷り込んでいたのです。
女の敵は女、と言われる所以です。
今の私なら、皆まとめて論破してやる所ですが、それらの言葉はしっかりと子どもだった私の中に刻まれ浸透し、体の一部と化していったようです。
見捨てられ不安が深層心理にあった私は、愛される女になる事を意識せざるを得なくなっていたのでしょう。
男性に選ばれなかったら一人で生きていかなければならない、そして選ばれるためには献身的に男を支えなければならない、好きな男性を立てる事で相手から認められ愛される、という図式が無意識に完成されていったのです。
正に、男にとって(都合)のいい女、完成です。
幸か不幸か、私はやって当たり前の面倒な家事よりも、高得点を取ると先生に褒められる勉強の方が好きだったので、この不条理な図式に気付くことができたのですが、家事が大好きな人達は、今でもその洗脳に気づかず普通に生活していると思います。
だから、自己犠牲で頑張ってしまう女性が多く存在するのではないでしょうか。
でもこれは、日本だけで起きていたのではなく、世界中のあちこちで行われている、ある種の宗教活動というか洗脳だと思います。
次回はそれについて書きたいと思います。
サレ妻復活日記27 に続く